4-8 思い出
『あの、大于さん。やっぱり亞妃様の輿入れはなかったことに、とか考えてます?』
しかし大于は、意外なことに首を横に振った。
『言っただろう、リィは強いと。あれはもう、萬華国で亞妃として生きようとしている。それをまた私の勝手で戻せば、もう言い訳もできぬほどに、あの子に「自分は政治の道具だ」と思わせてしまうだろうさ。萬華国に嫁がせたのは、脚が不自由でもあの国では関係のないことだからだ。我らと違い、お主達の国では女が馬に乗る必要もあるまい。であれば、そこでならあの子も「普通」として過ごせるのでは、とな』
確かに百華園にいれば、馬に乗る必要など絶対にないし、干戈を自ら交える必要もない。北の地のような自給自足という概念は、
『その考えは今でも変わってはいない。どちらにしろあの子の心が辛くなるのであれば、私はお前のような――リィの為にこんなところまで来てしまう、大馬鹿者がいる場所にいてほしいと願うものさ』
聞いているこちらの胸が絞られるほどに愛されている亞妃を、月英は素直に羨ましいと思った。
同時に、これほどの愛情が伝わっていないことに、もどかしさも覚える。
『大于さんは、この話を亞妃様に伝えたことは』
ふ、と大于は鼻から息を漏らした。
そうして、ゆるりと月英に向けられた彼の顔は、どこかもの寂しそうであった。しかし、ただ寂寥だけを目尻に滲ませているわけではなく、同じ場所には安堵のようなものも見える。
『いつからだろうか……あの子が、私の袖を引かなくなったのは……』
空に呟いた独り言は、朝風に消える。
『親の手を自ら離して歩む子に、どうして親の一方的な想いなど告げられようか』
『でも、言わなきゃ伝わらないじゃないですか』
『親の言葉は、手を離れた子にとっては余計でしかないのだよ。親とは、己が道を歩み行く子の背中を見守ることしかできぬ。どうか、この子の行く先が幸せでありますようにと、願うだけなのだ』
『そんな……僕には分かりません』
親子の正しい形どころか、一般的な形すら持たない月英では、大于の言葉を理解するのは難しかった。
『月英と言ったか。あの子を頼む……甘ったれな、あの子を』
『……どうしても、自分の口で伝える気はないんですか』
唇を尖らせてまだ食い下がる月英に、大于は苦笑する。
『であれば、あの子に一つだけ届けてはくれぬか』
大于は、馬の背にくくりつけていた荷物から、横長く飛び出していた弓を引き抜き、月英へと手渡した。
『言葉は?』
『いらぬよ、それだけで伝わる。伝わってくれる……あの子は、私の子だからな』
面映ゆそうにしつつも、歯を見せて豪快に笑う姿は、まるで少年のように無邪気だった。そんな満足そうな笑みを見せられては、何も言えなくなってしまうではないか。
月英は『確かに』と、受け取った弓を胸に丁寧に抱いた。
あれだけ大きかった大于の身体が、月英には少しだけ、ほんの少しだけ小さくなったように見えた。
『もう…………あの子が、私の袖を引くことはないのだな』
呟いた大于の顔は月英と反対側の空へ向けられており、その表情を見ることはできない。
ただ時折、ズッと鼻をすするような音が聞こえていた。
まだ朝方だ。寒さに鼻をすすることもあるだろう。
『願わくは、あの子の……リィの行く先が希望に満ちることを』
目の前に広がる眩しいばかりに輝く白は、神に祈るには相応しい光景であった。
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