3-4 やっぱりこの爺は侮れない

 呂阡は龍冠宮を出て、はかどらない足取りで内朝を歩く。

 いつもなら「ふう」と一息をつくところ、今、口から出るのは「はあ」といった溜め息ばかり。


『呂内侍、オレ、狄に行ってきます』


 春万里は急にどうしたというのか。

 自分と一緒で、あれほど異国融和策など面倒だと言っていた者が、まさか異国に行きたがるとは。


『これ以上……オレだけ取り残されるわけにはいかないんです……』


 理由を聞いても、ようとして分からない。

 取り残されるとは、何のことを言っているのか。

 呂阡は、こめかみを強く押した。ズキリと走る痛みは頭痛からか、はたまた、こめかみを押しすぎたせいか。


「原因は何だ……何が春万里を変えようとしている……」


 ボソボソと呟くが、もう呂阡の問いに答える者はいない。

 呂阡は己の記憶に問い掛け、またそこから答えを探した。


「……亞妃様か……それとも……」


 呂阡の口角は、両端に重石でも引っ掛けたかのように下降していく。

 すると、重石などとは無縁の軽妙な声が飛んできた。


「おお、こりゃこりゃ、呂内侍。不景気な顔は相変わらずじゃのう」

「これは、そんちゅう


 白黒頭が特徴的な朝廷官吏の長――孫二高であった。

 さいけいしょうに代わり、この年より新たな門下省侍中役に就いた孫二高。前任の蔡京玿と共に、先代皇帝の左右と言われた辣腕寵臣であり、今なおその権力は衰えていない。

 しかし同じ寵臣といえど、屈強頑健といった風情の蔡京玿とはまた異なり、彼は水のように捉えどころがない、と呂阡は孫二高のことを評している。


「して、何か困りごとかの。そのような顔をして歩いておると、また官達が震え上がるぞ」


 どうやら、『氷の内侍』というありがたくもない異名は、下だけでなく上にも轟いていたようだ。

 いつもの呂阡ならば、適当に茶を濁して去るのだが、不意に現れた、自分の悩みに答えてくれるかもしれない貴重な存在に今は縋りたくなった。


「……近頃、部下の様子がおかしくて。掌を返したとまではいかないまでも、返しそうになっている……というような感じで」

「ほう、面白いことになっておるな」

「全く以て面白くないですよ。私の右腕にと目を掛けていたというのに」

「お主は保守派じゃからのう……原因に心当たりはないのか?」


 融和策を肯定する孫二高に保守派と言われ、気まずさに息を呑む呂阡。

 しかし、孫二高はそこを掘り下げるつもりはないのか、意に介した様子もなくさらりと流した。呂阡も藪蛇は望まず、質問にのみ答える。


「亞妃様の治療に際して、随伴役をさせてから……かもしれません」

「呈太医の随伴か?」

「あ、いえ……香療師の陽月英の――」


 突如、噴き出す勢いで孫二高が笑いはじめた。


「だははははっ! そりゃもう諦めい、呂内侍! じきにその部下は掌を返すじゃろて」

「そんな憶測で……一時の気の迷いだってこともありますよ」

「無理じゃ無理! あの者に関わって変われぬ者などおらんさ。ははっ!」

「断言とは、妙に肩入れするのですね。あの異色に」


 呂阡が皮肉って言ってみせるも、孫二高は笑いに口端を引きつらせたままである。それがまた無性に腹立たしく、呂阡の瞳の温度も下がっていく。

 一体あの香療師に何があるというのか。


「おーおーそんな目で睨まんでくれ。凍えてしまうわい、氷の内侍殿」

「……ご冗談に付き合う暇はありませんので、これで私は失礼しますよ」


 こめかみを強く押さえ、嘆息する呂阡。今日一日でどれだけ押したか。

 しかし身体を返そうとすれば、これこれ、と孫二高が手を伸ばして止める。


「知りたいのなら、お主もその異色に関われば良いじゃろ。それをせんのなら、グダグダくだ巻いとらんで、大人しく部下が変わっていくのを認めい」

「……面倒な者には関わりたくありませんので」


 噂で聞く限り、自分とは合いそうもないことは分かっている。わざわざ自ら関わって、苛つきたくもない。


「さてはお主、変わるのが怖いのだろう。まあ、わからんでもない。なんたってあの者は、クソ石頭の京玿すらも変えてしまったからな。何をされるのか分からぬ、未知な怖さがあるのう」

「クソ石頭……蔡京玿殿がお知りになったらドヤされますよ」

「奴がワシをドヤしたところで、痛くも痒くもないわ」


 まあ、そうだろうな、と変に納得してしまった。


「あやつ――京玿にも言ったが……あ、いや言ってはないか? ん、まあ、そんなことはどうでもいいが……変わろうとしない者は変われんよ。もし、部下が変わりはじめたと感じたんなら、その者は自らの意思で変わろうとしておるのじゃろうて。くれぐれも、上が下の邪魔をしてはならんぞ?」

「邪魔など……しませんよ」


「なら、よろしいわ」と孫二高は、「はっはっはっ」とまた軽妙な笑い声を高らかに響かせ去って行った。

 その背を見送りながら、広々とした内朝の石畳の上、一人残された呂阡は溜め息と共に頭を掻いた。


「はぁ……面倒臭い……」

 

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