3-1 貧乏人に贅沢品は敵なんだって!

 背後でギギギと重鈍な音を立て、一際立派な門扉が閉じられる。

 真ん中で二枚の扉が隙間なくきっちりと合わされば、隙間から押し出された空気を最後に、萬華国の香りは消えた。

 たった今閉ざされた扉は、萬華国に北接する狄との境に立つ『穿せんかん』のそれである。

 王都である祥陽府を出て早一週間。

 月英達は、ようやく萬華国の外の地――狄に足を踏み入れた。


「うっわぁ! 一歩出るだけで随分と変わるもんだね」


 目の前に広がる、建物一つない見晴らしの良い景色に、月英は声を上げながら駆けまわる。

 萬華国にも邑と邑の間は広大な大地が広がっているのだが、それは結局、果てのある塀の中の一部でしかない。

 だが今、月英が目にしている世界はまるで違った。

 大地を区切る城壁など一切なく、大空を狭める屋根などもない。歩きやすいようにと整備された道もなければ、行き交う人影すらない。

 遮るもののない空間を風が心地よさそうにはしり、地面は緑と黄土が斑模様に色づける。遙か遠くには冠雪したなだらかな山影を見ることができ、空高い場所でトンビが鳴いた。

 ただあるがままの自然が、そこには息づいていた。

 月英は初めて見る世界に目を輝かせ、興奮に声を弾ませた。

 すると、その興奮に揺れていた肩を押さえる手が。


「おい、あんまり騒ぐなって。陛下にも目立たず行動しろって念押しされてただろうが」

「そう言う万里だって、声がうるさい」


 月英は両手で耳を塞いで、小煩い親を見るようなじっとりした目を万里に向けた。


「そんなに心配しなくて大丈夫だって。だって、これだけ広いんだよ。少しくらい騒いだところで、誰が気付くっていうの」


 見ろ、とばかりに両手を広げ、月英は雄大さを全身で示す。


「ね、春廷もそう思うよね!」


 月英は、万里のさらに後ろ――まだ門扉のところで佇んでいた春廷に声を投げた。

 突然、話題を振られた春廷は肩を揺らし、しどろもどろになる。


「え……あ、えぇそうね。お昼はさっき買った肉末焼餅そぼろまんじゅうにしましょうか」

「春廷……話、聞いてなかったでしょ」


 春廷のいつもの堂々とした様子はすっかりとなりを潜めていた。


 ――まあ、仕方ないよね。


 月英は隣で、目の上に手で庇を作り、「うっはー!」などと感嘆を漏らしている万里を窺った。


 ――春廷には、ギリギリまでもう一人の同行者が誰かって黙ってたし。


 春廷は自分のことを、万里を傷つける存在だとして自ら距離を置いている。もし一緒に旅をすると分かったら、彼の場合、自分の目的を我慢してまで万里を優先する可能性があった。


 ――それじゃあ、意味がないんだよねえ。


 少々強引すぎるかとは思ったものの、このままだといつまで経っても進展しなさそうなので、少しお節介をすることにした。


「それより、多少はしゃぐのも仕方ないけれど、荷物だけはしっかりと守りなさいよね。ここはワタシ達にとって未知の世界なんだし、何があるか分からないわ。それに万が一の時、手ぶらで商人だなんて言っても信じてもらえないわよ」


 春廷のもっともな忠告に、月英は背負っていた荷袋の紐を、胸の前できつく結び直した。

 最近まで周辺国を対等国ではなく、属国として扱っていた萬華国。

 しかも国の門扉は固く閉ざされ、他の文化を排斥し続け、外からは一切の内情はようと知れないときている。

 そんな萬華国の民を――特に王宮に仕える者達とくれば尚更、周辺国の民は決して良い顔で迎え入れないだろう。

 下手をすると、矛先を向けられる可能性すらある。


「確かに商人のていだったら、新たな交易品を求めてって理由で見逃してもらえるかもしれないしね。さっすが春廷、頭良い!」


 春廷の策に拍手を送れば、隣で万里が鼻を鳴らしていた。

 気に食わないというより、どうやら拗ねた様子である。


「……万里も頭良いよ、多分」

「多分ってなんだよ、失礼なやつだな。……っつーか、やっぱり祥陽府に比べるとまだまだ寒いな」

「もう春のはずなんだけどねえ。心なしか、萬華国の北部より寒い気がする」


 さすが北の大地、と月英は分厚いかわごろもの前をきつく閉じた。

 裘は、獣の皮で作られた外套である。

 萬華国の王都は初春を迎えていたが、北部に行くにつれ残冬の気配は濃くなっていった。すっかり春の格好しか念頭になかった三人は、慌てて道中で裘をこしらえたのだ。

 息をするたびに、空気が今身体のどこを通っているか分かるくらいには、北部は寒かった。

 月英は生まれて初めて裘というものに袖を通したのだが、これが癖になるくらいに暖かい。この暖かさを知ってしまった今、冬はもう裘なしには過ごせないかもしれない、と胸の内では戦々恐々としている。


「くぅ……贅沢品は貧乏の敵だってのに」

「いや、医官だし貧乏って程じゃないだろ」

「月英、今はどこに住んでるの? 以前は下民区だって言ってたけど……まさか、まだそこに住んでるわけじゃないわよね。官舎?」

「え、まだ下民区にいるよ」


「何で!?」と、春兄弟が声を揃えた。

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