2-11 なんて目をしてるの

「亞妃様も君も終わったつもりになってるけど、僕はこれで終わりにするつもりなんてないから。あんな言葉、亞妃様の本心から出たものじゃないって」


 まだ何かが彼女の口を塞いでいた。

 その何かを取り払わなければ、彼女は真に言葉を吐けない。


「いやいやいや、オマエなあ……」


 万里は腰を折るほどの溜め息をつくと、キッと月英を睨み付けた。


「オマエがどう思ってようと、あのお姫様本人がもう良いって言ってんだよ! オマエにあのお姫様の本心なんか分かんねえだろ!」

「分かるよ!」


 亞妃の、内に抱えるような頑なさには覚えがある。


「分かるよ……あれは昔の僕だから……」


 自分を諦めたときから、状況に対して抗いではなく折り合いを付けようとしていた。

 胸にわだかまる感情から目を背け、蓋して、理解し(わかっ)たふりして、心の奥底に押し込んで二度と浮上してこないよう、重石をつけて沈ませた。

 そうして出来上がった自分は、全てが麻痺していた。

 悲しささえ当たり前になって、その内何も感じなくなっていった。笑っていても、空を見上げても、がらんどうの心には何も響かない。


「彼女は、抱えていた想いを、過去を切ることで一緒に葬ったんだ。『亞妃』として生きていくために。それこそ、後ろ髪を引かれる思いってのを、前に進むために後ろ髪ごとバッサリと……彼女は強いよ」


 亞妃は、あのままずっと首を横に振り続けることもできた。もういいと言って、月英達を拒否することもできた。

 しかし、彼女はそれをしなかった。

 自分は迷惑を掛けている――そう言った彼女は、あの場にいた誰よりも優しい。

 だからこそ過去の話をして、自分達に終わる口実を与えたのだ。

 話したからスッキリした、という見栄えの良い理由を作ってまで。


「亞妃様の優しさに、僕が甘えるわけにはいかないんだよ」


 傷だらけで笑う彼女に、これ以上傷を作らせるわけにはいかなかった。


「そして何より、僕が亞妃様のことを好きなっちゃったんだもん。懸命に前に進もうとする人を、好きにならずにはいられないよ」

「オマエ、何で……諦めないんだよ……」


 ここで月英は、多くの人に手を差し伸べられてきた。

 差し伸べてくれたからこそ、今こうして浅葱色を身に纏えているのだ。決して一人ではここまでやってこられなかった。やろうとは思えなかった。


「僕に初めて手を差し伸べてくれた人は、諦めなくて良いって言ってくれたんだ」


『胸を張れ、弟。俯くな』――いつかの彼の言葉が思い出され、ふっと笑みがこぼれる。


「……まったく、誰が弟ですか……」


 ポツリと呟いた独り言は、口の中で溶けて仄かな甘さを残す。

 彼の言葉は、今の月英の芯となっている。

 たった二本の足で立つ為の、柱とも言える強靱な芯に。


「手を差し伸べてもらった僕が、彼女に差し出さない理由なんてない。僕は彼女のために何かをしたい。力になりたいんだ! 彼女の心の底から笑った顔が見たいんだよ!」


 過去を捨てて立てる人間などいない、と月英は思っている。

 月英が彼らと出会えたのは、過去があったからだ。それがどんなに辛いものでも、過去が一つでも欠けていれば、巡り会えなかっただろう。

 彼女には、どうか過去を捨てるのではなく、過去と共に立ってほしいのだ。

 月英の訴えるような叫びに、万里の足が自然と一歩退がる。

 何か言いたそうに口を開くも言葉にはならず、戦慄わなないた後グッと唇を噛む。


「じゃなきゃ、僕は香療師として胸を張れなくなる」


 言ってから月英は、つい熱くなって声を大きくしていたことに気付き、あたふたと気忙しそうに視線を戸惑わせた。


「――って、あはは……ごめん。急に大きな声出しちゃって……これじゃ、この間の君を怒れないや。また女官達が駆け付けたらどうし…………万里?」

「何で……オマエは諦めないんだよ……っ」


 申し訳なさそうに月英が視線を戻した先。そこにあった万里の表情を見て、月英は声を失った。


「どうしてだよ……っ!? 頼むから、諦めてくれよ! じゃないと、オレだけが捨てられたみたいだろ!? オレだけが……っ」


 そこには、彼が悲鳴染みた声を叫んだ時と同じ顔があった。怒りをぶちまけているように見えて、その実、彼の表情は悲しさで溢れていた。


「オレには、手なんか差し伸べられなかった……っ!」


 今も同じように下瞼に力を入れ、堪えるように口角を下げている。


 ――ああ、そうだ……。


 意地っ張りな春万里。


 ――僕は彼のこの顔を、置いて行かれた子供みたいだって思ったんだ。


 本当は、『置いていかないで』『寂しい』と口にしたいのに、強がって『いーもんだ』とわざと天の邪鬼な事を言う、しょうがない子供によく似ている。


「もうきっと……アイツはオレのことを弟とすら思ってないんだ……」


 自嘲していたが、腕を抱いている彼の手は、爪が食い込むほどに握られている。

 この期に及んで、彼が誰を脳裏に思い描いているか聞くのは、不粋というものだろう。

 月英は、春兄弟がすれ違ってしまった原因が分かったような気がした。


「万里、君は真面目だよ。真面目すぎて、思い込んだらそうとしか思えなくなるくらいに。でも、亞妃様の件で少しは分かったんじゃないかな。人って、自分の思っていた姿が全てじゃないって事」

「でも……」


『でも、アイツもそうとは限らないだろ』と、万里の目は言っていた。

 向けられた目には、いつもの高圧的な強さはなかった。眉を下げて月英の言葉を待っている。『そんな事はないよ』と否定してほしそうに。

 雨に濡れた子犬のような、わびしさを纏う万里。

 なぜ春兄弟が大きくすれ違ってしまったのか、月英はようやく理解した。

 ここで彼に先日の春廷の言葉を伝えるのは簡単だろう。きっと少しは、彼の心を慰めることができるだろう。しかし、それで終わりだ。

 それでは二人はすれ違ったままである。

 春廷は離れて見守ることを愛とした。

 万里は迎えに来てくれることを愛とした。

 互いが互いの場所から動かないことを選んでいれば、そりゃあ交わらないだろう。


「君達の間に何があったかは知らないけどさ、もう少し、自分からでも歩み寄ったら良いと思うよ」


 万里は、素直に『うん』とは言わなかった。

 しかし、それすら予想できていたことで、月英は万里という人間をわかり始めている自分に思わず苦笑してしまった。


「万里、人は変われるんだよ」


 やはり彼は頷きはしなかった。

 ただ痛みを慰めるように、爪を立てていた腕を緩く撫でていた。

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