2-10 諦めないね
最後、芙蓉宮を出るとき、振り返った月英が見た亞妃は笑っていた。
亞妃は大丈夫と言った。実際、最初に訪ねたときよりも笑みの弱々しさも抜け、表情も柔らかくなっていた。
であれば、香療師として依頼された仕事は終わりだろう。
しかし、月英の表情は依然として晴れはしなかった。百華園の道を歩く足取りは鈍い。
「……納得いかない」
「何が? お姫様はもう大丈夫だって言ってただろ」
進まぬ月英に、万里も倣って足を止めた。
片眉をグイと上げ、わけが分からないとばかりに月英に怪訝な目を向ける。
「それはそうだけどさ……」
でも、と月英が不満足が残る目で万里を見返した時だった。
「きゃっ! やだもうー」
女人特有の甲高い嘆声が聞こえたのは。
驚きに月英と万里が声がした方――目の前に伸びる道の先へと目を向ければ、女人が二人して立っていた。格好から言って、どこかの宮の侍女だろうか。
今まで女官とは何度かすれ違うこともあったが、芙蓉宮以外の侍女を見るのは初めてである。
月英は、彼女達が眉を顰めて足を止めた理由が、自分達が通行の妨げになっていたからだと思った。だから月英は、道の端に避け彼女達に道を空けた。
同じく、万里も月英同様に道を空けて並んでいる。
女が嫌いだと言うわりには、こういった配慮はするのだな、と月英は少しだけ万里を見直す。てっきり、彼は女性恐怖症的ななにかだと思っていたのだが、もしかすると彼の態度には何か理由があるのかもしれない。
そんな事を隣の万里を横目に捉えながら思っていると、目の前を侍女達が通り過ぎていく。
「あーあ、最悪なのに会っちゃったわ」
「今日の私達の運勢最悪ね」
すれ違いざまに、ぼそりと呟かれた女官の声には軽蔑があった。
「鼠は鼠らしく、下民区だけを這い回ってればいいってのに」
月英と万里、どちらに向けられた言葉なのか明らかだった。
クスクスとした嘲笑が向けられる。
「まさか高貴な妃妾様達の住まう百華園に、変な色の鼠が二匹も出るだなんて……あぁ、いやいや。今度からこの宮の近くを通るときは、注意しなきゃだわ」
綺麗な薄絹の裾を翻す彼女達の口からは、綺麗とは言い難い言葉が発せられる。
悪意を淑やかな声で誤魔化した彼女達は、最後に月英を嘲弄の目で一瞥すると、袂の下でせせら笑いながら行ってしまった。
彼女達の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、月英がきょとんとした顔で眺めていれば、隣からはチッと忌々しそうな舌打ちが聞こえた。
「これだから後宮の女は嫌いなんだよ……おい、こんなの気にするんじゃないぞ」
月英は目を丸くして、万里の顔を凝視する。
「な、なんだよ……」
「いや……まさか、君から慰めの言葉を貰えるなんて思ってなかったから」
「はあ? なんだよそれ」
万里は呆れたように目を半分にしていたが、今までの態度から驚くなと言うほうが無理があるだろう。
「もしかして、万里って根の根は良い奴なの?」
「根の根って深すぎるだろ」
「はえてる幹はひん曲がってるけど、もしかしてすっごい深い、見えない根っこの部分はマシなのかなって」
「失礼にも程があるだろ」
とは言いつつも、彼にも思い当たる節が多々あるのだろう。語気に批難の色はない。
「……オレだって、誰彼構わず嫌いだなんだって思ってるわけじゃないんだよ」
「じゃあ、どうして後宮の人達は嫌ってるの」
万里は、背にしていた壁にトンともたれ掛かった。
空を見上げる彼の横顔は、やはり彼の兄に似ている。
「無駄なことで時間を浪費する奴が嫌いなんだよ。生きられるのに、自分のために生きようとしない奴を見ると、堪らなくなるんだ。その無駄にしてる時間は、誰かの生きたかった時間かもしれないんだぞ……って」
彼の言い方は、まるで誰かと彼女達とを比べているような口ぶりだった。誰か――恐らくは生きられなかった人とを。
彼の、後宮の女の人達に対する態度は、やはりただの好悪ではなく彼なりの理由があったという事だ。
空を仰ぎ遠くを見つめる万里の眼差しは、雲ではなく、彼にその理由を与えた人を見ているようにみえた。
月英も同じく、流れ行く雲を目で追いながら耳を傾ける。単純な話に終わらないことを察し、月英も壁に背を預け楽な姿勢をとる。
「じゃあ、亞妃様は君が思ってたような無駄に生きてる人だった?」
「……それは……」
月英の意図するところが分かったのだろう。
万里の口が、もご、と気まずそうに動いた。
「君にも何かあるんだろうけど、だからって最初から色眼鏡で皆を見るのはどうかと思うよ。見えてる姿が、その人の全部だなんて事はないんだから」
「オレよりガキのくせして言うじゃねえか」
「君より、よっぽど色んな人を見てきたからね」
万里は眇めた目で月英を見つめた。
何でもないような平坦な言葉だったが、たったそれだけの言葉に、どれだけの事が凝縮されているのか。横顔に見える碧い瞳が、決して月英に簡単な人生を歩ませてこなかった事くらい、万里でも容易に想像がつく。
「…………悪い」
ぼそりと呟かれた万里の言葉に、月英は目を大きくした。しかし、すぐに目を細めて苦笑する。
「やっぱり、君は根は良い奴なのかもね。真面目すぎるってだけで」
「はあ? オレが真面目?」
「ああ、そう思えば君と亞妃様はよく似てるね」
「どこがだよ。オレはあんなジメったくねえ」
「感情の出し方が真逆なだけで、二人共すごく真面目だよ。亞妃様は自分の感情を内に我慢するし、君は外に向かって理解しろって叫ぶ。自分の想いに対して真面目だからこそ、二人共頑ななんだろうし。あっ、だったら二人足したらちょうど良いかもね」
手を打って、良い考えだと表情を輝かせた月英を、万里は胡散臭そうに一瞥した。
「何がちょうどなんだよ。ま、似てようが似てまいがもう役目は終わった事だし、そうそう会うこともないだろ。やったね、これでオレもオマエの随伴役御免だ」
「やだね」
「は?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます