2-9 もう充分です

 萬華国が『狄』と呼ぶ北の大地。

 そこには多くの部族が、それぞれの生活共同体(群れ)を成し、遊牧生活をしている。

 山羊や羊を飼い交易品にして生活する群れもあれば、馬を調教し、軍馬として他国へと卸すことを生業とする群れもあった。


「わたくしは、『烏牙石耶』の子――二男三女の次女として生まれました」


 各部族には長と呼ばれる族長がいて、群れの方針や生活の全ての責任を負っている。その責任は当然の如く、族長の息子や娘にも及ぶことになる。


「わたくしたち北の民の結婚は、きっと萬華国に比べると早いのでしょう。十三で成人すれば、妻を娶れますし、嫁げもします。二人の兄もわたくしの年の頃には、すでに妻を二人ずつ娶っておりましたし、三つ下の妹も四年前にはもう、他部族へと嫁いでおりましたから」

「えぇっ! 三つ下の妹姫が四年前に結婚って……え、ええっと……ん?」


 月英が、狄の婚姻の違いに戸惑いながら指を折っていると、後ろから「十四だな」と、万里が間髪入れずに答えてくれる。

 その数字にまた月英が「ひえぇ」と驚きに声を漏らす。

 素直な月英の反応に、亞妃は微苦笑を浮かべた。


「北ではこれが普通ですわ……ですから、わたくしのこの二十一というのは、異例と言っていいほどなのです。わたくしだけが、この歳になるまでずっと一人でした」


 他部族との結びつきの強化、文化の平準化、政治的、軍事的統合など、族長の子らの婚姻には、それだけの大きな意味と価値が生まれる。

 しかし亞妃だけは、その意味も価値も生み出すことが出来なかった。

 月英は躊躇いつつも亞妃に問いかける。


「その……亞妃様だけ……だったのは何か理由でも」


 亞妃は大腿を撫で「脚が」と呟いた。

 しかし、それに月英は首を傾げる。

『脚が悪い』ということなのだろうが、しかし彼女は、いつも普通に部屋の中を歩き回っている。見送りに、と扉まで出てきた時の様子を思い返しても、不自由している様子はなかった。


 亞妃は、顔を万里へ――否、彼の隣にある窓へと向けた。

 小さな窓から見える景色を、飾り格子がまた一段と見えにくくしている。

 それでも亞妃は、小さな隙間から見える景色に目を凝らす。しかしその瞳は、芙蓉宮ではない、どこか遠い所を見ているようにも月英には見えた。

 視線を追いかけて、月英と万里も窓の外に顔を向ける。

 朗らかな陽気に鳥の囀り。あたりには平穏が満ちていた。

 そうして、三人の気配が春の暖かさに溶けて、空気に染み込みそうになった時、亞妃がようやく言葉を発する。


「馬に乗ることが出来ないのです……この不自由な脚では」


 遊牧民である北の民は、すべからく乗馬技術が必要となる。

 歩くよりも先に馬の駆り方を学ぶと言われるほどに、北の民にとって馬に乗ることは、息をすると同じく生きる術の一つであった。


「日常生活に困らない程度には歩けるのですが、走ったり……脚の繊細な力加減で、馬へ意思を伝えなければならない乗馬などは、到底無理なのです」


 乗馬が出来ないとなると、それは遊牧民である北の民にとっては致命的であった。

 当然、そんな亞妃を嫁に出すことも出来ず、余所の部族も娶りたいとは言わなかった。族長の娘として与えられた、婚姻による他部族との関係強化という役割すら果たせない亞妃は、手に余る存在だったのだろう。

 それでも、部族の者達は亞妃に優しかった。

 のけ者にするでも、役立たずと罵るでもなく、皆心優しく亞妃に接した。亞妃も馬や幼子達の世話、家事など、部族の役に立てる事は率先してやってきた。

 しかしやはり、いつもどこか惨めな思いは拭えなかった。いつしか向けられる笑みも、差し出された手も、同情としか思えなくなっていた。

 どこまでいっても、自分は他の者達とは違う。

 広い大地を自由に駆け回れる民こそ、北の民である。

 であれば、駆けられない自分は北の民ではない。


「北にわたくしの居場所はありませんでした。女といえど北で必要とされるのは、いざという時に馬を駆り、家族を守るために剣を手にして、敵に立ち塞がれるような強さを持った者なのです。わたくしは、それが出来ません。誰かのために駆け付けることも、自分の身を守って逃げることすら……」


 北の地に安住という言葉は存在しない。

 季節に寄り添い、摂理に従い、弱肉強食を生まれた瞬間から叩き込まれる峻厳な北では、亞妃の存在はあまりにも枷となり得た。


「この歳までひとり身なのは、誰もわたくしを必要としなかったからなのです。父も同じですわ。今回の事だとて、わたくしを持て余していたところ、ちょうど良い捨て場を見つけたというところでしょうか」

「亞妃様……」


 自嘲気味に笑った亞妃を見て、月英は掛ける言葉を見失った。

 月英は、狄について何も知らない。

 遊牧で暮らすということも、馬に乗るということも。彼女がどんな思いで見知らぬ土地に嫁いできたのか、嫁がなければならなかったのかも。


「本当は、誰かの役に立つ存在でありたかった……こんなわたくしでも、誰かの何かでありたかったのです」


 亞妃の手が、はじめて月英の手を握り返した。

 それは指先だけの、ささやかな強さではあったが、それでも確かに彼女の意思だと月英には感じられた。


「――ですので、こうして萬華国と北とを繋ぐ架け橋になれて良かったのです。わたくしにも、『亞妃』という大切な役割が出来ましたから」

「……本当ですか?」

「……そうですね。心残りがあるとすれば、北にさよならを言えなかった事なのでしょうが……」


 言っていれば、もっと前向きに百華園(ここ)で過ごせていたかもしれない。後ろ髪を引かれる思いに、寂しさを抱かずに済んだかもしれない。しかし、もうそれは叶わないと亞妃は知っている。


「きっと父は、わたくしが再び北の大地を踏むことを許しはしないでしょう。そのような弱い娘……下手をすれば、せっかく繋がった萬華(この)国との橋を、壊すような事になりかねませんし。もう……忘れることにしますわ」


 小首を傾げ肩を上下させた亞妃の姿は、子供のような茶目っ気があり、それと共に部屋の空気も軽くなる。


「ありがとうございます、気に掛けていただいて。きっと、わたくしの様子が塞ぎ込んで見えたのは、慣れない環境に緊張していたからですね。それもこの良い香りが取り払ってくれましたし、これから先はもう大丈夫ですわ」


 亞妃の語調が、話を切り上げるためのものに変わりはじめる。


「亞妃様、どうして僕達に、こんな大切な話を聞かせてくれたんですか」


 握っていた亞妃の手が、スルリと月英の手の中から逃げた。


「……香りにつられて、気が緩んだせいでしょうか。少しだけ、過去のわたくしを、誰かに知っていてほしくなったのかもしれません」


 亞妃は、扉に目線を向け、月英にもう一度礼を言った。


「おかげで心が軽くなりましたわ。もう、これで充分です」


 それは暗に、もうこれで終わりにしてくれと言っていたのだろう。しかし、月英は中々立ち上がらなかった。

 月英は亞妃に声を掛けようとしたものの、先に空気を察した万里が、無理矢理に月英の腕を引っ張ったことにより、月英は何も言えずに芙蓉宮を去ることとなった。

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