１－５ 氷の内侍
気を抜けば、勝手に腹の底からせり上がってきた疲労感が、口から溜め息に変換され垂れ流される。別に誰かに構ってほしくて、こう何度も嘆息しているわけではない。自分に課された問題を考えようとすると、勝手に出てくるのだから仕方がないというもの。
まったく、面倒なことだ。
しかし予想外に、自分の嘆息に興味を示した者がいた。
「あれ、呂内侍、どうしたんですか？ そんな鬱々した顔して……人相最悪ですよ」
長官である自分に与えられた、内侍省の房と続きになった特別室。
そこへ、開け放っていた扉を一応の体で叩き、年若の内侍官が入ってきた。
「……一言余計ですよ、
年若の内侍官――春万里に、
三白眼なこともあり、呂阡の睥睨は向けられた者に冷や汗をかかせると、官吏達の間でも有名である。日常的に接する内侍官達ですらその眼差しを恐れ、なるべく呂阡の感情を逆撫でしないように接している。
官吏達の間で秘やかに、呂阡が『氷の内侍』と呼ばれる由縁だ。
だというのに、目の前の春万里という男は、汗など決して流れていないだろう涼しい顔していた。それどころか、呂阡の顔を、楽しそうな笑みを浮かべ、正面から眺めている。
「当ててあげましょうか」
「何をです」
「呂内侍のその溜め息のわけを」
呂阡は片口をつり上げ、眉を上げることで是認を示す。実に挑発的な了承であるが、春万里は少しも怯まない。
彼の思案時のクセである喉元を緩く引っ掻く動作を、呂阡は目を細め見つめた。その指先が動きを止めた時、春万里の口が動いた。
「そういえば、昨日、陛下の側近の方が来られていましたよね。きっと、狄のお姫様絡みでしょ。それで、その側近の方の用件がまた、後宮妃達が騒ぐようなものだったとか」
呂阡は、肯定の言葉を溜め息で返した。
「ただでさえ、異国の姫が入ってきて、他の後宮妃達は色めきたっているというのに、これ以上下手に刺激しないでほしいものですがね……今日より呈太医に変わって、亞妃様の治療にあの医官が就くそうです」
『あの』と言った時、呂阡の上唇が僅かにめくれ上がったのを、春万里は見逃さなかった。
その表情と、彼が保守的思想の持ち主だということを勘案すれば、『あの医官』というのが、誰を示すのかは瞭然であった。
春万里が「ああ」と得心した声を出す。
「太医院に新設された、香療師とかいうやつですね」
「陛下が来ないなら来ないで、後宮妃達は上手く纏まっていたのです。それは誰もが横並びであったからで、誰にも自分は劣っていない、という彼女達の高慢な自尊心を決して崩さなかったためです。しかし今回、それが亞妃様によって崩されそうになっており、その上、陛下のお気に入りと噂の香療師まで現れる始末」
「はは、百華園にも暗雲が立ち籠めますか」
半年前まで、その暗雲が立ち籠めていたのは朝廷だったというのに。
「暗雲程度なら御の字ですよ。これはきっと……雷雲ですよ」
眉間を揉む呂阡の背が丸くなっていくのを、春万里は肩を竦めて、同情に薄く息を吐いた。上の者は大変だなと。
「一年近くも使っていなかったというのに、急に新たな妃を入れるなどと…………だから、異国融和策など僕は反対だったのですよ」
呂阡は「実に愚かしい」と口を動かさず呟いた。二人の間でしか聞き取れないような極小さは、それが朝廷――ひいては皇帝である燕明批判に繋がるからである。
春万里も静かに頷き返すに留める。
「今まで上手くいっていたのです。変える必要などどこにもない。……凪いだ湖面に一滴でも水を落とせば、波紋は湖面全体に広がる。一滴ならば、まだ波紋も綺麗なものですが、二滴となると、それはもう波乱です」
「お察しします、呂内侍。オレには百華の蔦が芙蓉に絡みつかないよう、病だと嘯くことしか出来ませんが」
「充分ですよ」
呈太医の診断書には、亞妃は『身体の病ではない』とはっきり記されている。『心の病である』と。
しかし、
誰もが今回の入宮には、政治的思惑が絡んでいる事に気付いているだろう。それは何も政治に関わる官吏だけに限らない。政治の裏場でもある後宮に住まう彼女達も、当然のごとくだ。
『病であれば、陛下は訪ねられないから安心』――そう思わせておく必要があった。少なくとも、亞妃の調子が普通と言えるほどに回復するまでは。
「……ついでに、いつまでも『病』が治らなければ、丁度良いんですがね」
春万里の呟きに、何が『丁度良い』のかを呂阡はすぐに理解した。
春万里は『香療術でも亞妃の調子が良くならず、そのまま衰弱してくれれば、異国融和策の象徴でもある亞妃と香療師を放逐できる』と言いたいわけだ。それは、香療術は役立たずだったとの証明になり、不健康を理由に亞妃は狄へと突き返す口実となる。
そうすれば、何もかも元通りだと。
実に、上司の思考を緻密に読んでくれる部下である。
呂阡は片口だけをつり上げ、歪な笑みを浮かべた。
一方、そのような事を言葉の裏で呟いた当の本人は、眉一つ動かさぬ顔して窓の外に目を向けている。
その静謐な眼差しは、まるで往年の貴人のような風格すらあった。
烏の尾のようにうなじで短く結われた短髪や、氷の内侍にすら物怖じせず発言する姿は、彼に闊達な印象を与える。が、横顔に漂う、凪いだ気品こそが彼の本質であることを、呂阡は知っている。
呂阡は、春万里のこの頭の良さと強かさが気に入っていた。
奇妙な経歴を持つ彼が内侍省に配属されたのは、つい一年前――彼が十九歳の時である。
科挙に一発で合格する能力の高さを持ち、しかし勉学一辺倒の頭でっかちというわけでもない。自分の立ち位置をよく分かっており、人付き合いの機微も弁えている。
品階はまだ九品の『主事』であるが、彼の頭の良さならば、上級官吏である五品の『内給事』になるのも、時間の問題だろう。
内侍省は、朝廷機関から距離を置いた特殊な省である。
男の身でありながら、百華園の管理を一任されるという特殊性を帯び、そこに任じられる者には、どのような誘惑にも揺るがない高い自制心と倫理観、強固な精神力が必要とされる。
呂阡はこの部署に配属される者は、総じて他の者より高次元にある者だと思っている。
更にその長に就いているという呂阡の矜持は、空を渡る鳥よりも高いと言えよう。もちろん、その元で働く内侍官達の矜持も、自ずと引き上げられるというもの。
「はぁ……不都合のないものは、現状維持で良いのですよ」
それこそが平和の基本である、と呂阡は信じてやまない。
「ははっ、まるで爺さんみたいに枯れた事を言いますね」
静謐さなど無縁の、憎たらしい悪戯小僧のような笑いを向けた春万里に、呂阡は今日一の綺麗な笑みを返した。その額には立派な青筋が這っている。
「……春万里、あなたには『異色』の随伴を頼みますね」
春万里は「ぎゃっ！」と品のない声を上げ、「一言多かったか」と、己の口数の多さを嘆いた。感情露わに、項垂れてトボトボとした足取りで部屋から出て行く春万里の姿は、年相応のただの青年であった。
呂阡が頬を緩めその背を見送っていると、突然、春万里の歩みが止まる。
彼は顔だけで振り返った。
「――まあ、そこまで根詰めて心配することもないと思いますよ、呂内侍。そんな簡単に変わりませんから。国も……人の心ってやつも」
目は笑みの形を描いていたが、中に嵌まった瞳は顔に影が落ちていたせいか、そこだけぽかりと穴が空いているようにただただ暗く、黒かった。
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