1-4 種人参の効能
前髪に視界が阻まれなくなったことで、新月の夜空を思わせる燕明の黒い瞳は以前よりよく見える。夜空の中に碧色の星がチラと輝いた。
「後宮の食費は大変だろうなとしか」
「んがあッ!」
燕明は、椅子から転げ落ちんばかりに勢いよく仰け反った。
天を仰ぐ顔は両手で覆われている。その向かいでは藩季がもはや声にすらならないようで、肩のみならず全身を痙攣させていた。
「頼む、月英! もう少し! もう少しだけで良いから……っ!」
もう少し何なのだ。意味が分からない。
思わず、燕明を見る月英の目にも憐憫が宿る。
「やめろ、そんな目で見るな。目が見えるようになった分、威力が増している。
「目は口ほどに、と言いますからね」
「追撃するな藩季。お前の主は誰だ」
「おや、ここで言って良いので?」
「追撃するな藩季」
燕明は、花が萎びれるように、ヘロヘロと力なく机に突っ伏していた。
まるで風に飛ばされた巾が、ぎりぎりで机の端に引っ掛かっているかのような有様で、座っていただけなのに、なぜかずたぼろだ。
「藩季様、どうやら陛下はとてもお疲れのようですから、今日はいつもの精油にこれを一滴足してください」
月英は、背後にある薬棚から一つの精油瓶を取り出し、それを藩季の手の上に置いた。
「これはなんという精油ですか?」
「
「へえ、そのような人参もあるのですね」
藩季は精油瓶を開けては匂いを嗅いだり、瓶を横や下から物珍しそうに眺める。
「それで、どのような時に使うものなのですか?」
「情緒不安定」
「ぶふッ!」
耐えかねた藩季の口から色々と噴き出した。
対して、机に突っ伏していた燕明の顔の下からは、「ああああ……」と、聞いたら呪われそうなほど不気味な掠れ声が漏れ出ている。
「呪術ならよそでやってください」
「あああああああああ……ッ」
酷くなった。
◆◆◆
土のような香りの中に、時折甘さが顔を覗かせる。
「効果抜群ですね」と藩季が耳打ちしてきたので、「ここで呪詛られたら堪りませんからね」と返せば、藩季は必死の形相で口を押さえていた。
「それで、その亞妃様の心の病を治療する、という役目は分かりましたが、僕って百華園に入って良いんですか?」
一応、男って事になってますけど、と月英は燕明に尋ねる。
百華園は燕明の後宮であり、内侍省の官吏以外の男は、基本的には入れなかったと思うが。
「いや、当然一人で入れることは出来んな。俺以外の者が百華園に入る時は、必ず内侍省の官吏を付けなければならない規則になっている」
月英の方を向いていた燕明が、目だけを藩季に向ける。
「呂内侍に連絡しておいてくれ。明日、誰か一人用意してくれと」
「かしこまりました」
藩季の言葉に目で頷いた燕明は、再び月英へと視線を移す。
「そういうわけで早速で悪いんだが、明日から頼む。今日はもう呈太医の診察で疲れているだろうし、あまり亞妃に負担はかけたくないからな」
すると、燕明の言葉を聞いた月英は、ふ、と頬を和らげる。
「ふふ、やっぱり陛下って優しいですね」
月英の碧い瞳が、とろけたように柔らかに細められる。
どちらかと言えば、月英の瞳の色は、宝玉のような冷涼さを抱かせる色である。しかし今、小さな顔に収まる二つの碧い宝玉は、見る者に蝋燭の灯火に手をかざした時のような、じわりと沁みる温かさを抱かせた。
そこには、媚びも、
それは『皇帝』という、絶対的に全てから一枚隔てられた存在である燕明にとって、信じられないほどに稀有なもの。
「陛下が後宮に行かないって噂は聞いていたんで、後宮妃には冷たいのかなって思ってたんですけど――ってあれ? どうしたんです、陛下」
やっと顔を上げたかと思ったら、燕明は今度はそっぽを向いていた。
次の瞬間「行くぞ藩季」とだけ言い、燕明は椅子から腰を上げた。彼は背を向けたまま、月英を振り返りもせずに外へと爪先を向ける。
「では明日、月英は内侍省を訪ねてくれ。付き添いの内侍官が、亞妃の元まで連れて行ってくれる」
「分かり……ました」
至って燕明の声の調子は普通なのだが、この間も彼は一度も月英を見ることはなかった。それを不思議に思いつつも、月英は承諾の言葉を口にした。どうしたのか心配になり、藩季に目を向けるが、藩季は苦笑し肩を竦めるだけだった。
「ではな」との言葉を残し、燕明と藩季は去って行った。
「……変な陛下」
しかし、変なのは今に始まった事ではないし、深くは気にしないことにする。
「そういえば、『内侍省』って、つい最近も聞いたような……」
眉間に力を入れ、脳にしまった記憶を探る。
脳裏に一人の医官が浮かんだ。さらさら髪の――
「あっ、そうだ! 春廷の弟だ」
もしかすると、明日内侍省に行ったついでに、その弟の姿を拝めるかもしれない。
兄の春廷と似て、美意識が高いのだろうか。サラサラの長い髪をしているのかもしれない。背はやはり弟なのだから、春廷よりも低いだろう。
「異国のお姫様に、ちび春廷かあ。ちょっと楽しみだな」
煌めかしい美女と、小さくなった春廷を想像し、月英は心を躍らせながら明日の準備に取り掛かった。
一方、香療房を出た燕明と藩季は、いつもより速めの歩みで燕明の私室へと戻る。
二人の間には無言が横たわり、冬の間に積もった落葉を踏む乾いた音だけが、互いの存在を確認させていた。
先に口を開いたのは藩季だった。
「元々、素直な方でしたからね。月英殿は」
言外に要点を置いて話す藩季を、燕明は無視して歩き続ける。
燕明は額にかいた汗を手の甲で拭い、裾を大きく翻しながら歩いた。火照った身体を冷ますかのように、風を全身に受けながら。
ただ、暫く歩いたところで燕明もようやく口を開く。
「あいつの瞳は――」
燕明は、口を手で覆いながら、溜め息をこぼすように呟いた。
「――――心臓に悪い」
立ち並ぶ、朱色のどの柱よりも鮮やかに色付いた顔で。
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