1-3 花を毟る男、燕明

 月英は藩季の背に、しがみ付くようにして隠れていた。

 それもこれも、久しぶりに姿を現した燕明が、開口一番「月英には百華園へ行ってもらう」とのたまったからだ。


「……藩季様、皇帝ってのは、他人のを無理矢理毟れるほど偉いんですか」

「彼の者が魚と言えば鳥も鱗を纏う、と言われるほどに皇帝は偉いですが、彼は例外ですね。偉くありませんから無視して良いですよ」

「国一番に偉いんだが?」


 藩季の肩口から碧い目だけを覗かせ、じーっと見つめてくる月英の姿は正直可愛い。

 腹が立つのが、その壁となっている男が月英から見えないのを良いことに、汚い笑みを向けてくることだ。

 果たして本当に側近なのか。実は誰かに送りこまれた刺客ではないのか。精神破壊専門の。

 気を取り直して、燕明は再び、今度は言葉を間違えないように用件を口にする。


「言い方が悪かった。月英には、百華園にいる後宮妃を治療してもらいたい」


 すると誤解が解けたのか、月英は藩季の背から離れその隣に腰を下ろした。久しぶりに見る月英の姿には、もう暗さなど微塵もない。医官服も随分と様になったものだ。


「治療って言うと、不眠とかですか? それとも後宮妃なら、肌の調子や月のものなどでしょうか」

「ああ、いや……それが、原因は分からないんだ」


 原因が分からないのに治療とは、ふしぎな話だ。


「失礼ですが、呈太医には?」

「既に治療にあたってもらった。が、どうやら医術で治せるものではないらしい。呈太医は心の病だと言っていたが」

「心の病……ですか」


 月英は軽く握った拳を口元に寄せ、思案に口の中でその言葉を繰り返す。

 呈太医にも治せないということは、身体の問題ではないのだろう。気が滅入っているという事なのか。しかし、気鬱は確か医術でも治療法があったはず。以前、豪亮が「気分が落ちる」と言っていた官吏に薬を処方していた記憶がある。

 であれば、気鬱とはまた違うという事なのだろう。


「呈太医が月英に頼れと言ったんだ。何か方法はないか」


 ぱっと顔を上げれば、本当に困っているのだろう、燕明の疲れが色濃く出た渋面が視界に飛び込んできた。


「お力になりたいのは山々ですが、まず僕にはその、『心の病』というものがよく分かりません。僕は医術に明るくはないし、出来るのは香療術と、少しの簡単な医術のみですから。他に呈太医は何か言ってませんでした?」

「そうだな……確か、呈太医が言うには、心の病とは薬の届かぬ場所に原因があるらしい。しかも、その原因は本人にしか分からず、話してもらうしか知る方法はないのだそうだ」

「なるほど、大まかですが分かりました。つまり、その後宮妃の心の中にあるものを、僕がゲロッと吐かせれば良いんですね!」

「言い方」

「まるで尋問のようですね」


 燕明の形の整った眉が歪み、藩季の口端が引きつる。


「だがまあ、そうだ。香りで気持ちを和らげてやれば、少しは何か話してくれるだろうからな」

「月英殿は、あの石頭の蔡京玿殿を改心させた手腕をお持ちですからね」


 枕詞に棘がある気がする。

 隣の藩季を見遣れば、彼はいつも通り細い目を弧にしていたが、「今頃、どうされてますかねえ」とクスクスと笑う声は、どこか仄暗さが混じっている。

 世の中には知らない方が幸せなこともあるだろう、と月英は何も聞かなかったことにした。


「……そ、それで、その後宮妃とはどのような方ですか?」

「この間、狄から輿入れした亞妃という後宮妃だ」


 月英はポンと手を打った。


「ああ、噂の異国のお姫様ですか! 亞妃様って言うんですね」


 月英は入宮の式典には参加していなかった。月英だけでなく、呈太医以外の医官達は式典のあった日も、普通に太医院で官吏達の治療に当たっていた。だから月英達は、異国の姫の後宮名も知らなければ、その姿も知らない。

 式典に出席出来たのは、五品以上の上級官吏だけだったと聞く。


「俺もまだ入宮した日しか会っていないし、詳しくは分からないが、物静かな姫という印象を受けたな。事実、侍女達にも口数は少ないらしい」

「それって、異国の方だし、言葉が通じないとかじゃ……」

「いえ、それはありませんよ。夷蛮戎狄の周辺四国は、独自の言語を持ちはしますが、共通言語として萬華国の言葉も使いますから。姫であれば当然のように話せます」


 藩季の補足に、月英はなるほどと理解を示す。


「だとしたら、亞妃様は陛下との結婚が嫌だったとか?」


 遠く離れた、知らない国に嫁ぐのを嫌がる者も当然いるだろう。


「……微妙に傷つく言い方をするな」

「あ、すみません。深い意味はないです」


 今度は自分が言葉足らずだったようだ。月英が素直に謝れば、湿ったくなった燕明の声も元に戻る。


「しかし、この輿入れは向こうからの申し出だ。それに多かれ少なかれ、王や長の子というのは、その婚姻を政治に使われるのが常套というもの。それなりに覚悟して来たのだと思っていたのだが」

「確かにそうですね。基本的にどこの国も、権力者の婚姻に自由はないと言いますし。事実、燕明様の後宮には、燕明様が自ら望まれて入れた妃など誰一人としていませんからね」

「へぇ、権力者の世も世知辛いものなんですね」


 結婚など自分とは一生無縁だろうな、と俯きながら、指の爪先に残った薬草の残骸を取り除いていれば、「おい」とつむじに声が掛かる。

 顔を上げれば、燕明が物言いたげに目を半分にしていた。


「今、藩季がとても重要な事を言ったぞ。ちゃんと聞いていたのか」


 はて、どこも重要だと思った部分はなかったのだが。暗号でも隠されていたのだろうか。

 月英は、こてん、と小首を傾げた。


「俺が自ら望んで入れた妃は誰一人としていない――と、藩季は言ったんだが」

「…………はあ、そうですね?」

「違うっ!!」


 間髪入れずの燕明の否定が、房内に響いた。騒がしい。

 相変わらず怪訝な表情をするだけの月英に、燕明は「伝わらないッ!」と、もどかしそうに手を戦慄かせている。

 その姿を正面で見ていた藩季の口からは、「んふんッ!」と実に威勢の良い声が漏れていたが、どうしたのだろうか。くしゃみが失敗したのか。肩が震えているし、もしかしたら寒いのかもしれない。確かに春といっても、まだまだ冬の気配も残っている。


「藩季様が一番入り口に近いですもんね。扉、閉めましょうか?」

「ん゛ん゛――ッ……いえ、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」


 何も飲んでいないというのに、なぜか藩季は盛大にむせていた。いよいよ風邪かもしれない。後で喉に効く精油を持たせよう。


「っ燕明様……も、もう、諦められた方がよろしいかと…………んふッ」

「黙れ藩季、想定の範囲内だ」


 とは言いつつも、燕明の瞳は涙ぐんでいる。

 燕明は長い深呼吸をすると、意を決したように月英に真剣な眼差しを向けた。


「つまりだな、月英。俺が妻を娶っても、お前は何とも思わんのかと聞いているんだ」

「それは……」

「それは?」


 燕明の、耳の奥を優しく撫でるような低い玉音が、月英にその先を問う。

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