1-2 心の病

「私は最初、亞妃様は疲労からくる気鬱を患っているのだと思っておりました」

「ああ、俺もそう思っていた。俺も疲れたときは何も食べる気にならんし、話す気にもならんからな」

「最初は――という事は、呈太医は亞妃様の病の原因が分かったのでしょうか」


 呈太医は重々しく一度だけ頷き、口を開く。


「あれは、心の病でしょう」


 燕明と藩季は顔を見合わせ、首を傾げた。


「その心の病とは、気鬱と何が違うのだ?」

「気鬱は、体内の『けつすい』が乱れ、不調をきたした状態です。気血水の乱れは、いつでも誰にでも起こりえます。よく、何となく今日は調子が出ないな、何となく身体が重いな、などと思う事はありませんか」


 呈太医に手を向けられ、二人は思案に視線を宙へと泳がせ、「確かに」と頷く。


「それは活力が低下していたり、血が不足していたり、津液しんえきが滞っていたりと、はっきりとした原因があるものなのです。私達、太医院はこれに対応する術を持っていますから、投薬などで比較的容易に治療可能です」


 さすがは萬華国の医術を粋である太医院だと、燕明が口を縦に開けた時だった。

 呈太医が、「しかし」と、先ほどまでの誇らしげな雰囲気を一変させたのは。


「心の病は、気血水の問題とは別物なのです。はっきりとした原因があるのは、心の奥――薬の届かぬ場所なのですから。しかも厄介なことに、その原因を他人が外側から知るのは不可能。亞妃様が自らの口で、その心内を語ってくださる以外に知る方法はありません」

「病でなくて良かったと安心した途端、これではより難題と化しただけではないか」


 燕明はくしゃりと前髪を握り、本日もはや何度目かもわからぬ溜め息を吐いた。これではこちらまで気が滅入ってきそうだ。

 しかも、亞妃が自らその原因を喋ってくれる事はないだろう。内侍省からの報告書には、『色々聞くが、何ともないというばかり』と書いてあるのだから。

 日常の世話をする侍女にも、ここ数日診察に当たっていた呈太医にも口を開かないのであれば、初日に顔を合わせただけの自分になど、きっと何も話してもらえないだろう。


「呈太医、何か方法はないものか……」


 さすがに、病でなければ良かったと放っておくことなど出来ない。呈太医は心の病と言ったのだ。であれば、このまま放っておけば何かしらの悪影響が、身体に現れる可能性がある。

 やはり早急に対応する必要があった。


「ほほ、心の問題ならば、彼に頼るのがよろしいでしょう」

「彼?」

「月香療師ですよ」


 途端に、燕明の顔が引きつった。


「――っああ、げ、月英な! そうそう、彼だ彼! 彼な!」


 不自然なほどに『彼』を強調する燕明に、据わった目を向ける藩季。

 燕明は口端を引きつらせ、無駄に大きな空笑いをする。

 危なかった。

 そういえば、月英が女人と知るのは自分と隣の狐男のみだという事を、すっかり忘れていた。自分と藩季の間では、月英の事はしっかり女人として認識されているため、危うくその流れで、他の者にも接してしまうところだった。

 王宮ではまだ女性官吏は認められておらず、その姓は隠すべきものだった。

 幸い、呈太医は燕明のおかしな態度は、気にならなかったらしい。好々爺よろしくにこにこと、我が子を誇らしく思う親のような表情を浮かべている。その様子から、太医院でも月英は可愛がられている事が窺えた。


「月英は、もう立派に太医院の一員なのだな」

「ええ、まさに月香療師は我が太医院の薬ですね。彼が来てからというもの、随分と房が賑やかになりましたよ」

「それは良かった」


 呈太医の慈愛の眼差しを受け、燕明の目元も自然と満悦に柔らかくなる。

 しかし、隣の藩季からは嫉妬だろう気が、痛いほどに漏れ出していた。何を張り合っているのか、年の差を考えれば呈太医と月英は爺と孫だろうが。

 右半身に受ける禍々しい気に耐えかねた燕明が、「安心しろ、父親はお前だ」と小声で言ってやれば、たちまち藩季の気は、パァ、と晴れやかなものになる。

 なんだこいつ。これが世に言う親馬鹿というものか。


「分かった。では、月英には俺から用件を伝えよう」

「きっと月香療師ならば、亞妃様の硬くなった心にも、風を吹かせられるでしょう」


 呈太医は来た時と同じように、既に曲がり始めている腰を深く折り、部屋を去っていった。




「さて!」と、燕明は先程までとうって変わって、実にイキイキとした声を上げる。

 燕明が何をそんなに浮かれているのか、手に取るように分かる藩季は、口端を緩くつり上げながら、燕明の背後へと回った。

 あちらこちらに散らばっていた燕明の髪を手に取り、懐から出した櫛で丁寧に梳いていく。春雨のように細く柔らかな燕明の髪は、藩季の手技によりあっという間に纏められる。正絹のように輝く髪束が、頭の高い位置から背中に流れ落ちる様は、黒い羽織も相まって、まるで天の川のように見事である。


「仕方ない。仕事ならば、会わねばな」


 藩季の手が髪から離れれば、燕明は首後ろに手を差し込み髪を払いながら、椅子から立ち上がる。一刻前まで頭を抱えていたものとは思えない、実に堂々とした佇まいである。

 分かりやすい自分の主に、思わず藩季も唇に笑みを置く。


『萬華国の至宝』と名高い今上皇帝である燕明。


 その美しさを遺憾なく発揮した威容をふりかざし、彼は足を太医院へと向けた。

 行き先は、医薬房ではなく、たった一人のために新たに造られた香療房だ。

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