1-1 亞妃

「――っはぁ、月英げつえいに会いたい」

「仕事が終わるまで無理です」


 いつもの私室にて、燕明えんめいは溜め息と共に机に突っ伏していた。嘆く声は、まるで日常から潤いを奪われたと言わんばかりに、しわがれている。


「燕明様……」


 側で控えていた藩季はんきが、小さくなった燕明の肩を優しく叩く。


「私で我慢してください」

「出来るはずがないだろう!? お前を月英と同列になど、おこがまし過ぎるわ!」

「え、私の存在は唯一無二で誰の代わりにもならないですって。とんだ光栄です」

「とんだ誤変換だよ。その耳どうなってるんだ」


 どうして藩季と話していると、こうも気持ちが殺伐としてくるのだろうか。側近としての素質がなさ過ぎると思う。

 勢いでもたげた頭を、燕明は再びの溜め息と共に緩く振った。長い髪が机の上に乱れ落ち、書類の文字を隠す。


「ただでさえ頭が痛いというのに、お前は全く……わざと悪化させにきてるだろう」


 燕明は目頭を指で揉みながら、本日三度目となる溜め息を漏らした。吐き出された息には、憂いと疲労が色濃く滲んでいる。それもこれも原因は、今、目下で髪が隠している書類の内容にあった。

 艶やかな黒髪が書類の上でわだかまり、上手い具合に見たくもない内容を隠してくれている。

 書類は、昨日、内侍省から届いた報告書だ。


「……また狸になりそうだ」

「それは困りますね。せっかく月英殿の努力で消えたというのに、再び狸に化けられては、月英殿もお手上げと匙を投げてしまうかも知れません」


 燕明は「確かにそれは困る」と、むうと難しい表情で口を歪めた。


「確か、『亞妃あひ様のご様子について申し上げます。一日中芙蓉宮に籠もられるばかりで、食膳についても口にするのは僅か。侍女達が聞いても、何でもない、としか言わず。気持ちを昂ぶらせることも、不平を言うこともなく、ただ静かに過ごされるばかり』――でしたか」


 せっかく隠れていた報告書の内容を、藩季が一言一句誤らずに述べてみせれば、燕明の眉間は一層険しくなる。

 つまりは、亞妃の様子がおかしいという報告であった。


『亞妃』――それは先日、狄から輿入れした姫に与えられた、百華園での名である。


 萬華国に北接して広がる荒涼とした大地を持つてき

 その土地の風土故に定住は向かず、狄の民はまちという概念を持たない。邑の代わりに部族ごとにまとまり、遊牧して生活していると聞く。

 また、部族にもいくつかの派閥があり、亞妃はその派閥群の中でも、最大勢力を誇る派閥を率いる部族長――『烏牙石耶うがせきや』の娘であった。


「亞妃が入宮してからどれくらい経つ」

「今日で五日ですね」


「五日か……」と、燕明が呻いた時である。

 部屋の外から声が掛けられ、入室の許可を待って小さな老人が入ってきたのは。


呈太医ていたいい、今日の亞妃の様子はどうだった」


 老人の挨拶もそこそこに、待っていたとばかりに、燕明が上体を前のめりにさせて早速に尋ねた。

 しかし、小さな老人――呈太医は、小冠を載せた真っ白な頭を横に振る。


「ここ三日、投薬してみましたが、改善の傾向はありませんでした。恐らく、あれは私には治せない病かと」

「なに、それ程に容態が芳しくないということか!?」


 燕明の声に焦りが滲む。


「いいえ、お身体は至って健康です。食が細くなっているせいで、多少の衰えはありますが、それでも呂内侍や陛下が心配なさっているような病を得ているわけではありません」


 呈太医の言葉を聞いて、燕明はあからさまな安堵の息を漏らした。

 他国から輿入れしてきた姫を、入宮早々に罹患させたとあれば、下手したら国交問題に発展しかねない。せっかく『異国融和策』の前進となり得る事例を、初手で頭打ちさせるわけにはいかなかった。


「恐れ入りますが、陛下が最後に亞妃様にお会いになられたのは?」

「入宮したその日のみだ」


 入宮初日、前殿である先華殿で入宮の式典が行われた。初めて他国より迎え入れる妃という事で、盛大に宴は催され、それは昼から夜半まで続いた。

 もちろん、遠路はるばる輿に揺られやって来た亞妃は、疲れているだろうからと途中で離席させた。燕明自ら百華園での新たな住まい『芙蓉宮』まで亞妃を見送った。

 その翌日にはもう、亞妃の様子がおかしいことに気付いた内侍省から、「病かもしれないから、芙蓉宮には入らないように」との報告がきていた。おかげで初日以降、燕明は亞妃の顔すら見ていなかった。


「初夜だというのに、百華園から殿下が戻って来る姿を目撃した時は驚きましたね。太陽が昇らない朝が来るとは、と天変地異まで疑いましたよ」

「ゆっくり休ませる為だ。側近なら天変地異を疑う前に、俺の優しさに思い至れよ」

「はは、燕明様の場合、天変地異の他の候補は『不能だったのか』ですよ」

「よし、首を差し出せ藩季」


 無礼千万極まりない。

 東覇の皇帝にここまで下品な物言いが出来る者など、彼くらいしかいないだろう。握った拳を机の上で震わせている燕明をよそに、藩季はいつもと変わらず飄々として、隣で直立している。

 品があるとも言える線の細い顔貌は、燕明には小賢しい狐のように見えた。


「……皆この顔に騙されている」

「他人を誑かせるほどの美しい容姿だとお認めいただき、至高にございます」

「お前の耳はどうなってるんだよ。ちょうど良いから呈太医に診てもらえ」


 しかし、燕明が目で呈太医に訴えるも、呈太医は「ほほ」とまろやかに笑うばかり。彼が笑いに肩を揺らすたびに、太医院の長である印の黒襟の金刺繍がキラキラと輝く。


「いつ見ても、お二人は仲がよろしいですねえ」

「これを見て仲が良いはおかしいだろう」


 しかし、燕明の批難めいた言葉を聞いてもやはり呈太医は、春陽のような笑みを湛えるばかり。

 分が悪すぎることを悟った燕明は、脱線した話題を、机に拳を落とすことで強引に引き戻す。


「で、だ! 俺の事はどうでもいい。問題は亞妃だ、亞妃! 病でないとなると、原因は何だというのだ」


 呈太医は笑みを収めると、藩季よりも幾分か目尻の下がった狐目を開いた。瞼の奥から現れた瞳に、険しさが光った。

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