序-3 毒殺の宝庫です
腰に貼っていた湿布を剥がすと、翔信はぐぐぐっと腰を反らせて、猫のように伸びる。
「おお、助かった助かった! これでまた仕事が出来るぜ!」
「それは何よりです」と口では言いながら、月英は「この仕事中毒者め!」と心の中で毒づく。こうして場当たり的な治療にばかり逃げるから、最後は腰を曲げて医薬房の扉を叩く事になるというのに。
「忙しいのは分かりますが、ちゃんと休憩はしてくださいね」
しかし、恐らくそれは無理だろう事は分かっていた。
刑部の房の中をぐるりと見回す。どの机の上にも山のような書類が、今にも崩れ落ちそうな危うさで積んである。視線を机の上から下へと向ければ、今度は机の陰から誰かの手や足が覗き、ついには「うぅぅ」という、地を這うような重低音の呻きまで聞こえてくる。
――うん、僕は何も見てないぞう。何も居なかった。
もしかして、この惨状の中で生き残っている翔信は、実はとても凄いのではなかろうかと錯覚すら覚える。ただの仕事中毒者も、最後まで立っていれば偉人見えてくるから不思議である。
すると、春廷が奥の部屋から戻って来た。用事を終えたのだろう。
「ワタシの方は終わったけど、月英はどう?」
「僕も終わったところだよ」
「お、春廷。悪いな、いつも手伝ってもらって」
その翔信の言葉から、春廷が刑部と常日頃繋がりを持っている事が窺えた。春廷の顔を見るなり、翔信は顔の前で両手を合せている。
裁判や刑罰を司る刑部と太医院が、どのような関わりがあるのかと聞いてみれば、どうやら毒殺案件などは、どのような薬草を使ったのか、証言と一致するかなど太医院で調べるという。今回、春廷はその調査書を届けに来たという話だった。
「毒とか怖っ!」
思わず月英の顔が引きつる。
「なに言ってんのよ。古来から王宮なんか毒殺の宝庫よ」
「そうそう。仕事柄、よく過去の裁判資料を読むけどよ、昔の百華園なんか日常的に毒が横行してたみたいだしな」
嫌な宝庫もあったもんだ。
そこで翔信が何かを思い出したように口を丸くして、ポンッと掌を打った。
「百華園と言えば、狄のお姫様が今度入宮されるよな。確か、春廷の弟って内侍省に勤めてなかったか?」
内侍省と言えば、百華園の管理を一手に請け負う省である。太医院を除いて、官吏が勤める部署の中では唯一、内朝の中に房を置いている。
「え、春廷って弟とかいたの?」
「え……えぇ……まあ」
初耳だった。
まあ、確かに最近まで名さえ知らなかったのだから、家族構成など知るはずもないのだが。
それにしても、兄弟が同じ場所で働いているというのに、春廷の様子はあまり芳しくない。それどころか、気まずそうに視線を月英と翔信から逸らし、床に這わせていた。
しかし、その春廷の変化に気付いたのは月英だけだったようで、翔信は椅子の背に身体を大きくもたれさせ、「あーあ」と締まりのない声を出す。
「いいなぁ、春廷の弟は。絢爛華麗、百花繚乱の絶景を毎日見ることか出来て。俺も今度は内侍省に異動したいぜ。それか、その医官服とこの服を交換してくれ。医官なら百華園に治療に行くこともあるだろ? な、一回で良いから頼むよう」
両手を合せて月英を拝む翔信。
「うーん、肉饅頭一年分くれるなら」
「まず、一日あたりの肉饅頭の消費量が分かんねえよ」
と言いつつも、翔信は「一日に一個とするだろ……」などとブツブツ呟きながら計算し始めていた。
どれだけ女人に飢えているのか。今度は甘い香りのする製油でも差し入れてあげよう。
「言っとくけどこの子、人の十倍は食べるわよ」
「下っ端官吏の薄給激務なめんなっ!」
翔信は指折り数えていた手を開き、わっと顔を覆った。薄給かは分からないが、激務なのは認めよう。この死屍累々の職場を見れば、頷かざるを得ない。
月英が苦笑でもって翔信の慟哭を眺めていれば、そこで茶番は終わりだ、と春廷が手を打つ。
「はいはい、冗談はこれくらいにして。それに、そんな簡単に交換なんて出来るはずないでしょ。この医官服はワタシ達の誇りなんだから」
「そ、そうっ! これは僕達の誇りなんだからね!」
「……月英、あんた本気で肉饅頭に釣られかけてたでしょ」
春廷からのじっとりとした視線を感じ、月英はサッと顔を伏せる。
「ソソソソンナコト、ナイヨッ!」
そんな、肉饅頭一年分くらいで、せっかく手にした香療師の服を簡単に脱ぐわけがない。交渉の卓に着くのは、せめて最低十年分からだ。
月英はわざとらしい咳払いで、空気を変える。
「ま、まあ、今度その狄のお姫様の入宮式典があるんでしょ。だったら翔信殿も見られるんじゃないですか。そのお姫様を。きっと後宮に入るくらいだし綺麗ですよ」
「確かにな。だけど、ちょっと心配だよな。いきなり異国のお姫様がやって来て、他の後宮妃達がすんなり受け入れるとは思えないしよ」
確かに、月英でさえまだ、完全に受け入れられているとは言い難い。恐らく難無く受け入れられるという事はないだろう。
「でも、陛下は異国融和策を唱えてるんだし、後宮妃達も悪いようにはしないでしょう。それに、こうして翔信殿みたいに分かってくれる人もいますし。きっと大丈夫ですよ。お互いを知っていけば、分かりあえますよ」
月英が翔信に心満意足が滲む笑みを向ければ、彼は頬を掻きながら照れくさそうに「まあな」と笑みを返した。
和やかな空気が満ちる。
しかし、表情を柔らかくしている二人に対して春廷は、一人物憂げに眉を寄せていた。
「分かりあうこと……ね」と、一人ごちながら。
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