序-2 その名は春廷

 結局、月英はちょうど刑部に用があったという、『春廷しゅんてい』と共に外朝へ行くことになった。

 春廷とは、よく豪亮と一緒にいる、サラサラ長髪の女言葉を使う医官だ。

 つい最近、名が判明した。


 正直なところ、月英は呈太医と豪亮以外の医官達の名を覚えていなかった。

 最初は、『どうせ三月で別れるし』と覚える気がなかった為である。その上、医官として認められてからは、月英が名を呼ばずとも皆近寄ってくるので、名を呼ぶ機会がなく、そのままおざなりにした結果だった。

 しかし、房が別れたことで名を呼ぶ必然性が出てきた。


 そこで彼に「ねえ、何て名なの?」と無邪気に問えば、額への手刀と共に「春廷よ」との答えが返ってきたのだ。痛かった。

 月英は春廷の後を付いて、外朝の中を進む。

 すれ違う官吏達は、月英の顔を見るとギョッとした目を向け、一瞬動きを止めていた。香療師の職位を戴いたその日から一月以上経つが、まだ露わになった月英の碧い瞳に慣れない者は多い。

 いつも内朝にある太医院にいて、医官達が普通に接してくれているから、月英もつい忘れがちだが、普通はこの反応である。

 しかし、燕明が叙位の儀の場ではっきりと、この異色を『些末なこと』と言ってくれたこともあり、その反応は忌避というよりも驚きの色が強い。それでも、「逐一驚かせるのも申し訳ないな」と思い、月英は春廷の影に隠れようとする。が、それは春廷にグイッと腕を引っ張られ阻まれてしまう。


「まったく、堂々としてなさいよ。アンタのそれは美しいんだから」


 隣で鼻を鳴らす春廷を見上げれば、眉間をその繊細そうな細長い指で弾かれる。


「ワタシは美しいものが好きなの。背中を丸めてちゃ美しくないわよ」


 月英は存外にジンジンする眉間を撫でながら、「ありがとう」と春廷の優しさに礼を述べた。


「――にしても、春廷って顔に似合わず馬鹿力だよね」


 その古琴しか奏でないような細い指のどこに、力が宿っているのか。確かに背丈は豪亮ほどに高いが、豪亮ほど筋肉の厚みはない。どちらかというと、柳のような印象を受ける体つきをしている。


「……痩せた豪亮」

「誰が筋肉馬鹿よ。そんな事言う子には、このカオはあげませーん」


 どこから取り出したのか、春廷の手の上には、黄色いふっくらとした半球状の糕が乗っていた。ふわり、と風に乗って甘い香りが漂う。


「嘘ですごめんなさい、下さい!」


 月英は即座に腰を直角に折った。両手は綺麗に揃えられ、掌を上にして春廷へと突き出されている。春廷は笑っていた。

 糕を頬張りながら、月英は外朝の様子を観察する。


「ねえ、何かいつもより外朝が慌ただしくない?」


 すれ違う官吏達の歩みが、いつもの三倍くらいは速かった。また外朝全体の雰囲気も、どこか浮き足立っているように感じる。


「ああ、それならきっと、『狄』からお姫様が輿入れされるからじゃないかしら」


 春廷が肩に掛かった長い髪を背中へ払いながら、興味なさそうに答えた。それに月英が「狄?」と首を傾げれば、春廷の口からは豪亮と同じ溜め息がもれる。


「まったく……月英は覚えることが沢山ね。狄っていうのは、萬華国に北接している国よ。とは言っても遊牧民だし、国ってよりそこら一帯のことを、ワタシ達は狄って呼んでるんだけど」

「へえ、異国のお姫様の輿入れかあ」


 そこで月英はふと思い至る。


「ねえ……誰に輿入れするの?」

「なに言ってんのよ。陛下にきまってるじゃない。陛下の後宮『百華園』の妃になられるのよ」

「なるほど」


 そういえば、彼は皇太子の頃より後宮を持っていたんだか。そのような気配も噂も、全く聞かなかったから忘れていた。

 どうりで、最近は全然姿を見ないなと思っていたところだ。以前なら、三日に一度くらいは太医院の周辺で目撃されていたのだが。

 指先についた糕をぺろりと舐め取り、月英は空を仰いだ。


 季節は初春。

 まだ冬の冷たさが残る風が、王宮内の長い石畳の通路を駆け抜ける。白い香りが鼻の奥を刺し、僅かな寂寥感を心に抱かせる。閉じていたもの達が目を覚まし、寒さに耐えた馴染みのある古い殻を脱ぎ捨てて、新たな命を芽吹かせはじめていた。


「陛下はきっと……藩季様と一緒に、ばたばたしてるんだろうな」


 視界の端に映る壮大な正殿である央華殿を横目に、月英は歩をゆっくりと進めた。

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