終ー4

 太医院から戻って来た藩季は、正殿前で繰り広げられている面白い光景に出くわした。


「あの医官とはどういう関係だ」

「どういう……って、太医院で世話になった医官で……」


 少し離れた場所で、藩季はその光景を眺め続ける。

 腕組み威圧する様な口調で尋問する燕明、片や月英は肩をすくめつつも、意味が分からないと抗議の目を向けている。


「抱擁する程、世話になったのか」

「ただ単に感極まっただけですよ。友人同士なんですから」

「じゃあお前は! 他の男とも、友人であればあんな密接に抱き合うんだな!?」


「んぐふッ!」と思わず藩季は噴き出した。

 どんな理由でああも真剣に対峙しているのかと思えば、くだらなすぎる理由だった。こんなにも明明と、嫉妬を表に出す男が居るのだろうか。それがまたこの国の皇帝ともなれば噴き出さすにはおれなかった。

 しかし真正面で対峙している月英は首を傾げるだけ。目に「何を言ってるんだ」といった憐情がありありと浮かんでいる。その温度差は見ている方が不憫に思う程。


「まあ……はぁ」


 案の定な月英の適当な返事に、藩季はまたも「ふぶっ!」と笑いを噛み殺す。


「~~っお前! 自分の性別を忘れてないか!? お前はその……あ、お、女……なんだぞ!? 無闇に男に身体を触らせる奴があるか!」


『女』という部分だけ声を潜める燕明。一応気にはしていたらしい。


「そんな人を色魔みたいに」

「だったら劉丹のアレは何だったんだ!? 好きだとか言われて……っ! 誰彼構わず色気を振り撒きおって!」

「陛下……色気って良い匂いがする事じゃないんですよ?」

「分かっとるわっ!」


 気の毒そうに優しい笑みを向ける月英に、伝わらないもどかしさに地団駄を踏む燕明。あまりにも自分の主が不憫になっていく様に――あとそろそろ腹筋の限界に――、藩季は漸く二人の間に割って入った。


「まあまあ、気持ちが伝わらないからって拗ねないでくださいよ。折角、月英殿が戻って来たんですから、それでいいじゃありませんか」

「拗ねてない」

「顔、ひっどいですよ」

「皇帝の顔は酷くならない」

「萬華国の至宝が珍宝て言われる前に、早く顔を戻してください」

「お前が酷いな」


 じろりと白い目を向ける燕明を藩季が宥めていると、月英が「そういえば」と切り出す。


「任官って、僕、試験とか受けてないんですけど? もしかしてまた臨時ですか?」


 また三月後にサヨナラしなければならないなど勘弁して欲しい。


「そこは安心しろ。臨時じゃなく歴とした正官だ」

恩蔭おんいん制度というものがありましてね。上級官吏の子は試験無しでも任官出来るのですよ」


 燕明が「ま、ずるい裏口だ」と身も蓋もない事を言う。

 しかし、それでもまだ疑問は残る。


「いやいや、そもそもそれって上級官吏の『子』に限られた制度ですよね? 僕はそもそも父が居ませ、ん……し…………んん?」


 何故か藩季がニコニコ顔で両手を広げていた。

 どういう意味か分からず月英が対応に困っていると、藩季が衝撃的なことを口走った。


「月英、私が父ですよ~」

「ぶッ!!」


 思わず月英は噴き出してしまった。燕明が「女が噴き出すな」と言っていたが、無理を言わないで欲しい。


「え、な、え……父? んん!?」

「ま、そういう事だ。早い話、お前を藩季の養子にした。そして藩季の名で恩蔭制度を使った。こいつ、ウキウキで戸部や吏部で手続きしてたんだぞ」


 裏口の上に邪道だった。


「こう見えても私、実は上級官吏なんですよ。ただの阿呆皇太子のお守り役じゃなかったんですよねえ」


 燕明が「お前ぇぇ!」と叫んでいたが、藩季は素知らぬ顔をして、対応に困っている月英を腕の中におさめた。


「安心してください。私があなたの父親ですよ」

「……っ!」


 ふわりと労るように包まれた腕の温かさに、月英は最初の養父――子順を思い出し目を閉じた。最後だというその言葉の裏側の優しさは、泣きたくなる程に柔らかだった。


「きっと、その瞳を良くは思わない者もまだ居るでしょう。けれどどうか忘れないで。間違いなく、あなたの居場所はここにあるんですよ。月英殿」


「父さん」と呼ぶにはまだ気恥ずかしくて、月英は藩季の胸を遠慮がちに握った。

 再び宮廷で働くことになり、そしてこんなに温かな父もできた。これを幸せと言わずして何というのか。


 ――嗚呼……本当に……萬華宮ここは幸せが宿ってたんだ。


 あの日下民区の端から見た光の眩しさを思い出し、その感情を噛み締めた。

 すると、ポンと月英の頭の上に燕明が何かを載せる。

 月英が手に取ってみれば、それは月英がずっと肌身離さず持っていた紺表紙の本。あの日――別れの日に燕明に渡した香療術の本だった。

 しかし一つだけ、手に持つ本は記憶の中の本の姿と違っていた。


「表紙が……」


 破れていた部分に、一等品だと分かる雲母混じりの紺紙が貼り付けられていた。そして、欠けていた題字――『西国』の部分には、新たな字が立派な墨字で記してあった。


「『陽氏香療之術法』……って、これ!」


 驚き振り向けば、燕明は優しい顔で頷いた。


「それは、陽光英が命をかけて我が国に伝えてくれた術だ。それにこうして香療術を広げたお前も陽氏だ。何も間違っちゃいない」

「陽氏の名を……出しても……?」


 罪人であった陽光英。だから月英はその子である事を隠すため、『陽』の姓をひた隠してきた。しかし燕明はその隠すべき姓を残して良いと言う。しかも香療術の名として。


「当然だ。それにお前も陽月英だろ。叙位の時も、俺はちゃんとそう呼んだぞ」

「私の養子になったからといって、姓を変える必要はありませんよ。それにこれから先、陽氏の名は罪人ではなく、香療術を伝えた偉大な先駆者として広がるんですし」

「そうそう、お前が香療師の任を果たせば果たすほど、その名は広まってくだろうな。だから……頑張れよ、月英」


 月英は『陽氏』が輝く本を胸に抱き締め、破顔して燕明を見上げた。


「――っはい!」


 碧い瞳はきららかに輝き、頬は薄紅に色づき、弾んだ声と共に小さな身体を嬉しそうに震わせる姿は、どこからどう見ても「愛らしい」と言うに相応しかった。

 燕明は肺を大きく膨らませると、言葉にならない想いと共に、全てを冬の冷たい風に流した。


「……前髪は、そのままにしていた方が良かったかもな」

「うっかりすると、女性だとバレてしまいそうですね」

「あ、やっぱり僕はまだ男装していた方がいいんですね」


 さらしを巻くのは最早一種のクセみたいなもので、全く負担ではなかったが、これからも豪亮達医官に秘密を持たなければならないのか、と複雑な心持ちになる。

 その気持ちが顔に表れていたのだろう、燕明は眉を片方だけ落とした微苦笑の末、月英の頭を撫でた。


「少しずつ変えていくから。宮廷ここも、国も、人も。お前が――誰でもが生きやすい場所にするから。だからその日まで……もう少しだけ待っていてくれ」

「嫌です」


 月英の返答に、燕明と藩季がぎょっとした目を向ける。


「待つだけなんて性に合いません。僕だってこの国を変えたいですもん、この香療術で」


 人は変われると知ったから。

 お互いわかり合えると学んだから。

 自分から歩み寄れば、それだけ多くの可能性が舞い込むことも。

 だから、もう願い待つだけではいられなかった。

 付け加えた月英の言葉に、二人は顔を見合わせ大口を開けて大笑した。その豪快に笑う様は皇帝だとか上級官吏だとかの品位の欠片もない。だが、月英にはその飾らない笑いが好ましかった。気取った王より、飾らない王の方が素敵だ。

 ひとしきり笑い終えると、燕明は「はぁ」と目尻に滲んだ涙を拭った。


「まだまだ、やる事は尽きないな」

「月英殿がありのままの姿で働けるようになったら、その時こそ、国が開かれたと言えるのでしょうね」


 その第一歩を今日、この国は踏み出した。

 月英の頭を緩く撫でる燕明を見上げれば、その後ろの大空が目に飛び込んできた。

 遮るものがなく見上げる冬の空は高く遠く、けれど手を伸ばせば届いてしまいそうな程鮮明な青で美しかった。ありのままの景色の何と美しい事か。


「少しずつ垣根を取り払っていくぞ。手伝え、月英!」

「はい!」


 風が吹いた。

 この国はまだまだ息苦しい。けれど、やっと今日一つの風穴が空いた。

 きっと、もう大丈夫。この国には新しい風が吹き込む。

 一つずつ少しずつ風穴は数を増やし、いつしかこの息苦しかった囲いは全てなくなるだろう。


「やはりお前は良い香りがするな」


 風に舞い上がった香りは、蜜柑オレンジ薫衣草ラベンダー加蜜列カモミール茉莉花ジャスミン天竺葵ゼラニウム――万の花の香りがした。



 

 大陸東に吹く花香る風は、陸も海も空も駆け巡り全てをその香りで満たす。

 万でも足りぬ花々がこの世を麗す。

 その小さなきっかけを与えたのは、たった一人の下民の少女。姿を偽り、名を偽り、心を偽ってきた少女。

 世界を変える少女は、今やっと自分の道を歩き出したばかり。

 小さな彼女が世界を大きく変える。

 彼女の通った後には万の花が咲き誇る。


 萬華宮の男装香療師は、今日も香りで世界を変える――。


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