終ー3
月英がぽいっと物々しい男達に投げるように転がされた先には、見覚えのある人物が立っていた。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、人当たりの良い温厚な態度をとる神のような人物だが、今の月英にとっては、ただの胡散臭い笑みを浮かべた人攫いにしか見えない。
「権力の申し子ですか? 欲望の権化ですか? 人は招くもので攫うものではありませんよ……藩季様?」
語尾を上げ遺憾の意を伝える。だというのに、対する良い笑顔の男――藩季は「お久しぶりですね」などと、能天気な挨拶を返してくる。
「ふふ、騒がれると面倒でしたし、こっちの方が手っ取り早いんですよ」
「考え方が完全に盗賊のそれなんですよ」
おかしいな。萬華宮に居る人のはずなのに。一体どこでその擦れた価値観を植え込まれたのか。
口角を下げ不満足の表明をしてみせるが、藩季は痛くも痒くもないと顔色も変えず、床に膝を付いたままの月英を立たせた。
「おやこの着物は、以前渡したものですね。よくお似合いですよ」
「ああ、その節は大変ありがとうございました――じゃなくて! 僕は何でここに呼ばれたんです!?」
「良かった。この格好なら、そのまま行っても問題はなさそうですね。いや、以前の様な格好で来られたらどうしようかと……着替えなければなりませんが時間もないですし――」
「聞いてます!?」
月英の言葉を無視して、藩季は一人良かった良かった、と頬に手をあて溜息をついていた。
「おっ……そろそろですね」
「もう何でも良いですよ」
目の前の扉に耳立て、背を向ける藩季に、月英は会話することを諦めた。しかし次の瞬間、疲れたように俯けた月英の頭を藩季の手が捕らえた。そこからは神業の如き速さだった。月英が驚きの声を上げる間もなく、藩季の指は、相変わらず野暮ったい月英の前髪を掬い上げ、ぼさぼさの後ろ髪と束ね合わせていく。
月英は急に視界が開けたこと以外、自分の頭上で何が起きているか分からないまま、「よし」の声と共に背を押し出された。
目の前の扉にぶつかる、と思った瞬間、その扉は
「へ!? ぅああぁ――っ!」
てっきりぶつかるものと身構えていた月英は、障壁が突如消えた事により押し出された勢いそのままに、扉の向こうへと転がるようにして駆け込んだ。というか、駆け込んだ先で転がった。
床で強打した膝をさすりながら、「もう藩季様! いきなり何を!」と、扉の方を振り向いた事で、月英は自分がどこに立ち入ったのか気付いた。
ぐるりと周囲を見回す。
天井に渡る梁には、今にも芽吹きそうなふっくらした牡丹や、風が吹けばひらりと舞い落ちそうな花弁が繊細緻密に施され、朱の柱を極彩色豊かな天女や模様が取り巻いて、目もあやな光景が広がる。――ここは正殿だった。
そして月英の両側には、正装した官吏達が並んでいた。皆何故か目を丸くして、中には口を手で押さえる者もいる。正殿全体がざわついていた。
誰かが「碧」と呟いた。それを皮切りにして方々で「目が」「色が」などと声が上がりはじめる。
一瞬なんの事かと理解が遅延するが、ハッとして目元に触れる。
前髪がなかった。そういえば視界が開けすぎている。
今更ながらに、藩季が頭上でやってい事は髪の結い上げだったのだと気付く。状況の整理ばかりに意識を割かれ、すっかり自分の身なりの事など抜け落ちていた。まあ、暫く自堕落な暮らしをしていたせいも否めないが。
時既に遅しと知りつつも、着物の袂で目元を隠そうとした時、背中に声が飛んできた。
「隠すな」
少し低目のその心地良い声は、未だに耳の奥にこびりついて離れない、懐かしの声だった。
「隠さなくて良い、月英」
優しさを溶かしたような声に打たれ、月英はゆっくりと振り返る。
自分の居る場所より数段高く作られた壇上。
どこかに採光窓でもあるのだろう。頭上から射し込んだ柔らかな光線が、その壇上に立つ者だけに降り注いでいた。
光の泡沫を纏い、
「殿……下……」
口にした後で「しまった」と後悔した。既に彼は最早その地位にいない。今や彼はこの国の最上であり、その姿はまさしく国の名――萬の華を体現したように艶美だった。
まさしく、彼こそが国だと言わんばかりの偉容。
思わず月英も息を飲む。
「月英」
燕明が月英の前で歩みを止めた。
見上げる形になった月英は目を瞬かせ、チリチリと揺れる旒の隙間から燕明の顔を確かめる。目を細めて笑う表情は、どこか悪戯小僧のようでもあり、また念願叶った喜悦のようにも見えた。
「月英」
「……はい」
再度の呼掛けに、月英は無意識の返事をしていた。同時に、呼びかけと一緒に差し出された燕明の手も掴んでしまう。そのまま手を引かれ、月英はゆるゆると立ち上がった。
官達が座す中、正殿の真ん中で月英と燕明は見つめあう。
「お前を太医院香療房の香療師に任ずる」
「香療……師……」
状況に理解が追いつかず、言われた単語をそのまま雛鳥のように復唱する。きっと顔も雛鳥のように阿呆面をしていたのだろう、燕明が眉宇を垂れ下げ苦笑した。
「俺がやろうとしている事は、無知な子供が砂の大海原を手探りで歩むようなものだ。だから俺の道標になってくれ。この国にはお前が必要だ。唯一、この国の外を知るその瞳の色が」
「……っ」
次に燕明は月英の背後――居並ぶ官達――に目を向けた。
「皆も突然で驚いただろう。だが、目の色が違うくらいで、皆が受けた香療術の恩恵が変わるのか? 共に三月過ごした月英の何かが変わるのか? 目の色がなんだ。髪や肌の色が違うからなんだ。そんな事、この国を変えていくんだ、些細な事だろう」
背に感じていた混迷の空気が消えた。
再び燕明は月英と向き合う。
「月英、香療師職を受けてくれるな」
月英は口を無音でわななかせた。
この胸に去来する熱いものは何だろうか。頭のてっぺんから指の先まで、まるで全身が一個の心臓になった様に、脈打ち痺れる感覚は何なのだろうか。込み上げてきた想いが喉に押し上げ、口を通り過ぎ、言葉ではなく目から滴となって溢れるこれは、何だというのだろうか。
――応えたい。
この気持ちを何と形容すれば良いのだろうか。
――この人の真っ直ぐな気持ちに、僕も応えたい。
月英は、
「謹んで、お受けいたします」
少しだけ声が震えていた。だが、しっかりとした芯のある声だった。
「ではここに、陽月英を太医院香療房の初代香療師に任ずる。異存ないな!」
燕明の宣言の如し声が正殿に響き渡った。
皆が一斉に叩頭する。重なり合った衣擦れの音は、巨鳥の羽ばたきのように大気を震わせる。「ハッ」という応えのその先で、月英は伏せた顔の下で目を濡らし笑った。
ここに、下民の出でありながら萬華国を変えたという異色の香療師、陽月英が誕生した。
◆◆◆
叙位の儀を終え正殿から出たところで、月英は雪崩に押し潰された。
「うぶあっ!」
雪崩と言っても、雪のように白くもなければ冷たくもない。白いというより不健康に青白いし、正直暑苦しい。その中でも一際目立ち、一際暑苦しい男――豪亮が真っ先に月英に抱きついていた。
「お前っ! 勝手に居なくなるんじゃねえよ! バカタレ!」
「せめて一言くらい挨拶するもんじゃないの!?」
「ねえ、月英聞いて! 私、蜜柑の精油作れるようになったんだ」
どどどと押し寄せた雪崩は、医官の群れだった。
「ごっ、豪亮! と皆、どうしたの!? 何で僕がここに居るって――って、あ」
豪亮の逞しい腕と胸板の中から、むごむごと身を捩りながら顔をあげる月英。しかし、またしても今の自分に前髪がない事を失念しており、目が合えば気まずそうに逸らす。
それを豪亮は「ガハハ」と快活な笑声で一蹴した。
「別にあの前髪の下が碧だろうと、俺達ゃ何とも思わねえよ! そんな変な顔すん、なっ!」
予想外の反応に目を点にしていた月英の額を、豪亮の
「正直、私達は政なんか興味ないからね。医術の研究ができるのなら、何だって良い感じはあるよ」
「お前の瞳が黒でも碧でも、香療術の凄さは変わらないからな」
「実は藩季様が、月英がここに居るって教えに来て下さったんだよ。だから皆で来たんだよ」
月英の瞳を見ても、医官達は誰一人として変わらなかった。以前と全く同じ様に接してくる。
「でも、驚かないの? 僕、ずっと皆を騙してた事に……」
目を瞬かせれば、豪亮も目を瞬きあっけらかんと返す。
「いや、そりゃあ仕方ないだろう。ずっとこの国は異国排斥でやってきたんだからよ。見つかったらどうなるか分かんねえし、俺でも隠すぜ」
うんうん、と取り囲む医官達も真面目な顔で頷いていた。
「でも良かったな、もう隠さなくて済む」
ニッと歯を見せて笑う豪亮の視線が、月英からその遙か後方へと飛んだ。
「即位式の時に、陛下が宣言された。――『何者も偽らず、否定しない国にする』って」
豪亮の腕がそろりと外れた。それと一緒に周りの医官達も豪亮の後ろへと引いていく。どうしたことだろうか、と不思議に思えば、背後から肩を叩かれた。
「何も持たないと言っていたお前が、これだけの仲間を手に入れたんだ。誇れよ、月英。これだけの人を変えたんだ。これだけの者達を認めさせたんだよ、お前は」
燕明だった。
豪亮達は姿勢を正し、拱手と共に腰を折る。
「では陛下、私共はこれで失礼いたします。どうか陛下におかれましては、宣言された国造りがつつがなく成されますよう、医官一同願っております」
チラと視線を上げた豪亮と視線が交われば、彼は口に弧を描いた。
「じゃあな、香療師殿!」
わざとらしく官位名を呼んで去って行く豪亮達の背を、月英は嬉しそうに見送った。
胸が清々しい思いで満たされていた。
「さて、それじゃあ、僕も新しい職場を見に行こうかな」
言いながら、豪亮達の後を追うように太医の方へ一歩足を踏み出そうとすれば、肩に掛かっていた力が増した。物凄い力でぐいっと後ろに引っ張られ、蹴り上げた足が次の一歩を踏みもせず、元の位置に戻ってきた。
「あの……陛下? ちょっと手を……」
振り仰ぎ見てみれば、燕明は笑っていた。ただし、その表情は笑みというには暗すぎた。どうか逆光のせいで暗く見えているだけであって欲しい。
しかし、肩を掴む彼の手はギリギリと力を増すばかり。
「あの……」
「逃がさんぞ?」
逆光のせいであって欲しかった。
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