終-2

 萬華宮では華々しい新年を迎えていた。

 正殿の一番高い位置に座すのは若き皇帝、華燕明。

 彼の眼下には、正装姿の五位以上の官吏が居並び、朱塗りの柱や金銀煌びやかな天井壁画の装飾も相まって、目にも鮮やかな景色が広がっている。


「――現、尚書省礼部尚書しょうしょしょうれいぶしょうしょ孫二高を、新たに門下省侍中とする。空いた礼部尚書には次官である、現、礼部侍郎れいぶじろう藺円りんえんを付けるものとする」


 燕明の言葉に、短く「ハッ」と二つの声が上がる。

 元日からの宮中儀礼や祝賀が終わり、新年五日目にして『叙位じょい』が行われている真っ最中だった。

 全ての官位異動を言い渡したが、正殿の中にはまだ釈然としない空気が流れていた。

 それもこれも、孫二高が新たに付いた門下省侍中の席に、本来居るはずだった人物の姿が見えないせいであった。

 蔡京玿は冬至の祭祀と即位式を待って、正式に辞官した。それは勿論、宮廷に勤める者ならばとうに知っている事だった。


 しかし、ああも強固に融和策に反対していた者が、あっさりと官を辞してしまった事に、しかも正月を待たずして途中で居なくなった事に、皆疑念を抱いていた。

 一連の出来事は、朝廷官吏である各部省の長官達しか知らない。多くの官吏はその唐突な辞官に、何か宮廷を揺るがすような事――政争――が裏であったのでは、と不安を持っていた。官吏達の燕明を見る目に不安が宿っている。


 いつの時代も、政争は必ず勝者と敗者を生み出し、少なからずの禍根かこんを遺す。その遺された禍根の芽はいつ萌芽ほうがするのか――明日か明後日か一年後か、それとも十年後か、誰にも分からない時限式の不安を植え付けることになる。

 その恐ろしさを、居並ぶ官吏達は過去の歴史から知っている為、安易に看過できないのである。

 燕明はその眼差しに口を開いた。


「前門下省侍中であった蔡京玿についてだが、皆が今、不安に思っているような事はないから安心して欲しい」


 その一言で幾分か空気が緩んだ気配があった。しかし「では、どうして」との疑問の目は残る。


「実は蔡京玿には特別な任務に先んじてついて貰っている。それ故、皆より一足先に侍中職を返還し、新たな官職を与えたまでの事」


 ここまで言えば官吏達も詰めていた息を吐き、納得に目から猜疑を消した。

 明らかにホッとしてざわつきが戻って来た事に、燕明は微笑した。


「安心してくれ、蔡京玿はちゃんとピンピンしているさ。赤猪せきいでな」





       ◆◆◆





 萬華国西端の邑、赤猪せきい

 ここは萬華国と異国との境に立つ関――『荀外関しゅんがいかん』から最も近い邑である。

 そこの城壁に佇む、真っ白頭の老人。


「はぁ……やっと静かに暮らせると思ったのだがな」


 ぼやく老人は歳の割に体格が良く、背筋も真っ直ぐに伸びており、他者に与える印象は赤猪を取り巻く武骨な岩山のように、厳然としたものだった。


「本当にあの小僧は……全く憎たらしいもんだ」


 悪口を吐くが、その顔は「してやられた」というように苦笑していた。


「隠棲のつもりで辞官したが、まさかこの歳になって太守を任じられるとは……。ったく、老人をこき使いすぎだ。大理寺に訴えてやろうか」


 老人――蔡京玿は、城壁の西側に沈む夕陽に、あの日の空を重ね回顧した。





 それが来たのは、蔡京玿が辞官し自宅で「さて余生をどう過ごそうか」などと考えていた時だった。

 宮廷の使者が届けたのは、燕明からの手紙だった。

 巻くようにして長方形に畳まれた手紙をクルクルと解いていけば、文字が現れる。

 そこには劉丹の処遇について記してあった。


『「劉丹の処遇は国外追放とした。孫二尚書の部下という事もあり、件の子細は伝えてある。なお他の長官達には、お前と劉丹の関係は伝えていないから安心しろ」――とな』


 これが、今回の騒ぎの落としどころという訳か。

 さすがに今回の件は長官達には知れ渡っており、蔡京玿を無罪とするなら、代わりに本当の犯人の名を上げる必要があったのは言うまでもない。また皇族を害すれば、劉丹の身分なら死罪相当だっただろうが、そこは燕明が上手く減刑させたのだろう。

 恐らく「害意はなく、偶然準備中に過って薬剤を落としてしまった」とか何とかと、あやふやにして。劉丹が礼部の官吏であった事も丁度良かったのだろう。

 しかしそれでも国外追放。

 今後融和策を推し進めるにしても、現状国外追放は死罪に次ぐ重罪だった。


『まあ、命があるだけマシだろうな』


 一応約束は守ってくれたのか、と蔡京玿は安堵に眉宇を緩めた。


『ん? まだ続きがあるのか』


 てっきりそれだけかと思えば、まだ手紙は何重にも巻いてあり、続きがある事を示していた。蔡京玿は手早くそれを広げる。

 そこには、劉丹は国外追放としたが実際は特別な任務を任せてある、というような内容が記してあった。


『――なに! 異国先遣隊だと!?』


 劉丹に与えられた特別な任務というのは、国外――異国を訪ね歩き、その文化や人の営みを学び、それらを萬華国に持ち帰る事だと書かれていた。


『何々? あー……「既に劉丹は荀外関を出ている。戻りの期日は決めていない。一年後か二年後か、十年後か。またこの任務は公のものでない為、知る者が限られている。しかし彼が戻ってきた場合、いち早く報告する内情を知った人間は必要である」――』


 そこまで読んだ蔡京玿の手が、次を広げるのを躊躇う。この先に何となく面倒な事が書かれている気がしてならない。

 蔡京玿は一度深呼吸すると意を決して、その先を一気に広げた。

 その先には「よって、荀外関に一番近い邑、赤猪の太守に蔡京玿を任ずる」と、しっかりした墨字で書かれてあった。

 思わず蔡京玿の口端も小刻みに痙攣する。

 せっかく、全てのしがらみから解放され、気ままに余生を送ろうと思っていたのに。手紙一枚でその夢想は塵となる。


『小僧め……』


 しかも最後にしっかりとぎょくが押印してある。つまりこれは勅命であり、拒否権はないという事。


『皇帝になった途端、ここぞとばかりに権力を使ってきおるわ』


 手紙からそこはかとなく「簡単には休ませぬわ」と、燕明の高笑いが聞こえてくるようだった。

 しかし蔡京玿は再度その手紙に目を通すと、言葉とは裏腹に『やれやれ』と表情を緩めた。

 手紙の最後の一文はこう締めくくられていた。――「子を最初に迎えるのは親の役目である」と。




 

「――ったく、勅命ならば受けねば仕方あるまいよ」


 蔡京玿は城壁の上から、太陽が燃えているかの様な西の空を眺めた。視線の先に、岩山の合間に築かれた荀外関が小さく見えていた。


「まさか、あの扉が開く日を待ち遠しく思うとは……」


 扉が開く時、新たな風も一緒に吹き込むだろう。異国の香りをふんだんに含んだ風が。それはきっとあの香りのような、心を癒やす香りなのだろう。

 蔡京玿は懐から一枚の手巾を取り出した。

 それは互いの名も知らなかった時に、何の下心もなくあの者が施してくれた手巾。匂いなどとうに褪せて今ではただの一枚の布切れだが、鼻を近づけ瞼を閉じれば不思議と心が休まる。それはきっと心に残る優しさの香り。


「――瞬姜様。貴方様の御子は、貴方様とは違ったやり方で、この国を守っていくのかもしれません」


 蔡京玿は、もう少しだけ、この国の行く先を見てみようかという気になっていた。




 

       ◆◆◆





「皆は十分知っていると思うが、俺はこの国を開きたいと思っている」


 燕明の言葉を、官吏達は真剣な眼差しで静聴していた。


「長い間この国は門戸を閉ざしてきた。もちろんそれが悪いわけではない。その長い歴史があったからこそ我が国は、この広大な大陸で東覇を唱えられる程に成長した。しかし、成熟しきった文化や教義、営みがもたらすのは何も正の面ばかりでなはい。決まりきった平穏が人々にもたらすのはけんえんだ。内を固めることも重要だが、時に新しい風を入れる事も、俺は同じくらい大事なだと考えている」


 燕明の言葉は、何も否定してはいなかった。

 燕明のとろうとしている政策は、それまでの皇帝のとってきたものとは正反対の道を歩む事になる。本来ならば真逆の政策を通す時、刻の権力者達は過去を否定し、自分こそが正義だと声高に叫ぶものだ。

 しかし、燕明は一切それをしなかった。

 過去の政策もこれからも、どちらも大切だ、と真摯な言葉で居並んだ者達に説いた。それが功を奏したのか、誰一人として燕明の所信に眉を顰める者はいなかった。


「俺は否定しない」


 これ程、説得力のある言葉を宣った皇帝が居ただろうか。事実、燕明は何も否定していない。それまでの政策も、国の在りようも、最後まで異を唱えていた蔡京玿でさえ、燕明は否定しなかった。

 同時に、それは痛烈な皮肉でもあった。長らく異国を否定することで存在してきたこの国への。


「俺はこの国を変える。その為の異国融和策――それが俺がこれからこの国の中心に据える柱だ」


 その言葉に、いよいよか、と官吏達の表情がピリリと引き締まった。

 いよいよ華燕明の治政が始まる。異国への門を開くという未知の国造りが。


「その第一歩として、一つ新たな官職を設けたいと思う」


 燕明の声は凜として、とてもよく通った。

 皆が息を殺してその一声目を待つ。燕明が次に口にする一声で、異国融和策の方向性が分かる。

 正殿はまるで冬の朝ぼらけのように、深と張り詰めた空気に満たされていた。

 燕明が口を開く。


「太医院の中に、今の医薬房とは別の新たな房『香療房こうりょうぼう』を置く」


 凪いだ湖面が風に煽られさざ波立つように、燕明の言葉は官吏達を一瞬にしてざわめき立たせた。

 てっきり政策に関する官職――三省六部に付随するものかと思っていたら、まさかの太医院。医療を司る太医院では、確かにその医術の進歩のため、呈太医の元、医官達が日夜研鑽に励んでいることは知っていた。皇族や百華園の妃達だけでなく、外朝の官吏達も世話になっている。


 しかも、その新設される房の名が『香療房』。

 官吏達の中には、燕明がこの先に何を言うか分かったように、既に口元を綻ばせている者達も居り、それは朝廷官吏の中にもだった。

 官吏達から漏れ出た笑みに気付いた燕明も勿体ぶるように、にやにやとしたり顔を返す。


「きっと、ここにも世話になった者が沢山居るんだろうな」


 太医院から唯一参列していた呈太医が、ほほとまろやかな声で髭を揺らした。


「そこに勤める者には医官とは別の名を授ける――【香療師こうりょうし】と。そして、その官職を最初に受ける者の名は――」


 堂々とした燕明の声と共に、正殿の扉が唸るようにして開いた。



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