5-5

 五人が牢塔から出れば、西の空は黄金に輝き、褐色に染まる雲の陰影が隙間から漏れ出たこうぼうを、一際神々しいものへと際立たせていた。


「まさか……下民の医官に教えられるとは……」


 台詞だけみれば自嘲にも聞こえただろうが、しかし蔡京玿は清々しい険の落ちた顔で微笑していた。

 その蔡京玿を横目に、燕明も表情を柔らかくすると鼻から息を漏らした。


「俺も、あいつには教えられる事ばかりだ」


 燕明の視線の先には、劉丹の肩を叩きながら笑う月英がいた。


「本当ですね…………不男色」

「藩季」


 燕明がギロリと睨み上げるが、藩季は袂を口に押し当て「ふふ」と楽しそうに笑うばかり。


「そうだ蔡京玿。辞官は受け取ったがどこそこへと行くなよ? 宮廷官達は今回の件を知らないとはいえ、どこから漏れるか分からん。暫くは自宅で静かにしていろ。長官達には俺や孫二尚書から適当に言っておく」

「ご心配なさらず。やっと誰かのお陰で心労過多だった宮廷生活から解放されたんですから、暫くは家でゆっくり過ごさせて頂きますよ」


 燕明は口端を引きつらせた。


「……相変わらず口が減らぬ狸め」

「はは、これで漸く殿下も狸から解放されましょうな!」


 至極楽しそうに笑う蔡京玿を横目に、燕明は今度は目の下をひくつかせた。かつて狸が仲間と見間違うほど立派な隈があったその場所を。

 しかし、今ではその跡はどこにも見当たらない。


「心配無用だ――」


 燕明は、その一点の曇りもなくなった端麗な目元を細め笑った。


「――俺にはもうあいつがいる」





       ◆◆◆





「劉丹殿。もしかして僕に近付いたのって、蔡侍中を害する為ですか?」


 歯に衣着せぬ物言いに、劉丹の方が口籠ってしまう。


「医官なら毒薬について知ってるし、とくに僕みたいな新人は使い勝手も良いでしょうし。まあ、僕に毒薬を聞かれてもサッパリでしたけど」

「相変わらず変わってるよねえ、月英ちゃん。普通思ってても、気まずくて聞かないよ」

「すみません。回答によっちゃ対処法も異なると思いまして」

「何されるの、僕」


 劉丹は首を掻きながら、気まずそうに月英の視線から顔を背ける。


「あー……確かにそれはあったよ。葉無花果について教えて貰った時は、良い情報貰ったって思ったし」

「その葉無花果の精油を盗んだのはあの時――葉無花果を見たいって来た時ですよね」

「そう。ちょっと躊躇ったんだけど、取り敢えずって感じで、ね」

「僕も滅多に使わないから、確認を怠ってました。宮祀儀礼の後に確認したら空になってて……やっぱりなって」


 呈太医から渡された燕明の着物の香りを確認した後、月英はすぐに自分の精油棚を確認した。どうか思い違いであってくれ、と思いつつ手に取った精油瓶は軽く、愕然とした覚えがある。


「ごめんね、月英ちゃん。信じて貰えるか分かんないけど……使う気はなかったんだよ。本当。一応のお守りみたいな」


 それは何となく分かっていた。

 最初からそれ程の害意塗れで近付かれていたら、月英もここまで気は許さなかっただろう。途中までは本当に使うつもりはなかったのだと思う。


「……きっかけは言っていた、清水の時……ですか?」


 うん、と劉丹は頷いた。


「母は父を愛してたし、僕は母を愛してた。『それなら僕は?』って思っちゃったんだ。僕を愛してくれる人は居ないのかって。目の前に居るのは父親でもなんでもなくて、僕の存在を否定する人なんだ。じゃあ、要らないやって」

「けど、実際は違いましたよね」

「……うん。そうだね」


 劉丹の顔は、眉が下がり口元も緩く弧を描き、どこか嬉しそうだった。

 夜の涼しさを含み始めた風が、地上を駆け抜けた。

 風に煽られ、ふわりと翻った劉丹の袍。その袖には薄らとした染みが残る。それは彼の心と蔡京玿の命をギリギリで救った印。そこに視線を向けていると、気付いた劉丹が袖を手に取ってまじまじと眺める。


「……色んな意味でコレのお陰だね」

「お母さんが守ってくれたんじゃないですか、劉丹殿と蔡侍中を。仲良くしなさいって。もしかしたら精油の染みじゃなくて、お母さんの涙だったりして」

「はは! 相変わらず月英ちゃんは面白いね。でも、その考えも悪くないね」


 悪くないと控え目に言う割りには、袖先を眺めるその目は少しばかり潤んで見えた。


「……で、僕はどう対処されるのかな? 出来れば命に関わらないのがいいんだけど」


 先程は覚悟できていると言っていた癖に。

 じっとりとして見つめれば、劉丹は、「へへ」と片目を閉じて、決まりの悪そうな笑みを返してきた。その顔を見れば、ついつい月英も脱力してしまう。


「本当……憎めないですね、劉丹殿は」


 だがそれとこれとは別問題だ。


無花果葉フィグの精油は、僕のお気に入りって言ったの覚えてます?」

「ああ、そうだったね」

「あれは無花果の葉が手に入らないと作れないんですよね」

「そう……だね」

「知ってます? 葉って年がら年中茂ってるわけじゃないんですよ」

「…………はい」

「よくも僕の癒やしをっ! くらえ目潰し蜜柑汁!」

「待ってどこから――ッぎゃああああ!?」


 

 ――子順父さん。あなたは最期に僕に「生きろ」と言いました。いつの間にかその約束を守る事が目的になってました。


 しかしきっと彼は、自分にただ生きる事を望んだわけではない。

 ただ息をして、ただ日々を数え、ただ終わるその日まで、そこに佇み腐っていくのを待つだけ――そんな生き方を望んだのではない。

 月英は遮るもののない広々とした空を振り仰いだ。自分の目の色と正反対の茜の空。先程より幾分か地平の彼方に身を隠した太陽は、東から夜を引き連れてくる。ひると夜の境目が分からなくなる全てが一同に会した空は、歪なように見えて調和している。

 視界の端に燕明達が映れば笑いかけられた。自然と返す笑みに表情も柔らかくなる。

 十八年間、毎日空は変わらずにそこにあった。

 その空をこうも美しいと思ったことはなかった。しかし、今こうして変わって見えるのは、きっと自分が変わったから。変われたからではないのか。

 満足げにその空を眺めていれば、視界ににょきっと劉丹の顔が入り込んできた。


「月英ちゃんの瞳って宝玉みたいだよね。碧に茜が映って……何だろう、今まで見た事ない色になってて、何て表現したらいいか分かんないけど……とにかくすごく綺麗だよ」


 自分では自分の瞳の色は分からないため、どんな色になっているのだろう、と月英は無意味と知りつつも目を擦ったり、劉丹の瞳に映る自分の目を見つめた。

 すると、追いついてきた燕明にポンと頭を叩かれる。


「当然だ。月英はこの国に無かったものを持った存在だからな。世界は俺達が知らぬ事でまだまだ沢山だ。その色の名は、これから探していけば良いさ。今は萬華国の外にしかない色でも、いつかこの国で当たり前に呼ばれるようになるさ。それこそ香療術のようにな」


 月英は懐からあの紺表紙の本を取り出し、燕明に手渡した。


「ん? これは、お前が大事にしてる本じゃないのか」


 破り取られた表題に入る言葉は『西国』。香療術は萬華国の術ではない。陽光英が持ち帰った異国の術。そして、月英に唯一遺した術。


 ――きっと本当の父さんも、子順父さんも、僕に僕らしく生きる事を望んだんだろうな。


 本もその為の手段として渡されたのだろう。なのに自分は、いつの間にかその本を心の支えにしていた。手段ではなく、遺物としてしか見ていなかった。だから――


「僕にはもう必要ありませんから」


 ――ここで、自分らしく生きるという事を学んだから。


 たったの三月だったが、自分の中の全てが変わった。生まれ変わったと言った方が近い。


「異国の事も書いてあるので、融和策の何かにでも役立ててください」


 ――もう心の支えは必要ない。


 こうして自分の足で立って、空を美しいと見上げ、そして歩いて行けるから。

 月英の表情から何かを察した劉丹が、慌てて月英の手を掴んだ。


「――っ月英ちゃん。確かに出会い方には下心あったけどさ、僕の好きって気持ちは、下心抜きで本当だからね。いつも冗談で済まされてたけど」

「だって冗談ぽくいつも言うから。それに僕は男ですよ」

「月英ちゃんなら、男でも女でもどっちでもいいよ。……だから、どこにも行かな――」


 すると、良い感じになりかけていた月英と劉丹の間に、話を遮るようにして燕明が手刀と共に割って入ってきた。


「ちょっと待て、好きってどういう事だ! 『いつも』って何の話だ!? 好きって……っ、こっち向け月英! お、おお俺もす……っ、す、好きなんだが!?」


 途端に月英は「うへぇ」と聞こえそうな、奇特生物を見るような顔になる。


「……っス」

「それだけええ!?」


 薄帳が下り始めた空の下で燕明の慟哭が響いた。

 藩季が肩を小刻みに揺らしていた。蔡京玿は至極愉快そうに鼻で笑っていた。劉丹は苦笑していた。

 月英は腹を抱える程笑った。

 そして滲み出た涙を拭うと、綺麗に腰を折った。


「お世話になりました」




 ちょうど明日が、臨時任官の期限だった。

 期限を待たずして、月英は萬華宮を去った。


 

 

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