5-3

 コツリコツリ、と寒々しい空間では、その響く足音でさえも物悲しく聞こえた。

 石造りの階段を下りれば、その麓には幾つもの鉄格子の部屋が並んでいた。どの牢も広く、牢塔の中だというのに清潔が保たれている。地下で光が入らず少々肌寒い事を除けば、平民の家とそう変わらない。

 東の牢塔は貴人用だった。

 その一室に、鉄格子に背を向け座す白髪頭の老人が一人。ベッドに座らず硬い石床に居るのは抵抗の表れか。


「何度聞かれようと、私は何も知らんぞ」


 つっけんどんな言い方は、何度も大理寺だいりじに同じ質問をされて不愉快だという現れだろう。


「知ってるよ、蔡侍中」


 しかし掛けられた声音がいつもとは違う事に驚き、蔡京玿は勢いよく振り返った。


「――っな、何故……あなた様が……!?」


 かつてこんな顔を見たことがあっただろうか、とその彼は愉快そうに肩を揺らしていた。


「殿下――っ!」


 鉄格子の向こうに居たのは燕明と藩季だった。彼――燕明は何の抵抗もなく牢の鍵を外し、中に押し入る。


「な、なぜこんな所へ!?」

「無実の罪で裁かれるのを、黙って見過ごす事は出来んからな」

「無……実? あなた様が……私の無実を信じて……下さるのですか。他の者達は皆とうに見捨てた私を言葉を……」

「俺だけじゃないぞ。孫二尚書も、お前はそんな事やる奴じゃない、と訴えていたよ」

「……こうめ」


 膝の上で丸められた拳が着物を巻き込み、蔡京玿の着物はぐしゃりとよれていた。俯き肩を震わせる姿に、あの堂々として他を圧倒する雰囲気はなく、小さくなったただの老人に見えた。


「しかし、自分で言うのも何ですが、あの場の証拠だけでは私が犯人と疑われても仕方のないこと。……まさか、ここで助命する代わりに融和策を認めろなどと――」

「そんなずるい事はせん」

「そうです蔡侍中。するつもりならば、燕明様は先帝が崩御してすぐにあなた様から官位を取り上げていたはずです」

「力でねじ伏せても、それじゃあ意味がないからな。ちゃんと朝廷に納得して貰った上で、俺は即位したい」


「どうしてそこまで」と蔡京玿は唸った。


「朝廷は俺を支える柱だ。一つでも折れれば揺らぐ。ましてや国の方針をまるっと転換させようというんだ。そんなぐらついた状態で執政など出来るか」


 蔡京玿が顔を上げれば、まっすぐに自分を捉える燕明と目が合った。袖から見える手にはまだ包帯が巻かれ、痛々しさが残る。

 清水せいすいで負った傷。

 清水を用意したのは自分。

 自分は燕明の即位も政策も拒んできた、謂わばいとわしい存在。

 どう考えても、誰が見ようと、犯人は自分でしかない、と蔡京玿は思った。

 しかし燕明は「無実を知っている」と言った。

 自分の意見に付き従っていた長官達ではなく、反目していた、自分を一番嫌っているだろう人間が、自分の言葉を信じると言った。

 それは、蔡京玿の心に多少なりともクるものがあった。

 ぎゅうと蔡京玿は胸を握り絞める。そして当然の質問を口にした。


「――犯人は誰なのです」




 

       ◆◆◆





 燕明達が東の牢塔へ向かったのと時を同じくして、月英は外朝に居た。

 キョロキョロとお目当ての房の近くをうろついていれば、目的の人物の方から声が掛かった。


「げ~つえ~いちゃ~ん!」


 相変わらず変な抑揚をつけて呼んでくる。そんな事をする者は、数多居る官吏の中でも彼だけ。


「こんにちは、劉丹殿」




 月英は劉丹の手を握って歩いていた。


「え、ちょ!? 逢瀬デートのお誘いは嬉しいけど、ちょっと僕まだ仕事が!?」


 というより、無理矢理手を引っ張って歩いていた。


「大丈夫です。礼部尚書にも了解は貰ってます」

「珍しく強引だねえ、月英ちゃん。やっと僕の気持ちを受け取ってくれたんだ? じゃあこれが初逢瀬って事なんだけど、ねえ、どこに向かってるの?」


 月英は足を止めると、繋いでいた手を離した。


「ここは……」


 そこは外朝の東端――各部省の房もなくなり、閑散とした場所だった。すぐ側には白壁が走り、その向こう側には背の高い石塔の頭が見えている。


「本当にどうしたの月英ちゃん。こんな人気のない所に連れて来るなんて。もしかして、男色って知らな――」

「知ってますよ」


 両手を広げ、半ば冗談めいた態度をとる劉丹の言葉に月英が重ねた。


「僕は、全部知ってます。劉丹殿」


 なんと答えて良いのか、「え、あ、その」と困り眉で曖昧に笑う劉丹。しかし次の月英の言葉に、その緩まった表情には緊張が走る。


「全部知ってます。あなたが殿下に怪我を負わせた事も、蔡侍中にその罪をなすりつけた事も」

「意味が、分からないなあ」


 劉丹の顔に先程までの陽気さはなかった。口角は上がっているのに、目はまるで笑っていない。こんな表情見たことなかった。


「殿下は体調を崩されて倒れたんだろう? 怪我って何の話?」

「確かに混乱を防ぐため、一応官吏達にはそう伝えてあります。けどあなたは分かってますよね。倒れた原因――清水に毒物が混ぜられてたからだって」

「へえ、そうだったの! 知らなかったなあ」


 どこまでもとぼけようとする劉丹に、月英は痺れを切らし、彼の袖を強引に引っ張った。


「――この染み、どうしたんですか?」


 劉丹の袖には見覚えのある透明な染みが出来ていた。境界線だけがくっきりと型付いている染み。同じものが燕明の儀式の服にもあった。


「ちょっとスープでもこぼしたんじゃないかな」

「それにしては、羹の香りはしませんね。それどころか――」


 くんっと袖を引っ張り、月英が鼻を近づけた。羹にしては爽やかな香りが鼻腔の奥を撫でる。


「僕の知っている香りがしますけどね?」

「――っ!」


 劉丹は腕を引き、月英の手の中から強引に袖を引き抜いた。どこかその顔には焦りが見える。


「そんなはずはないね! しっかりと洗ったし……!」

「元々ソレは水で洗っても取れないんですよ。……油ですからね」


 月英には劉丹の袖に何が付いたのか、最初から分かっていた。宮祀儀礼のあったあの日から――それは、精油だった。


「清水に濡れた殿下の袖も同じ香りがしてましたよ。どうして、あの時僕と一緒に居たあなたの袖と殿下の袖とが、同じ香りになるんですかねえ?」


 劉丹は月英の視界から隠すように袖を握り絞め拳の中に収め、そっぽを向いた。悔しそうに下唇を噛む顔からは、噛んだ部分が赤く滲むのに反比例して、血の気がゆっくりと引いていく。


「劉丹殿。僕はあなたが隣に来た時から、どうしてあなたから精油の香りがするのか不思議でした。しかも、その精油は絶対に僕が使わないやつだし。そんな中、殿下が倒れ、その着物の袖から同じ香りがする。そして殿下は肌を焼く怪我をしたと聞けば……僕には絶対分かるんですよ」


 劉丹は反論しなかった。


「ただそこまで分かっても、僕にはどうしても分からない事がありました。――それは、『なぜ、蔡侍中だったのか』という事」

「……そこは、『なぜ、殿下を狙ったのか』じゃないんだね」


 劉丹の横顔にある垂れた片目が、じろりと月英を向く。


「最初はそう思いましたよ。実際殿下が怪我してますし。でも、今回の事で一番苦境に陥るのは誰だろうって考えると、簡単なんです。宮祀儀礼は中止になったし、怪我もしたしで殿下も多少不利益は被ってますが、即位は出来る状況になりました。しかも怪我は二週間もあれば完治するようなもの。どう見ても、あの騒ぎの大きさに不利益が見合わない。じゃあ一番不利益があったのは? ――間違いなく今、収監されている蔡侍中でしょう。あの状況だったら間違いなく、清水を用意した蔡侍中に処分がいく」


 ゆっくりと劉丹の顔が前を向き、まっすぐに月英と対峙する。


「劉丹殿、僕には聞く権利があります。だって、僕の精油を使ったんでしょう?」

「……因みに、何の精油を使ったと思ってるの」

無花果葉フィグですよね」


 劉丹は空を仰ぐと「はぁ~」と、胸の内に溜ったものを全て吐き出すような、長い溜息をついた。後頭部をくしゃくしゃと掻く姿は、先程まで纏っていた重苦しい雰囲気など微塵もなく、以前の様な軽妙さが戻っていた。


「はは、よくあんな雑談を覚えてましたね。光毒性なんて、全く劉丹殿の仕事には関係ない知識なのに……」


 つられて月英までも張り詰めていた緊張の糸が緩んでしまう。やはり彼には空気を和らげる才能があるのだろう。そんな悪とは無縁そうな彼が、朝廷官吏の長である蔡京玿を貶めるなんて誰が想像できよう。


「言ったでしょ。君との話は面白いって。それに好きな子の話は忘れないでしょ、普通」

「また、冗談言って」


 月英が肩をすくめてやり過ごすと、劉丹は眉をハの字にして「本気なのに」と笑った。


「それにしても、いやはや誤算だね。君の鼻の良さを侮ってた」


 とうとう劉丹は、自分がやった事だと暗に認めた。しかしそれを聞いても、月英は特に責めはしなかった。むしろどこか安堵したように口元を緩めた。


「誤算して良かったですね。お陰で間に合いますよ」

「何に?」


 月英は劉丹の手を、今度は優しく掴んだ。


「僕、どうして蔡侍中を狙ったか分からないってさっきは言いましたけど、本当は理由の見当は付いてるんです」


 手の中にあった劉丹の指先が僅かに反応した。


「蔡侍中は、あなたの父親ですよね」

「どうして……っ」


 途端に劉丹の口角は下がり目は眇められ、渋を食ったような表情になる。


「なぜ、って理由を探した時、以前に劉丹殿が話された事を思い出したんですよ。それでもしかして、って。まあ一番は、蔡侍中と劉丹殿のふとした表情が似てたからですけどね」

「今まで一度だって気付かれたことないのに……」

「笑った時の目元とかそっくりですよ」

「ああ、なるほど。あの人は笑わないし、あの人の顔をまじまじと見れる人なんて居ないもんな。通りで今までバレなかったのか」


 そんな事あるのだろうかと思いつつも、確かに朝廷官吏の権力者である蔡京玿の顔を、まじまじと見つめる猛者も居ないだろう。


「それで、何が間に合うの? まあ、僕が真犯人で突き出されたら、あっちの処断はなくなるって事だろうけど」

「まあそれもですけど、色々ですよ。僕は劉丹殿には後悔して欲しくないですからね」

「……後悔?」


 まだ釈然としない劉丹の手を、月英は引っ張った。


「さあ、行きましょうか」



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