5-2

 月英は燕明と藩季と共に萬華宮の外に出ていた。


「いやあ、久しぶりだな。に来たのも」

から、もう三月近くなりますか」


 燕明がチラと視線を寄越したような気がしたが、月英は気付かないふりをした。

 まだ日は中天で輝いている時間、世間は汗水垂らし働き、頭を捻り文字を記している一方、ここはひっそりと眠る時間だった。

 月英も久しぶりにその区域に足を踏み入れる。

 ここは祥陽府の夜が色濃く香る街――花街だった。


「――二十五、六年前の妓女ですかぁ? そんな昔の事を知る妓女は居ないと思いますよぅ」


 その妓女を見るのも久しぶりだった。相変わらず眠たそうな喋りをする人だ。営業時間前という事もあり、妓女はいつもの幾重にも重ねられた艶やかな着物姿ではなく、襦袢に薄羽織りという簡素な出で立ちだった。ただ流石は祥陽府で一、二位を争う高級花楼の妓女だ。普通なら手抜きに見えるような格好でも、解かれた濡れ羽色の髪を横に長し、身体の線が出るように帯を締め、薄化粧でもしっかりと色気を漂わせている。


「金は言い値を払います。あなたで分からなければ他の方達にも聞いて欲しいのですが」

「そんな事言われても、元々妓女は三十過ぎればお茶挽きですしぃ、長くても三十五には上がりますもの。特にうちみたいな高級花楼は、それなりの妓女を揃えなければいけませんし、今残る年嵩の妓女でも二十七ですものぉ」

「妓女でなくとも、誰かこの街で長くいる方を知りませんか」


「んー」と悩ましげな声と共に、顎に柳の枝のようにたおやかな指を這わせる妓女の姿は相変わらず美しい。


「あぁそういえば、妓女上がりの店主がやってる花楼があったようなぁ」

「何、どこの花楼だ!」


 燕明が食いつくように腰を上げた。

 すると妓女は、燕明と藩季の後ろでずっと石のように沈黙を守っていた月英に、ふと視線を向けた。


「誰かと思ったら随分と小綺麗になったわねぇ、月英。けれど相変わらず不細工な前髪ねぇ。見てるだけで鬱陶しいわぁ」


 形の綺麗な薄い唇がにやと歪んだ。


「良かったわねぇ。こんな雅な旦那様にお仕えできてぇ。けれど……それって私のお陰でしょう? ねえ、だったらあんたの術を私にも教えてちょうだいなぁ?」

「そ、れは……」


 香療術を知りたいというのなら、本来喜んで教えるべきだろう。この香療術を世に広めるのが、月英の目指すところなのだから。

 だが――


「いえ。お断りします」


 月英ははっきりとした語気で拒絶した。妓女のこめかみが、ひくりと痙攣する。


「下民の分際で生意気ねぇ。使ってやってた恩を忘れたのかしらぁ?」

「教えるのが嫌なのではなく、あなたにこの術を使われるのが嫌なんです」


 ――この術は、父さんが僕に残してくれた……大切な術だから。


 以前までの月英と違う毅然とした態度に、妓女の片眉と上唇は険しく吊り上がった。そして、矛先を月英でなく燕明に切り替えた。


「ねぇ旦那様? 私を身請けして下さるのなら、その花楼の名を教えて差し上げてもよろしいですわぁ」


 妓女は月英を無視して、その色香で出来たような肢体を妖艶に揺らしながら、燕明ににじり寄る。


「私がこの子と同じ術を使えれば、この子を雇う必要はありませんわよねぇ? 旦那様も、同じ術を使えるんなら、こんな陰気な下民の小僧よりも、私の方をお側に置いた方が良いと思いません? もちろん――」


「毎夜でもお相手いたしますわよ」と、妓女は燕明の耳元で艶っぽく囁いた。しかし、妓女の指が燕明の頬を撫でようとしたその瞬間――


「――ッあガぁアっ!?」


 妓女は化け物染みた声を吐いて、ドッと床に押し倒された。毎夜押し倒されているだろう妓女も、さすがにこんな倒され方はしたことがないだろう。藩季の大きな手が、妓女の顔を鷲掴み、指の力だけでぎりぎりと締め上げている。


「あ゙ア゙ぁ……やっ、やめ――ぇッ!」


 妓女の小さな頭など、皇太子の護衛役である藩季の力の前では卵も一緒だ。視界を塞がれた中で、次第に頭や顔に食い込む指は恐怖だろう。藩季の腕に爪を立て、着物が乱れるのも構わず足をバタつかせる妓女に、美姫の面影はない。


「無礼者が。我が主にその腐った息を吐きかけるな。面の皮一枚の美で何を威張っている。その皮の下は腐臭がさぞかし酷かろう……剥いで確かめようか?」


 月英は目を丸くしてその光景を眺めた。いつも朗らかに笑っている藩季が、優しさしか宿ってないと思っていた手で、妓女を壊そうとしていた。


「月英殿を侮辱する言葉もいただけない。月英殿はお前より遙かに美しい。それが分からぬからお前は醜いというんだ」


 月英が言葉を失っているのに対し、燕明は驚きもしていない。それはつまり藩季のこういう側面を知っていたのだろう。


「藩季、退け。それくらいで十分だ」


 藩季は「ハッ」と短く答え、そつのない動きで燕明の隣に戻った。それはいつものおちゃらけた感じの主従とは違い、本物の主従の姿だった。

 床では妓女が浅い息を吐きながら緩慢な動きで身を起こしている。顔に掛かる乱れた髪の隙間から燕明を睨み据える瞳は、美姫とはほど遠い醜悪さに歪んでいた。


「あなたは確かに美しい。だが美姫よ、それはこの狭い花街の中だけの価値観。俺はあなたを美しいとは思わん。だのに、こうやって俺があなたを美姫と呼んでやってるのも、座して話を聞かせているのも、最低限度はこの世界の礼儀をわきまえているからだ。もし、あなたが俺の世界に入りたいというのならば、俺もコイツも容赦はしないが」


 月英からは前に座る燕明の表情は見えなかった。

 しかし、彼の表情を目の当たりにしているであろう妓女の表情は良く見えた。羞恥や怒りかで真っ赤だった顔からは、引き潮が全てを攫うような速さで血の気が失せていた。紅が引かれた唇も青紫に変色している。


「美姫、あなたが俺の宝玉を貶めるような発言をした事は、忘れてやろう。ただな、その小さすぎて中身が入っているのか怪しい頭でも、しっかり覚えといて貰いたいんだ」


 その声音はとても優しく聞こえた。月英には。

 次の瞬間、燕明は妓女の後頭部に手を回すと顔を近づけ、口づけの距離で密か事のように囁いた。


「――次に月英にその悪口を向けたら、その顔を血化粧で彩ってやるからな」

「ひッ――!」


 月英の方向からは、燕明と妓女が口づけを交わしている様な格好にしか見えなかったが、妓女の喉を引きつらせた怯え声に、そんな甘い状態でないことは分かった。一体、何を言ったのか。


「さて、噂の花楼を教えて貰おうか」


 燕明は綺麗に笑った。




 

       ◆◆◆





「おやまあ、わざわざそんな昔話を聞きにきたのかい? 変わった旦那方だねえ」


 三人は妓女に教えて貰った、先の花楼と同じく祥陽府で頂点を競う花楼に来ていた。事情を話せば、出てきたのは白髪頭で皺を刻もうと、往時は間違いなく美姫だっただろう事を窺わせる店主だった。


「で、そんな昔のどういった話が聞きたいんだい」

「その当時、官吏との子を生んだ妓女が居たと思うんですが……」


 店主は記憶を遡っているのか視線を天井に向け、「ああ」と声を漏らした。


「確かに居たよ。時々アタシもその赤ん坊を可愛がらせて貰ってたねえ。赤ん坊が二歳くらいな時に、その子は居なくなっちまったんだけどね」


 その時の事を思い出したのか、店主は寂しそうに控え目に微笑んだ。


「本当なら妓女が子をこさえるなんて馬鹿だ、と責められるもんなんだけどね、その子は相手が相手だったんで、そりゃ大層皆に羨ましがられたよ。例え正妻でなくとも、お大尽様の愛妾なんて願ってもない事だからね。だけど……」

「だけど、捨てられた……?」


 言葉を切った店主に変わるように月英がその先を尋ねれば、店主は微妙な顔で「分からない」と首を振った。


「分からない?」

「金はちゃんと送られてきてたし。子を抱きにも来ちゃいたんだよ。だけど、花楼から請け出そうとはしなかったんだ。いくら待てども暮らせども。その内、あの子の方が先に我慢できなくなってね。同じ邑に住んでるのも苦しいって故郷に帰っちまったよ」

「その故郷って、もしかして北方じゃないですか?」

「おお、良く分かったね」

「じゃあ、赤ん坊の名はもしかして――」


 店主は頷いた。




 

       ◆◆◆





「月英殿、花楼ではすみません。怖がらせてしまいました」


 藩季が隣を歩く月英にぺこりと頭を下げる。顔は一応は笑んでいたが、眉目には遠慮が滲んでいた。

 花楼では――とは、妓女を床に押し倒して凄んだ件だろう。


「多少は驚きましたけど、怖いなんて思いませんよ。だって、僕の代わりに怒ってくれたんですから」

「怖く……ないですか」

「ないですよ」


 へへッと照れくさそうに笑えば、藩季の笑みがいつものものへと変わった。


「二人だけの世界を作るな」


 燕明のむくれた声で、月英はその存在を思い出した。藩季と月英は揶揄う者を見つけたとばかりに、顔を寄せ合って忍び笑いを漏らす。


「やですねぇ、男の嫉妬はみっともありませんよぅ」

「どんだけ藩季様が好きなんですかぁ」

「藩季は帰ったら覚えてろ。月英は鈍感を治す精油を見つけてくれ、早急に」



 

 すっかり日は傾き、道の先にそびえ立つ萬華宮は西日に橙瓦を赤くしていた。

 さすが首都祥陽府。夕餉前のかき入れ時とばかりに、両側の店から活気のある売り文句が飛んで祭りのような様相を呈していた。

 獣肉を焼いた香ばしい香りに、ピリリと鼻を刺激する醤の香り。店先でスープを作っているのだろう、トントントンと小気味よい音と共に青菜が刻まれ、ぶつ切りの海老や魚と共に投入されれば、磯の香りのするなんとも旨そうな香りが一帯に広がる。横の大型のせいろうでは白だけでなく茶や緑の饅頭が蒸され、湯気と共に街の熱気を加速させていた。


「誰も皇太子が呑気に歩いてるなんて思わないんだろうな」


 燕明の言うとおり、誰も三人を気にしてなかった。

 活況に沸く声に、値切りの談笑、所々に置かれた卓で酒の喧嘩が起きていたが、それも日常の光景の一部。


「御主人、そこの緑の饅頭をくれ。三つ」


 饅頭屋の主人は「あいよっ」と威勢の返事と共に、手際よく饅頭を笹の葉で包んでくれた。茶色の包みから見える鮮やかな緑が食欲をそそる。


「……なあ、御主人。もしここに異国の食材が並ぶとしたらどう思う」


 燕明の問い掛けに、主人は硬そうな顎髭をざりざりと手でしごきながら、「そうさねぇ」と考える素振りを見せる。


「異国の食材ねえ……どんなのがあるか想像も出来ねえけど、あったら楽しいんじゃねえか? そんな色の材料があるか知らねえがよ、もし手に入るなら紅色や紫の饅頭を作ってみてえなあ!」

「なーに馬鹿なことばっか言って! ほら、お客の相手しな! 饅頭五つを角楽かくらくんとこだよ」

「あてててて! ご、ごめんってかーちゃん!? 今行くから!」


 店奥からやってきた奥さんらしき人に尻を捻られて、主人は慌てて奥へと引っ込んでいった。

 その微笑ましい光景――主人にとっては微笑ましくはないのだろうが――を尻目に、三人は口に草饅頭を押し込みながら再び歩き始める。

 使われているのは蓬生だろうか、苦味と塩味が良いあんばいだ。


「案外……民達の方が融和策をすんなり受け入れるのかもな」


 もそもそと口を動かし饅頭を飲み込むと、燕明が呟いた。


「そうですね。広まってくれると良いですね」


 月英は残りの饅頭を一口で頬張り嚥下すると、足を止めて賑やかな街を見渡した。


「――その為にも、即位は遺恨なく行われなければなりませんね」


 藩季も足を止め、夕陽に色付く街並みに目を細めた。元々涼しげな目元は狐のようになる。


「じゃあ、早く帰って真相を解かねばな。無実の者が裁かれる前に――」


 冬至――即位式まであと五日。

 そして、月英の臨時任官の任期もあと五日となっていた。



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