碧玉の男装香療師は、ふしぎな癒やし術で宮廷医官になりました。

5－1 萬華宮は混乱の最中に、

　呼ばれたいつもの燕明の私室。

　そこには、両手の白い包帯が痛々しい燕明が沈んだ顔で座っており、月英が入ってきてもその表情が晴れることはなかった。一緒に部屋に居た藩季の表情も燕明と大差ない。

「すまんが、何か、休める香りを」

　月英は頷くと、持ってきていた精油をカチャカチャといじりはじめる。

「怪我の調子はどうですか」

　疲れたような表情で額を押さえる燕明の手を、月英はチラと見遣った。

「ん、あぁ。もうそんなに痛みはないから大丈夫だ。呈太医に薬を塗って貰ってるしな」

「それは良かった。他の医官達も皆、心配してましたよ」

「暫くはここに軟禁状態だしな」

「仕方ありませんよ。燕明様は体調が悪いという事になってるんですから」

　昨日の宮祀儀礼で燕明が倒れたことについては、詳細が伏せられていた。多くの官は、燕明がただ体調を悪くしただけだと聞いているはずだ。

　ただ、月英だけは燕明の身に何が起こったのかを知っていた。

　　　　　　　◆◆◆

　それは燕明が運ばれ宮祀儀礼が中止になった後、燕明の治療に当たった呈太医から月英だけが密かに呼ばれた時――

『呈太医！　殿下が急に倒れたように見えたんですが、何か具合でも!?　大丈夫ですか』

『――月医官、君は、とても鼻が良いと他の医官達から聞いています』

　月英の問いの答えより、呈太医は自分の質問を先に口にした。その質問と一緒に手に持っていた布を突き出して。状況が掴めないまま、月英はその布を手に取った。鼻が良いかを気にするという事は、この渡された布の匂いに何か関係があるのだろうか。

　月英は受け取った布を広げた。それは見覚えのある長衣――燕明が宮祀儀礼の時に来ていた長衣だった。

『殿下は無事ですよ。命に関わるようなものではありませんでした。ただ、両手の皮膚が……焼けていました』

『焼け――っ!?』

　皮膚が焼けるとはただ事ではない。それに、あの場で火が上がったようにも見えなかったが。

『原因は!?』

『原因は分かりません。殿下は清水に手を入れたら痛みを感じたと。ただ、その清水を調べようにも、銀盆がひっくり返って清水は溢れてしまいましたから、原因を調べることが出来ないのですよ』

『そんな……』

　水に手を入れたら火傷とは、その様な正反対の事象が起こるものだろうか。熱湯だったのだろうか。それなら、火傷というのも頷けるが、あの時転がり落ちてきた銀盆からは湯気も何も立っていなかった。大の大人が倒れ込むほどの火傷なら、相当な熱さにもなるだろう。それならばまず手を突っ込む前に、燕明本人がその異常性に気付くはずだ。

　それに見ていた感じでは、水に手を入れてすぐというわけでなく、少々間があったようにも感じた。

『銀盆の清水は全て零れてしまいましたが、実は一つだけ、清水を調べられる可能性がある物が残っていました。それがその長衣です。袖口当たりを見てください』

　言われるまま衣を捲り袖の不部を見つけ出す。

『これは……！』

　袖口に透明な染みが広がっていた。濡れたであろう場所とそれ以外との境目だけが、くっきり線となって現れていた。

『……殿下は銀盆の清水から良い香りがしたと仰っていました。もしその袖に付いたのが清水であれば、その香りも残っているかと思いまして。少々老人の鼻では判別が難しく、こうして月医官の鼻を借りたく思ったのですよ』

　月英は染みついた場所に鼻を近づけた。有るか無きかの如くか細い残り香。常人には感知出来なかっただろう程度の残滓。だが月英の鼻はその香りを拾い取った。

　衣から顔を上げた月英はギリと奥歯を噛み締めると、頭を下げた。

『呈太医……本当に……すみません』

　　　　　　　◆◆◆

　部屋にはいつもの蜜柑と薫衣草の爽やかな香りではなく、甘く落ち着いた香りが仄かに漂っていた。

「ん？　これは覚えのある香りだな。何の香りだ？」

「前に殿下から貰った白檀（びゃくだん）で作った精油です。お香用だったんで出来るか分かりませんでしたが、ほんの少しだけ香りが採れました」

「ああ、あの香木か。うん、今はこのくらいの香りの方が心地良いよ」

　香炉台の下で蝋燭が頭をゆらゆらと揺らしていた。

　三人全員が、部屋に満ちた淡い香りにだけ意識を集中させていた。その中で、じっと香炉台を見つめていた燕明が口を開く。

「――まさかだったな」

　燕明は蝋燭の揺らぎから目を離さない。

「まさか蔡侍中がここまでするとは」

「しかもあの様に多くの官達が一堂に会す場でとは、全く予想外でした」

　状況から考えても、原因は清水以外に考えられなかった。

　まず初めに銀盆が調べられた。毒が塗布されているのではと。しかし銀盆はその名の通り銀で出来ており、皮膚を害するような毒物は総じて銀に反応するのだが、銀盆に変異は見られなかった。とすれば、やはり清水しかない。

　そしてその清水を用意したのが蔡京玿とくれば、長官達も「まさか」と思うだろう。

「蔡侍中は違うと言っておられますが、あの清水が何らかの毒物であった事は、状況からみて間違いありませんでした」

「……蔡侍中を庇う声は」

「孫二尚書が。『あやつはそんな事はせん』と言われていたようですが、なにぶん、燕明様に対する今までの態度が態度でしたので、他の長官達も閉口するばかりで」

「なんとも憐れだな」

　先帝の右腕と評され、当代でも随一の権力を持つ蔡京玿。しかしその絶大な権力について来ていた者はいなかったという事だろうか。唯一の庇い立てが、同じく先帝の左腕であり、蔡京玿を窘めていた孫二高だけというのは、何とも皮肉な状況だった。

「今は、念の為、という形で御史台が管理下に置いているんだったか」

「はい。東の牢塔に収監されております」

「ま、ちょうどいいな。暫く蔡侍中にはそこで大人しくしていて貰うとしようか」

　後味は悪いが、結果的にこれで異国融和策に表立って反対する者はいなくなった。一つ肩の荷が下りた心地に、燕明はふぅと軽く息を吐いた。

　すると、月英の様子がいつもと違う事に気付いた。何かを思い詰めているような。いつもが明け透けな性格な分、何かを抱え込んだような重い空気は殊更に分かりやすかった。

「どうした月英。何かあったか？」

　燕明の何気ない気遣いの一言に、月英の肩が僅かにピクと反応した。その普段と違う小さな変化を燕明は見逃さなかった。

「――月英、どうした」

　先程とは違い、燕明のその声は真剣だった。

　月英は顔を上げ、震える口で燕明に尋ねた。

「真実を知りたいですか？」

　何を突然、と燕明も藩季も眉間を顰める。

　しかしそれは、月英が次に発した言葉で見開かれる事となった。

「蔡侍中は犯人じゃありません」