4-1 萬華宮の平穏は、

 残念ながら、燕明の記憶は健在だった。

 燕明の私室で、藩季は巾を冷え切った水に浸した。


「それにしても驚きましたよ。燕明様が白目剥いて倒れていたんですから」


 藩季は固く絞った巾を燕明に手渡す。受け取った燕明は口を尖らせながら、首筋にその巾を畳んで乗せた。


「俺も若干驚いてる。まさかあいつに、こんな暗殺者染みた妙技があったとは……」

「ちょうど赤い顔した月英殿がバタバタと去って行くのが見えたので、とうとう燕明様の理性の緒が引きちぎれたのかと」


 赤い顔という言葉に、燕明の口元がもごもごと嬉しそうに動く。


「うわっ気持ち悪」

「クビにするぞ藩季」


 批難を視線に表わすも、藩季は素知らぬ顔して温くなった巾を取り替えるばかり。藩季が主従という言葉を知っているのか疑いたくもなる。聞いたところで揶揄いで返されるだけと分かっているため、敢えて聞きはしないが。


「それにしても、まさか月英殿の隠された目に、そんな秘密があったとは思いもしませんでしたね。しかも女性とは……見事な擬態ですよ」

「異人の血に、異国の術。それに加えて女性官吏とは。どこまでもあいつは俺達の予想を越えていくな」


「とんだ暴風ですね」と藩季は楽しそうに笑った。


「とはいえ、月英殿には注意して頂かないといけませんね。今の宮廷に、女性官吏は居ませんから」


 藩季の言うとおり、萬華宮で女といえば燕明の後宮のみだった。宮廷官吏は全て男であり、だからこそ男色などというものが流行るのだが。


「大丈夫だとは思うが、今の状況で月英が女とバレるのは避けたいな。……可愛かったし」

「うわっ気色悪」

「埋めるぞ藩季」


 再び燕明が湿った視線を向けるも、藩季は相変わらずどこ吹く風を貫き会話を続ける。


「今でさえ『可愛い少年』と、周囲は燕明様みたいな色狂いの目を向けているのに、女性だと分かれば今以上に格好の的ですよ」

「色狂いて……お前本当に俺の側近か? 分かってるか? 主従の意味」

「私と燕明様みたいな関係ですよね!」

「絶対に違う」


 思わず聞いてしまった事と、やはり揶揄いで返ってきた答えに、燕明は「はぁ」と半ば呆れ気味に嘆息した。幼少のみぎりよりの付き合いだが、主従というより最早腐れ縁に近いな、と燕明は独りごちた。


「この国は、まだまだやる事が沢山あるな」


 蔡京玿はこの国は既に満ち足りていると言った。しかしそれは足りない部分に気付かなかっただけではないのか。


「皇帝の座に就かれて万事終了――という事ではありませんね」

「ああ、即位が全ての出発点だ。異国融和策に女性官吏にと……ハハッ! 暫くは退屈しなくて済みそうだ!」

「あなたが楽しそうで何よりです」

「さて、こうやる事が多くては手をこまねいている暇もないな。まずは即位だ」




 

       ◆◆◆




 

 即位式が行える機会は年に三度ある。夏至、冬至、正月の三度だ。

 本来ならば燕明は夏至に即位式を行うはずだった。しかし、それは朝廷官吏との国政方針の食い違いにより、礼部れいぶの承認が得られず叶わなかった。

 となれば、次にくる機会は一月後の冬至だった。


「――いい加減、そろそろ折れたらどうだ」

「開口一番はやはりソレか、孫二尚書そんじしょうしょ

「融和策だけを声高に叫んで、他を疎かにするような皇太子ならば、ワシもここまで肩入れせんよ。だが、殿下は違うだろうて。他の国政についても真剣に取り組んでおられる。事実、皇帝位が空位でも国にも宮廷にも混乱ないのが、良い証拠じゃて」


 諭すような物言いの孫二高そんじこうに、蔡京玿さいけいしょうは面白くなさそうに目をすがめた。


こう……私は殿下が嫌いだから、反対しているのではないのだ」


 蔡京玿が孫二高を親しげに『高』と呼べば、孫二高もそう呼ばれていた昔を思い出し、複雑な表情になる。


瞬姜しゅんきょう様は……もうこの世にはいらっしゃらない。それは分かっているだろう、京玿けいしょう


 先帝瞬姜の名に、蔡京玿の耳が微動した。


「居ない者の意思を、今生きている者達を蔑ろにしてまで、押し通す意味はあるのか?」

「逆に過去の者の意思を蔑ろにして良いわけでもあるまい」

「お主は囚われすぎておるのだ。薬も過ぎれば毒となると言うじゃろ。限度を知らぬとまたあやまつぞ」


「瞬姜様のように」と小さく付け加えた孫二高のシワシワの指は、膝に掛かる長衣に幾重にも皺を作った。その顔にも同じ様に皺が寄っていた。それは孫二高だけでなく蔡京玿にも言えた事で、特別室の窓から夕闇を眺めていた顔は、歳以上に皺が深くなっていた。

 西の空は茜の上に青白が重なり、それが藤に染まり紺青に変化する。何重もの色が一つの空を彩っていた。

 蔡京玿は反論しなかった。

 先帝瞬姜は当初、異国排斥をかつての皇帝達と同じ程度にしか扱っていなかった。それがいつしか政策の中心に据えられ、強硬に異国を拒むようになった。何の害も与えていない、赤子を抱いた父親に斬首を告げるほどに。

 その一件で朝廷官吏の半数が官位を返上した。残る者は少しずつついて行けなくなり、溢れ落ちるようにぽろぽろとその姿を消した。


「最早あの頃より残るは、ワシとお主のみだな」


 朝廷官吏のほぼはその一件以降に辞めた長官達の代わりで入ってきた者ばかり。噂では聞いたこともあるだろうが、あの場の惨憺とした空気を知る者はいない。


「あの時の……自分の皮膚を薄く削り取られているかのような空気を、お主はもう一度宮廷に持ち込もうというのか?」


 窓の外を眺める蔡京玿の背に問いかけるが、彼はうんともすんとも言わず、孫二高は息を吐いて深く長椅子にもたれた。


「お主に子でもいたら違ったのかもなあ。ワシは孫までおるが、その子達の行く末が幸せであって欲しいと思うものよ」

「……私にも子はいる」


 雑談のような気軽さで口に出した話だったが、まさか蔡京玿から反応が返ってくるとは思わず、孫二高は背もたれに付けていた背中を勢いよく起こした。


「嘘じゃろ!? いつの間に嫁を迎えた!」


 長牀がガタンと音を立てて揺れ、その音の大きさに蔡京玿も思わず身を仰け反らせて驚く。


「む、迎えてはない。昵懇じっこんだった妓女が産んだのだ。さすがに蔡家さいけに入れる事は出来なかったから暫く金を渡していたが、いつの間にか花楼からも消えていた」

「はぁ~!? なんっじゃそりゃ……」


 中腰になった孫二高は呆れた溜息を天井に吐きながら、ゆるゆると長牀に沈んだ。


「蔡家が出てくると厄介だったから、誰にも言っていない事だ」

「確かに。名家中の名家である蔡家が、跡取り息子と妓女の結婚を許すはずがなかろうしな。ましてや子供などと……しかし、それを相手の女には伝えたのか?」


 蔡京玿はゆるりと横に頭を振った。

 孫二高は二度目の呆れた溜息を今度は地面に落とす。


「……じゃあ、子は抱いたのか?」

「何度かはな。……饅頭まんじゅうみたいだった」

「今頃その饅頭は手も足も生えて、どこそこをとてとて歩いておるだろうよ」

「二十数年も経っていれば、とてとてなど歩くわけないだろう。きっとどこかで子でもこさえて、私の事も忘却、いや、元より居ない者とされているさ」


 そうどうでも良さそうに言うものの、俯き加減の蔡京玿の横顔は、感傷に耐えているようにも見えた。射し込む夕日がそう見せただけかもしれないが、孫二高の目にはそのように映った。


「後悔……しとるのか?」

「後悔なんて……あの時はそう感じる暇もなかった。私の心は全て瞬姜様のものだったからな」


 孫二高は当時の彼の先帝への心酔ぶりを思い出し、口をへの字にする。しかし、蔡京玿は「ただ」と付け加えた。


「こうして一人の時間が多くなると、あの時を思い出す事も増えた。そして、無駄な『もし』を考える事も……」


 蔡京玿は自分の両手をじっと眺めていた。その手の形は、なにかを抱きかかえているようだった。


「……その子や孫が国を出たいと言ったら、お主はどうする」


 最早孫二高は真剣に尋ねてはいなかった。それを分かっているのだろう蔡京玿も、もうその話題に目くじらを立てることもない。ただ穏やかな表情で、諦念ていねんにも聞こえる声で返答した。


「分かっているだろう、高。私達はここまで来たらもう変われない。せいぜい死ぬその時まで、私だけでも瞬姜様に殉ずるさ」


「変わろうとしないからだ」と口先まで出掛かったが、孫二高がその言葉を吐くことはなかった。

 言ったとて無駄だ、と蔡京玿の困ったように笑む顔を見てそう思ったから。

 

「――話はそれだけか、高」


 孫二高は鼻から息を吐くと、ゆるゆると首を振った。


「今年の冬至にある『てん祭祀さいし』の前、宮廷で行う宮祀儀礼ぐうしぎれいだがの、その水鏡みずかがみ役をお主にと思ってな」

「私が水鏡役とは」


 蔡京玿は口端をつり上げ、自嘲に目を閉じた。

 年に三度の即位の機会は、つまり祭祀を行う機会だった。

 夏至の『地の祭祀』、冬至の『天の祭祀』、そして正月の『天地祭祀』。

 郊祀こうし――郊外にて行われる祭祀では、天への感謝と代々の皇帝祖廟そびょう参詣さんしが行われる。

 その祭祀の十日前、萬華宮では宮祀儀礼ぐうしぎれいが行われる事になっている。

 その儀礼の一つに『水鏡みずかがみ』というものがある。

 清水せいすいで満たした銀盆を鏡に見立て天を映し祈る。天が映った清水には天の恵みが宿るとされ、それを皇帝――今回の場合は皇太子である燕明が、大地に振り撒く事になっている。


「夏の時は瞬姜様が亡くなられて慌ただしかったからワシがやったが、本来ならあれは宰相位がするもの。宰相位が空位な以上、お主がやるしかあるまいよ」

「分かった分かった。用意しておくさ」


 またグダグダと話が長くなりそうな気配を察知した蔡京玿は、適当に返事をして、早く出て行けと孫二高に手を振った。

 孫二高はまだ言い足りないと不服に口を尖らせていたが、「せいぜい、お主のその頑迷さも清めてくれる清水を用意してくれ」と、捨て台詞と共に部屋を出て行った。

 戸が閉められた入り口を見遣り、蔡京玿は、ふと笑みを漏らした。


「昔から変わらず、言いたいことを言う爺だ」


 先帝の左右と呼ばれた蔡京玿と孫二高。

 従順な蔡京玿に対し、孫二高はいつも先帝に口やかましかった。それでも先帝が孫二高を遠ざけなかったのは、その歯に衣着せぬ事を望んだからだろうか。


「今となっては分からぬ事よ……」


 少しだけ蔡京玿には孫二高が羨ましく思えた。自分には出来ない事だ。だから自分に出来ることで先帝に報いよう、と蔡京玿は決めていた。


「私だけは最期まで、あの方を否定したくないんだよ。高」



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