3-3 

 その日、外朝にある『せんもん』は異質な空気で満ちていた。

 先華門は宮廷外部の者との謁見えっけんや、属国の特使とくしを迎える為に使われるぜん殿でんである。いつもなら特使が来ようとこれ程気を張るような事はないのだが、その日だけは違った。前殿に集められたのは朝廷官吏と皇帝、そしてだけ。


 その男とは、異国へ渡って帰ってきた者であった。

 男は、先華門の地面にひたいを擦りつけるようにして皇帝と対面していた。父親である皇帝の側で燕明もその光景を見ていた。


『――さて、お前は西国へ渡ったと聞くが……』


 皇帝の声は地鳴りのように低く、殿の柱を震わせるほどの太さだった。集まっていた者達は柱の一部になったかの様に、息を殺し直立不動になる。その矛先が間違っても自分に向かぬようにと無機物に徹していた。


『分かっておるな。我が国は出る事もらす事も許しておらぬと』


 皇帝である父は苛烈かれつな人だった。

 代々続いてきた異国排斥に特に力を入れ、人民の行動制限だけでなく、萬華国の囲いを物理的にもより強固なものにした。今までも密かに国を抜ける者や入ってくる者も居た。しかしそれを取り締まるのは不文律ふぶんりつでしかなく、表立ってやらなければという曖昧な空気があった。しかし父親が皇帝の座についてからは、その不文律は法としてすっかり定着してしまった。明確な規律を全国に布令し厳格な罰則も加えた。

 それからは捕まる者が増えた。ただそれはいつも、未遂で終わった者達や出た瞬間に捕らえられた者達ばかりで、異国に行って再び帰ってきた者など居なかった。

 今までは――。


 それが今、前殿でひたいを石床に擦りつけている男によって破られた。

 燕明は、眼下に伏す男が何をしてこの場に呼ばれているのか知らなかった。燕明はその時、偶然に父親の仕事を見る為に後宮百華園ひゃっかえんから出てきていただけだった。

 意味の分からない話を聞くのにも飽き飽きしていた頃、もぞりと男の伏せた身体の下でなにかが動いたのに気付いた。

 燕明はトトトと男に近寄った。すれば、男の身体が驚きに浮き上がった瞬間、腕に抱かれている者が見えた。


『赤子だ……!』


 男の腕の中には一歳にならないほどの赤子が抱かれていた。

『女の子?』と燕明が聞けば、男は頷いた。

 閉じた瞼を縁取る漆黒の睫毛は、色白の顔でとても際だって見えた。下瞼に落ちた睫毛の影は水墨画の様に淡く、繊細な絵画のようだった。

 それだけでも驚いたのに、その赤子が目を開けると燕明は更に驚く事となった。


『――っえ』


 赤子の瞳は見た事もない色をしていた。

 生まれてこの方、瞳は黒だと思っていた。自分も父も、勿論周りの官達も、この目の前の男も皆、黒だ。しかし男の腕の中の赤子だけは、あいを水に流したような透き通った――「あお」だった。

 燕明は感嘆を漏らした。


『すごい! この子の目すごい綺麗な、あ――』

『殿下』


 しかし、その感嘆は男の静かな声によってし殺された。

 男は伏せた顔の下から燕明を睨んでいた。まるで「それ以上喋ったら殺す」とでもいうような凶暴な威圧。


『――っ!?』


 思わず燕明も押し黙る。男は再び赤子を腕の中にしっかりと隠したが、目ざとく皇帝は男の腕の中の者に気付いた。


『ん、赤子か? その赤子はお前の子か』

『国を出ている間に妻が産んだ子です。先日、その妻も亡くなり私がこうして一人で育てているのでございます』

『ほう……して、燕明。先程声を上げたが、その赤子の目がどうしたのだ?』


 燕明は向けられた矛先に、肩を跳ねさせた。


『ぁ……い、いえ。その……綺麗な……その……』

『綺麗な黒玻璃がらすのような瞳でございましょう。赤子の瞳というのは、まだこの世の善悪も知らぬ、何色にも染まらぬ澄んだもの。殿下は赤子を見る機会が少のうございましょうから、驚いたのでございますね』


 向けられた男の顔は笑顔だというのに、燕明には殺意を向けられているようにしか思えなかった。

 燕明は頷くしかなかった。


『そ、そうです。あまりに綺麗な黒……だったので……つい』


 皇帝は『そうか』とだけ言うと、もう赤子にも燕明にも興味をなくしたようだった。

 この時燕明は、男がなぜ「碧」を「黒」と言ったのか不思議だった。しかし、それはすぐに判明した。

 皇帝の隣に堂々として立っていた蔡京玿が、声高らかに男に判決を言い渡した。本来ならば大理寺の裁判が行われての判決となるはずが、この時ばかりは違った。幼い燕明にはその違いは分からなかったが、今思うと、早く男の存在を消そうとするような、そんな思惑があったのかもしれない。


『――それでは申し渡す。お前は勝手な己が欲望で国の法を破り異国を訪ね、あまつさえその文化を持ち込もうとした。これは大罪である。よって、お前には斬首を言い渡す』


 燕明は息を飲んだ。

 しかし、男は平然としていた。


『謹んで我が罪をあがないます。しかし、この子は萬華の民の間に生まれ、萬華で育った子。一片の罪も犯しておりませぬ。どうか、この子の連座れんざだけはお許しください』


 平然として嘘を吐いていた。あの目の色は萬華ばんかたみ同士の間からは生まれない。

 皇帝は男のその言葉を受け取り、男が赤子を誰かに託す事を許した。


『法を強固とするための人柱となれ、陽光英ようこうえい


 そう言って笑った父親の顔と、男が赤子を胸に掻き抱く姿が忘れられなかった。

 皇帝が言った通り、男の処断は広く民に周知され、以降、萬華国の囲いが綻ぶことはなかった。誰もが皇帝の牙が自分に向けられることを恐れた。それは各部省の長官でも、祥陽府から遠く離れた田舎の老婦人でも一緒だった。

 萬華国から完全に萬華国以外が消えた日だった。





       ◆◆◆




 

「あそこでもし、俺が赤子の瞳の色を馬鹿正直に言っていたら、その赤子の命も亡かっただろうな」


 膝の間で組まれた燕明の手が、後悔するかのように甲に爪を立てる。


「なぜ、たった異国に行ったくらいで死なねばならんのだろうな。法といっても、あの父親も赤子も、誰に害をなしたわけでもないというのに」


 燕明の隣で、月英がヒュッと息を止める音がした。


「ん、月英? ――っどうした月英!?」


 燕明が隣を見れば、月英は身体を小さくし、カタカタと震えていた。口を覆った両手は指先まで震えており、その色白さも相まって完全に病人のそれにしか見えなかった。


「具合でも悪いのか!? 寒いのか!?」


 慌てた燕明は月英の肩を抱き、腕の中に引き寄せその肩や背を撫でる。しかしそれでも月英の震えが止まることはなかった。


「……ぃ……」


 蚊の鳴くような声で月英が何かを発した。


「どうした。大丈夫だ、言ってみろ」

「その……亡くなった人の、名を……もう、一度……」

「陽光英という名の男だが……」


 何故そんなことを気にするのかと不思議に思いつつ答えれば、月英は再び息を詰まらせた。しかも今度はそこに嗚咽が混じっていた。


「……っぁ……うぁ……っ」


 ――ああ……今、残りの約束の意味が分かったよ。


 月英の小さな手が燕明の上衣を握りしめていた。何かに耐えるように握り絞められた手は震え、上衣を引っ張る力が強くなるほど月英の顔は俯き、そして嗚咽が大きくなっていった。喉を絞めるように声を我慢して泣く姿が痛々しかった。


「――ッあ……ぅうぅうッ……ぅあぁ……っ」


 姓を言っては駄目だったのは、その姓は罪人の落胤とされるからだ。そしてその罪人――父はもう……この世には……。

 信じたくない真実が突如押し寄せる現実に月英の心は掻き乱され、我慢など何の意味もなさず、現実を拒絶するような哀咽は口からも鼻からも目からも、全身から漏れ出た。

 燕明は静かに、その噛み締めるような嗚咽が止まるのを待った。腕の中で震える月英をただひたすら抱き締め、その背をさすってやった。こんな時でさえこの小さな身体が、震える華奢な肩が、いじらしく声をおし殺し泣く様が「愛おしい」と思ってしまう自分に、燕明は密かに自嘲した。


 

 少しは落ち着いたのか、鼻をすするスンスンとした音だけになれば、燕明はそっと月英を胸から離しその顔を覗き込んだ。頬を強く擦ったのか赤くなっていた。恐らく隠れている目元も、似たような色をしているのだろう。


「もう大丈夫か、月英。一体どうしたんだ、急に」


 月英は頭を振って何でもないと示す。しかし、何でもないわけがなかった。恬淡として喜怒哀楽をはっきりと表現することのない月英が、声を上げて泣いたのだ。しかも胸に縋って。

 月英は濡れた頬をそのままに、ただ俯いていた。


「……なあ、涙を拭ってもいいか?」


 月英の濡れた頬を燕明の手が優しく包み、そっと顔を上向かせる。月英は抵抗らしい抵抗もしなかった。

 ふと燕明の脳裏に藩季の揶揄いの声が蘇った。


『不男色』――思わず燕明の口角が下がる。


 しかし燕明は小さく口の中でだけで嘆息し、この際藩季に揶揄われることも甘んじて受け入れよう、と観念した。――もうこの感情は仕方のないものだ、と。


「月英、俺が居る。だからどんな事でも話してくれ」

「――本当に……」


 そこで漸く月英は口を開いた。


「本当に、どんな事でも話して良いんですか」


 ――子順父さん、ごめんなさい。


「ああ。どんな事でも俺はお前を受け入れる。お前が悲しむなら、その悲しみを取り去ってやる。お前が笑うなら、万の花で国をも満たしてやる。だから……一人で泣くな」


 こうやって時の権力者は、寵妃にうつつを抜かして国を傾けていくのだろうな、とどこか他人事のように燕明は自分の台詞に自嘲した。

 すると月英の手が頬を包んでいた燕明の手に重なり、ゆっくりと燕明のその手を離した。一瞬拒否されたのかと思って燕明の心が冷えた。しかし、直後にとった月英の行動によって、燕明の心どころか二人を包んでいた温かな空気でさえ、全てが凍り付いた。


「……それ……は」


 情けないことに燕明はその言葉しか咄嗟とっさに出てこなかった。

 心臓は早鐘を打つように煩く胸を叩いているのに、顔からは血の気が引いていくのが分かった。安堵と緊張、悲嘆と喜悦。最早燕明には、自分がどんな顔をして月英を見ているのか分からなかった。


 頑なに隠されていた目元が、月英の手によって露わになっていた。


「殿下。こんな瞳の色をした僕でも、受け入れてくれますか」


 ――僕はあなたとの約束を破ってしまいました。


 分厚い前髪の下から出てきた瞳の色は、黒ではなかった。


「僕の本当の父の名は、陽光英です」


 瞠目どうもくする燕明を映すその瞳の色は、あいを水に流したような美しい『あお』だった。


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