3-3
その日、外朝にある『
先華門は宮廷外部の者との
その男とは、異国へ渡って帰ってきた者であった。
男は、先華門の地面に
『――さて、お前は西国へ渡ったと聞くが……』
皇帝の声は地鳴りのように低く、殿の柱を震わせるほどの太さだった。集まっていた者達は柱の一部になったかの様に、息を殺し直立不動になる。その矛先が間違っても自分に向かぬようにと無機物に徹していた。
『分かっておるな。我が国は出る事も
皇帝である父は
代々続いてきた異国排斥に特に力を入れ、人民の行動制限だけでなく、萬華国の囲いを物理的にもより強固なものにした。今までも密かに国を抜ける者や入ってくる者も居た。しかしそれを取り締まるのは
それからは捕まる者が増えた。ただそれはいつも、未遂で終わった者達や出た瞬間に捕らえられた者達ばかりで、異国に行って再び帰ってきた者など居なかった。
今までは――。
それが今、前殿で
燕明は、眼下に伏す男が何をしてこの場に呼ばれているのか知らなかった。燕明はその時、偶然に父親の仕事を見る為に後宮
意味の分からない話を聞くのにも飽き飽きしていた頃、もぞりと男の伏せた身体の下でなにかが動いたのに気付いた。
燕明はトトトと男に近寄った。すれば、男の身体が驚きに浮き上がった瞬間、腕に抱かれている者が見えた。
『赤子だ……!』
男の腕の中には一歳にならないほどの赤子が抱かれていた。
『女の子?』と燕明が聞けば、男は頷いた。
閉じた瞼を縁取る漆黒の睫毛は、色白の顔でとても際だって見えた。下瞼に落ちた睫毛の影は水墨画の様に淡く、繊細な絵画のようだった。
それだけでも驚いたのに、その赤子が目を開けると燕明は更に驚く事となった。
『――っえ』
赤子の瞳は見た事もない色をしていた。
生まれてこの方、瞳は黒だと思っていた。自分も父も、勿論周りの官達も、この目の前の男も皆、黒だ。しかし男の腕の中の赤子だけは、
燕明は感嘆を漏らした。
『すごい! この子の目すごい綺麗な、あ――』
『殿下』
しかし、その感嘆は男の静かな声によって
男は伏せた顔の下から燕明を睨んでいた。まるで「それ以上喋ったら殺す」とでもいうような凶暴な威圧。
『――っ!?』
思わず燕明も押し黙る。男は再び赤子を腕の中にしっかりと隠したが、目ざとく皇帝は男の腕の中の者に気付いた。
『ん、赤子か? その赤子はお前の子か』
『国を出ている間に妻が産んだ子です。先日、その妻も亡くなり私がこうして一人で育てているのでございます』
『ほう……して、燕明。先程声を上げたが、その赤子の目がどうしたのだ?』
燕明は向けられた矛先に、肩を跳ねさせた。
『ぁ……い、いえ。その……綺麗な……その……』
『綺麗な黒
向けられた男の顔は笑顔だというのに、燕明には殺意を向けられているようにしか思えなかった。
燕明は頷くしかなかった。
『そ、そうです。あまりに綺麗な黒……だったので……つい』
皇帝は『そうか』とだけ言うと、もう赤子にも燕明にも興味をなくしたようだった。
この時燕明は、男がなぜ「碧」を「黒」と言ったのか不思議だった。しかし、それはすぐに判明した。
皇帝の隣に堂々として立っていた蔡京玿が、声高らかに男に判決を言い渡した。本来ならば大理寺の裁判が行われての判決となるはずが、この時ばかりは違った。幼い燕明にはその違いは分からなかったが、今思うと、早く男の存在を消そうとするような、そんな思惑があったのかもしれない。
『――それでは申し渡す。お前は勝手な己が欲望で国の法を破り異国を訪ね、あまつさえその文化を持ち込もうとした。これは大罪である。よって、お前には斬首を言い渡す』
燕明は息を飲んだ。
しかし、男は平然としていた。
『謹んで我が罪を
平然として嘘を吐いていた。あの目の色は
皇帝は男のその言葉を受け取り、男が赤子を誰かに託す事を許した。
『法を強固とするための人柱となれ、
そう言って笑った父親の顔と、男が赤子を胸に掻き抱く姿が忘れられなかった。
皇帝が言った通り、男の処断は広く民に周知され、以降、萬華国の囲いが綻ぶことはなかった。誰もが皇帝の牙が自分に向けられることを恐れた。それは各部省の長官でも、祥陽府から遠く離れた田舎の老婦人でも一緒だった。
萬華国から完全に萬華国以外が消えた日だった。
◆◆◆
「あそこでもし、俺が赤子の瞳の色を馬鹿正直に言っていたら、その赤子の命も亡かっただろうな」
膝の間で組まれた燕明の手が、後悔するかのように甲に爪を立てる。
「なぜ、たった異国に行ったくらいで死なねばならんのだろうな。法といっても、あの父親も赤子も、誰に害をなしたわけでもないというのに」
燕明の隣で、月英がヒュッと息を止める音がした。
「ん、月英? ――っどうした月英!?」
燕明が隣を見れば、月英は身体を小さくし、カタカタと震えていた。口を覆った両手は指先まで震えており、その色白さも相まって完全に病人のそれにしか見えなかった。
「具合でも悪いのか!? 寒いのか!?」
慌てた燕明は月英の肩を抱き、腕の中に引き寄せその肩や背を撫でる。しかしそれでも月英の震えが止まることはなかった。
「……ぃ……」
蚊の鳴くような声で月英が何かを発した。
「どうした。大丈夫だ、言ってみろ」
「その……亡くなった人の、名を……もう、一度……」
「陽光英という名の男だが……」
何故そんなことを気にするのかと不思議に思いつつ答えれば、月英は再び息を詰まらせた。しかも今度はそこに嗚咽が混じっていた。
「……っぁ……うぁ……っ」
――ああ……今、残りの約束の意味が分かったよ。
月英の小さな手が燕明の上衣を握りしめていた。何かに耐えるように握り絞められた手は震え、上衣を引っ張る力が強くなるほど月英の顔は俯き、そして嗚咽が大きくなっていった。喉を絞めるように声を我慢して泣く姿が痛々しかった。
「――ッあ……ぅうぅうッ……ぅあぁ……っ」
姓を言っては駄目だったのは、その姓は罪人の落胤とされるからだ。そしてその罪人――父はもう……この世には……。
信じたくない真実が突如押し寄せる現実に月英の心は掻き乱され、我慢など何の意味もなさず、現実を拒絶するような哀咽は口からも鼻からも目からも、全身から漏れ出た。
燕明は静かに、その噛み締めるような嗚咽が止まるのを待った。腕の中で震える月英をただひたすら抱き締め、その背をさすってやった。こんな時でさえこの小さな身体が、震える華奢な肩が、いじらしく声をおし殺し泣く様が「愛おしい」と思ってしまう自分に、燕明は密かに自嘲した。
少しは落ち着いたのか、鼻をすするスンスンとした音だけになれば、燕明はそっと月英を胸から離しその顔を覗き込んだ。頬を強く擦ったのか赤くなっていた。恐らく隠れている目元も、似たような色をしているのだろう。
「もう大丈夫か、月英。一体どうしたんだ、急に」
月英は頭を振って何でもないと示す。しかし、何でもないわけがなかった。恬淡として喜怒哀楽をはっきりと表現することのない月英が、声を上げて泣いたのだ。しかも胸に縋って。
月英は濡れた頬をそのままに、ただ俯いていた。
「……なあ、涙を拭ってもいいか?」
月英の濡れた頬を燕明の手が優しく包み、そっと顔を上向かせる。月英は抵抗らしい抵抗もしなかった。
ふと燕明の脳裏に藩季の揶揄いの声が蘇った。
『不男色』――思わず燕明の口角が下がる。
しかし燕明は小さく口の中でだけで嘆息し、この際藩季に揶揄われることも甘んじて受け入れよう、と観念した。――もうこの感情は仕方のないものだ、と。
「月英、俺が居る。だからどんな事でも話してくれ」
「――本当に……」
そこで漸く月英は口を開いた。
「本当に、どんな事でも話して良いんですか」
――子順父さん、ごめんなさい。
「ああ。どんな事でも俺はお前を受け入れる。お前が悲しむなら、その悲しみを取り去ってやる。お前が笑うなら、万の花で国をも満たしてやる。だから……一人で泣くな」
こうやって時の権力者は、寵妃に
すると月英の手が頬を包んでいた燕明の手に重なり、ゆっくりと燕明のその手を離した。一瞬拒否されたのかと思って燕明の心が冷えた。しかし、直後にとった月英の行動によって、燕明の心どころか二人を包んでいた温かな空気でさえ、全てが凍り付いた。
「……それ……は」
情けないことに燕明はその言葉しか
心臓は早鐘を打つように煩く胸を叩いているのに、顔からは血の気が引いていくのが分かった。安堵と緊張、悲嘆と喜悦。最早燕明には、自分がどんな顔をして月英を見ているのか分からなかった。
頑なに隠されていた目元が、月英の手によって露わになっていた。
「殿下。こんな瞳の色をした僕でも、受け入れてくれますか」
――僕はあなたとの約束を破ってしまいました。
分厚い前髪の下から出てきた瞳の色は、黒ではなかった。
「僕の本当の父の名は、陽光英です」
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