2-1 萬華宮のはぐれ者は、
「……もうちょっとくらい、泣いてもいいんだぞ」
「は? 泣きませんけど」
月英のあまりに淡々とした様子に、燕明の方が泣きそうになった。
月英が
月英は想像通り……いや、想像以上の日々を送っていた。
――歓迎されてないのは分かってたけど、まさかここまでとはね。
「おっと悪ぃ、足が滑ったあ!」
男の声と共に、月英の足元に積まれていた蜜柑の皮の山が吹き飛んだ。
思わず月英の顔も引きつる。
どれだけの時間をかけてここまで剥いたと思っているのか。午前中の努力が、
背後では蹴飛ばした男と、その仲間の医官達がクスクスと笑っていた。
月英はゆるりと立ち上がると、蹴飛ばした男に向き直る。そして、男の目の前に手を差し出し、握っていた物を渾身の力で潰した。
「おっと悪い蜜柑が滑った。くらえ目潰し蜜柑汁!」
「ぶぎゃんっ!」
男は不細工な悲鳴を上げると、顔を押さえてうずくまった。その隙に月英は
「待てチビ! 蜜柑が滑ったって何だよ! 立派に『くらえ』って言ってたじゃねえか!」
背後で男が怒鳴り声を上げていたが、構うものか。
月英は
夏の空は迫ってくるような濃い青で、遠近感を狂わせる巨大な入道雲が綺麗な対比を描いていた。太陽の陽射しは暑く、日陰に居てもジリジリと肌に迫るようだった。
「あーしまった。蜜柑の皮忘れた。あれ無いと精油作れないんだよな」
拾い集めに戻ろうかと思ったが、まだあの男は鼻息を荒くしている事だろう。もう暫くして取りに行く事にした。
「……目立たないように、って思ってたんだけどなあ……」
その心がけは、初日で見事に破綻した。
医官になる事を了承した日、そのまま燕明達に太医院に連れて行かれた。
挨拶を済ませ顔を上げた時、そこにあった月英を見つめる目は、全員もれなく敵意を含んでいた。
それもそうだろう。宮廷官吏になるには相応の難関試験を突破しなければならないと聞く。それなのに、自分の様な家柄も見栄えもない物が、唐突に皇太子の鶴の一声で入ってくれば誰だって面白く思わないはずだ。
「不運ここに極まれりだわ」
そんな曰く付きの月英を、初日から男達は揶揄いの対象にした。
最初こそ月英も大人しくしていたが、それはそれで先程のように直接干渉されるだけで無意味と気付き、それからは多少の反撃と逃げに徹する事にしていた。
目立たないようにする事には失敗したが、今のところ女だとバレる気配がないのは不幸中の幸いだった。
「ま、あの様子じゃ絶対、僕の事を女だとは思ってないだろうね」
月英は医官服の胸元を緩め、パタパタと空気を入れる。
胸に何重も巻いたさらしが暑くてたまらなかった。
「さて、どうしたものかねぇ」
背を当てた壁の向こうで、まだ男達の騒ぐ喧しい声が聞こえていた。
そうして房に戻る事も出来ず月英が頭を悩ませていれば、燕明が現れたのだ。
「もうちょっとくらい、泣いてもいいんだぞ」
「は? 泣きませんけど」
「……弟が逞しすぎる」
意味分からない事を呟きながら肩を落とす燕明。なぜか涙ぐんでさえいる。情緒不安定なのか。
そんな燕明に月英は奇異の目を向けた。
「なんですか急に。僕の涙は人魚の涙じゃありませんよ。飲んでも何の効能もありませんが。飲むんなら
「それ死ぬってこの間言ってただろ」
「一本じゃ死にませんって。多分」
「不確かな情報で安易に皇太子を殺そうとするなよ」
「だったら、安易にいたいけな医官を泣かせようとしないでください」
「目潰しする奴は、いたいけとは言わない」
どうやら房での一連の流れを見られていたらしい。
月英は遠慮なく舌打ちをした。
「お前……普通、俺に向かって舌打ち出来る奴なんか居ないぞ?」
燕明は顔を引きつらせていた。
引きつっていても美しいと思わせるのは、やはり皇太子故の気品からか。それとも単に顔の造形が良いからなのか。どちらにせよ、燕明を変態だと認識している月英には、いくら燕明の顔の造形が美しかろうと、態度と発言に些かのブレもみられない。
「突然やって来たかと思えば『泣け』などと……殿下は変態なだけでなく
嘆息しながら首を横に振り、燕明から一歩遠ざかる。
「待て! 違う、そういう趣味はない! というか、変態でもない!」
慌てた燕明が釈明に近付こうとするも、彼が一歩踏み出せば月英は二歩後退する。
「なぜ逃げる!?」
「危険人物と判断しましたので」
燕明がスッと足を出せば、月英はススッと後退する。ススッと出せばススススッ。
これでは埒があかないと判断した燕明は追う事をやめ、その場に座り込んだ。皇太子でも地面にしゃがみ込んだりするんだな、と月英は美しい織りの衣が土に汚れるのを、勿体ないと眺めていた。
「はぁ……お前と居ると調子が狂う。普段の俺はこんなんじゃないのに……」
すると燕明は、まるで猫でも呼ぶように月英に手招きをする。
「……何ですか」
警戒色を全身と声で表わす月英に、燕明はもう怒る気にもならないのか、肩を揺らして苦笑した。
「大丈夫だ何もしない。ただ少し話がしたいだけだ」
まあ実際、太医院の裏でどうもこうも起きやしないだろう。
月英は人一人分空けて、燕明の隣に腰を下ろした。その一人分の空間に燕明がふと笑みを漏らす。
「弟というより、まるで人慣れしてない野良猫だな」
「まず弟って何の事です」
燕明は宙に視線を彷徨わせると、意味深にはにかんでみせた。
――この人は、顔で困った事なんかないんだろうな。
唐突に月英は自分の視界を覆う重苦しい前髪が気になり、顔を背けてしまった。
「なあ月英。中には戻らないのか?」
見ていたのなら分かっているくせに、と思いながらも月英は律儀に答える。
「戻りたくありません。今は」
「今は、ね。そうやって同じ事があれば、お前は明日も明後日も、ずっとここでこうして隠れているのか」
「それは……」
こうやって逃げるのも限界だろう、と月英もそれは感じていた。だが、だからといって自分にとれるすべなど何もなかった。
「……大丈夫です。今までも同じ様な中で生きてきたんで。それにたった三月ですし、向こうも僕の事なんかに構ってる暇はないでしょう」
我慢していれば時間など過ぎる。
それに、そうやって生きるすべしか月英は知らなかった。我慢、我慢、我慢、逃避、我慢――それが月英の人生だった。
燕明の返答がないのを不思議に思った月英が隣を見れば、なぜか燕明は目を眇め、痛々しそうな顔で月英を見ていた。
月英、と呼ぶ声はとても息苦しそうに聞こえる。
「何が……何が大丈夫なものか……」
不意に手に温かさを感じた。
燕明の手が、身体の横にあった月英の手に重ねるように置かれていた。二回りも大きい手はすっぽりと月英の手を覆い、月英はこれが本物の男か、と手を払う事もせずじっとそれを眺めていた。
「確かに、ここはお前にとって居心地の良い場所ではない。だがな、何もせずその現状に慣れるのは間違っていると、はっきり言える」
「それは、殿下が偽りのない人生を歩んできたから、そう言えるんですよ」
「偽り? どういう意味だ」
努力ではどうしようもない事など山ほどある。自分の身など、嘘に嘘を加えて嘘で煮詰めて出来たようなものだ。そんな嘘で固められた奴がどう頑張ろうと、結果も嘘でしかない。
月英は燕明の問いには答えず、ははと力無く笑った。
「無理ですよ。僕は医術も何も持たない、ただの下民なん――っ!」
突然、重ねられていただけの燕明の手が、月英の手をキツく握り締めた。
「お前は、自分の持っているものに気付いてないのか?」
目を瞬かせ、燕明は驚きの表情で月英を見ていた。
今度は月英が戸惑いの声を上げる。
「僕が持ってるもの……ですか?」
何も持っていないからこその下民だというのに。
「あるではないか。ここに」
そう言って、懐から燕明が取り出したのは絹の手巾。そこからふわりと鼻腔を掠めた香りに月英は覚えがあった。
「これ、もしかして僕が調合した精油を染み込ませてます?」
「ああ。あまりに良い香りだったんでな、こうして手巾に付けて持ち歩いてるんだ。朝議で嫌なことがあった時は、この香りで落ち着いている」
燕明は手巾を鼻に当て、深呼吸してみせる。
「蜜柑も薫衣草も、精神疲労を癒やす効果がありますからね」
燕明は淡々と述べる月英を、目を細くして横目に捉える。
「お前はこの術を特別とは考えてないようだが、この術は素晴らしいと俺は思うぞ。香りで治療など誰でも出来る事ではない。精油も、俺が教えてもらったものだけじゃないんだろう。すごく努力が必要な術だと分かるよ」
月英の口は呆けたように丸く開いていた。
「そりゃあ、植物の数だけ精油はありますが……この術にそんな事を言って貰ったのは初めてです」
いくら良い香りを作れたとて腹が膨れるわけではない。
誰も月英の香りや、その術に興味を示さなかった。香りを仕事としたのは花楼の時が初めてで、そこもそんなに稼ぎが良かったわけではなかった。元々『
言葉を失っていると、空いていた方の手で燕明に頭を撫でられた。
「胸を張れ、月英」
「……けど、この術は」
胸を張って公に出来るものでもない。
――だってこれは、この国にあってはならない術だから。
突然口籠ってしまった月英の頭を、燕明は優しく撫で続けた。
「この術をどうするかは月英次第だが、努力して手に入れたものを使わないのは、勿体ない気もするがな。それに、ここは黙っていて居場所を得られるほど甘い場所じゃない」
「それは、よく身に染みて分かってます」
「はは、だろうな」
「……元より、僕に居場所なんて……あるんでしょうか」
月英は自嘲した。
「少なくとも、今お前にあるのは居場所じゃなくて、ただの場所だな」
燕明の言葉に、胸がズクリと痛んだ。考えないようにしてきた事を、的確な言葉で返されてしまった。
「互いを知らなければ、歩み寄る事など出来はしないさ。互いに言葉を交わさねば分からぬというもの。そう最初から相手を拒もうとするな、月英」
いつも自分の居場所なんてない、と探す事も求める事も諦め、置かれた状況に身を任せていただけ。
全てただの成り行き――と思っていたのに。
《お前さえ居なければ》
涙を流す事はなくなっても、悲しい事に変わりはなかった。
だが今まで一度たりとも反論も反抗もしてこなかった。自分の想いや感情を吐き出す――という事の一切を放棄してきた。自分に諦めていたから。『居なければ』と言われ続け、いつしか自分の中でも自分は『居ないもの』となっていた。
しかし、その言葉にいつも心を重くしていたのは、本当はその反対を望んでいたからではないのか。
本当は、誰かに求められたかったのではないか。
本当は、自分を必要としてくれる場所に身を置きたかったのではないか。
本当は――
「殿下、僕は……自分を諦めたくないです」
諦めたふりをして自分を納得させていた。これ以上自分が傷つかなくて済むように。
身体を丸めて溢す月英のその言葉は、
「ああ。諦めなくていい。諦める必要がどこにある」
月英は顔を上げ、燕明の漆黒の瞳を真っ直ぐに捉えた。
「僕はこの術を使って、僕である事を証明したい。僕にしか出来ない事をしたいです」
満足げに燕明の口角が上がる。
「俺の助けはいるか?」
「僕はそんなに弱くないですから」
確かに、と燕明は軽妙に膝を叩いた。
「兄としては、弟にはもうちょっと甘えて欲しいもんなんだがね」
「さっきも言ってましたけど、その兄やら弟やらって何ですか」
「はは、実はお前の事は弟のようだなと思ってな」
あっけらかんと言う燕明に、月英が「はぁ」と間が抜けた声を出す。
「勝手に人の家系図に混じろうとしないでください」
「だったら、お前が俺の家系図に入れば万事問題ない!」
「万事問題しかないですよ」
本当にこんな能天気なのが次期皇帝で良いのか、と月英は心配になった。
「それじゃあ、俺も仕事へ戻ろうかな」
よっこらしょ、と年齢と顔に似合わない掛け声と一緒に燕明は腰を上げた。それと一緒に握られていた手もスルリと解け、温められた肌が外気に触れヒヤリとする。
「もしかして、僕を心配して様子を見に来てくれたんですか?」
「偶然だよ」
「……下手くそ」
嘘がバレバレだ。偶然でこんな、内朝の端にある太医院の房の裏になど来るものか。
しかし、燕明の素知らぬふりして「偶然」などとバレバレの嘘をのたまう姿に、月英はぽこぽこと笑いが込み上げ、とうとう堪えきれず腹を抱えた。
「――ふッ、ははっ……あはははは!」
いつも淡々としていた月英が初めて感情をさらけ出して声を上げて笑う姿に、燕明は
あははは、と笑う陽気な声が真っ青な空に吸い込まれていく。
まるで身に絡む重いものから抜け出そうとするように、今まで笑えずにいた分を吐き出すように、月英は一心に笑っていた。
「――っはぁ」
笑声がやむと、月英は満足したような息をつき、燕明に顔を向けた。
「本当、殿下はバカですね」
「――っば!?」
燕明が、悪口を言われたのに悪い気がしなかったのは、それを言った月英の頬が仄かに赤らみ緩んでいたから。それは、ここに来た時見た表情とは雲泥だった。
月英の目元は相変わらず前髪で隠れていて、燕明からは見えない。
だが唐突に向けられた、頬を赤くした今までにないくらいの純粋なその笑みに、燕明は喉を締め付けられたような感覚に陥った。
燕明は息がうまく出来ず、月英からフイと顔を背けてしまう。
「こ、皇太子に……バカ……などと言う奴が…………」
最後の方は尻すぼみして言葉にならなかった。
燕明はいたたまれない気持ちになり、月英に背を向けた。
「……俺は仕事に戻る。何かあれば……俺や藩季を頼ってくれていい」
「お気持ちだけ頂きます。でも、これは僕が人になる試練ですから」
「面白い事を言うな。お前は最初から人だというのに」
燕明が困ったように口を歪めた。しかし、月英は無言を返すだけだった。
燕明の足が月英から遠ざかる。
房の角の向こうに燕明の姿が消えようとした時、彼は視線だけを月英に返した。
「胸を張れ、弟。俯くな。目に映る景色は、爪先よりも大空の方が気持ちいいだろう」
そう言って頭上に広がる綺麗な青空を指さし、今度こそ角の向こうに姿を消した。
「誰が弟ですか」
残された月英は苦笑し、頭上のその綺麗な青を眺めた。
◆◆◆
「おや、どうされました? 燕明様」
藩季は何かをぶつぶつ呟きながら、一心不乱に執務机で筆を走らせる燕明に首を傾げた。どうやら燕明は藩季が部屋に入ってきたことにも気付いてない様子だった。藩季がそっと近付き聞き耳を立ててみる。
「俺は違う俺は違う俺は違う俺は違う――」
意味不明なことを呟いていた。
とうとう不眠の末に気が狂ったのかと思ったが、燕明の手元――一心不乱に紙に書いている文字を見て、藩季は盛大に噴き出した。
そこに書いてあったの文字は――『
「ああ、そういえば今日は太医院に行ったのだったか」と、藩季は一つの可能性を即座に察する。
以前燕明は、国にも自分にも新しい風が必要だと言っていた。
「まさか、そっち方面の新しい風が吹くとは……」
違う扉が開きそうになっている自分の主人を、藩季は忍び笑いでもって密かに眺め続けた。
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