2-2

 人として生きた時間は五年もなかっただろう。その五年も、半分は人でなく犬のようなものだったが。唯一、自分を人として扱ってくれたのは、最初の養父だけだった。

 

 彼は名を『子順しじゅん』といい、家庭を持ち、月英と同じ年頃の男の子にも恵まれたどこにでもいる普通の平民だった。

 月英は四歳で子順に「本当の父親ではない」と聞かされるまで、彼が本当の父だと思って疑わなかった。それ程に彼は自分の息子と月英とを分け隔てなく扱った。

 しかしそれは子順だけであり、子順の妻――母と思っていた人には、いつも辛く当たられていた。

 近寄る事さえ許されず、袖を引っ張って呼ぼうものなら、虫を払うような乱雑さで転がされた。彼女は自分達の息子だけを愛した。まるで違いを見せつけるように、月英の目の前で息子をこと可愛がった。それを見て育った息子も、同じ様に月英を邪険にした。

 彼女らの月英を見る目は、人に向けるものではなかった。

 嫌悪、忌避、愚弄、嘲笑。――そして、畏怖。

 時には化け物とさえ言われた。

 それでも月英には子順が居てくれれば良かった。子順から与えられる優しさが全てを癒やしてくれた。

 しかし唐突に、月英が人でいられる時間は終わりを迎えた。

 子順が亡くなった。

 母は月英を追い出した。

 元々、自分など手元に置いておきたくなかったのだろう。


『今までは旦那様の言葉があったので我慢していましたが、旦那様が居なくなったのならばお前はただの疫病神です! 二度と我が家には近付かないで! その口から子家の名も出さぬよう!』


 一秒でも早く関係を切りたかったのか、母はその言葉だけを月英に与え着の身着のままで家から追い出した。


 

 薄々と気付いていた。

 なぜ自分が隠されるようにして育てられたか。

 なぜ自分が「化け物」なのかも。


 

『姓を言ってはいけないよ、月英』


 事ある毎に、まるで無意識下に刻み込ませようとするように、何度も何度も子順は同じ言葉を繰り返した。


 

『この本は誰にも見せてはいけないよ、月英』


 本当の父親が唯一月英に残したという本。字の読めない月英に、子順はその本を何度も何度も読んで教えてくれた。

 意味が分からずとも暗唱できるようになると、最後に題字について教えてくれた。


『さい、こく……こうりょうの、じゅっほう?』


 やはり意味は分からなかったが、月英が本の全てを覚えると子順は題字の最初の二文字を破り捨て、大事そうに欠けた本を月英に渡した。


 

『目を誰にも見られてはいけないよ、月英』


 ずっと目に掛かる前髪が鬱陶しかった。それでもすだれのように下ろしていたのは、子順との言いつけを守るため。

 しかしそれも成長するに従って、自分だけ違うからなのだと気付いた。

 月英が子順の手に渡った経緯について、子順は詳しく話そうとはしなかった。実の父親と子順は旧知の仲で、その縁で引き取ったという事しか教えてくれなかった。

 実の父親がどこに居るのか、実の母親はどうしたのか。何も言わず子順は逝ってしまったから。

 最後にもう一つの約束事を遺して。


 

『生きろ、月英。例えどんなに辛くとも……生き続けろ』


 だから月英はどんなに将来に希望が持てなくとも、生きる事だけは諦めなかった。





       ◆◆◆





 月英は土床に敷いたむしろの上で寝返りをうった。正面に見える天井は、今にも崩れ落ちそうな雰囲気だ。

 宮廷勤めがこんな下民区の突風一吹きで崩れそうな家に住んでいるとは、皮肉なものだった。しかし、やはり官舎には住めない。自分には抱える秘密が多すぎる。

 ごそごそと懐から例の本を取り出し眺め、中身を手遊びにパラパラとめくる。

 中身などとうに暗記してしまって、本当ならばこうして手元に持っているのも危険なのだが、月英にはどうしてもこの本が手放せなかった。

 唯一、実の父親が自分に遺してくれたもの。



 母に子家しけを追い出されてからは、月英は暫く本当に犬のような生活を送った。

 たかだか五歳程度の子供に生活力などあるはずもなく、腹が減ってはゴミを漁り、他家の壁と壁の隙間で風雨を凌ぎ、寒くなれば野良犬を抱えて共に暖をとった。

 そうしていたある日、男に拾われた。それが二番目の養父だった。

 名前も顔も、もう思い出せない。

 男は、月英を下男として他家に貸し出しては金銭を得ていた。どうやら痩せっぽちでみすぼらしい格好のお陰で、男だと思われたようだった。

 与えられる食べ物は僅かだったが、腐ってないだけでも十分だった。

 男は月英の新たな父となったわけだが、月英は子順の言いつけを守り続けた。

 月英にとって幸いだったのは、誰も捨て子の容姿など気にしなかった点だ。粗末な着物を着て伸びっぱなしの陰気臭い髪型でも、ただの労働力にそこまで気を回さなかった。

 しかし、外に出て人と接する機会が増えれば増えるほど、秘密を守るのは難しくなった。


『うわっ! なんだソレ!』


 たまたまその家の子とぶつかって尻餅をついた拍子に髪が乱れ、目を見られてしまった。

 すぐにそれはその家の大人に伝わり、そして養父である男にも伝わった。


『お前……よくも今まで騙してくれたな』

『だ、だましたわけじゃ……』

『うるせぇ! お前をかくまってたなんて思われちゃ、俺まで危ねえんだよ!』


 どうして男が危なくなるのか分からなかった。

 自分が人と違うのは知っていた。

 嫌われるのは、雑に扱われるのは、人と違うからだと思っていた。しかし、どうやらそれだけではなかったようだ。


『分からねえなら説明してやる。この国でソレは粛正対象なんだよ。お前の存在自体が罪なんだよ』

『つみ? しゅくせー? ……けど、わたしはずっとこの国で……』

『んなこたぁ、俺は知らねえんだよ! お前の親じゃねぇんだからな! ったく、最悪なもん拾っちまったぜ』


 幼い月英には男の話の半分も理解できなかった。だが、自分はこの国に居てはならない存在なのだという事は分かった。

 その後、男は月英を連れ逃げるようにして町を出た。

 男は月英を捨てはしなかった。少しホッとしたのも束の間、なぜ男が最悪と言う自分を連れて出たのかが分かった。


『いいか、絶対顔を見せるなよ。大人しくしてろ。言う事聞けなきゃ役所の前で捨ててやるからな』


 男は最後まで月英を物とした。

 タダで捨てるより、売って金に換えた方が得だと判断したのだ。

 それからだ。月英の売り買いされる日々が始まったのは。




「存在自体が罪……ね」


 この歳になれば、いくら下民だとて世情くらい分かるもの。


「だから粛正って……何もそこまでする事ないだろうに」


 粛正が具体的にどの様な処罰なのかは分からない。誰も知らないのだから。

 今なら、子順がなぜ本の題字を破り捨てたのか、目を見られないようにと言ったのか理解できる。


「僕を守るためだったんだね。父さん」


 そして今、自分が男として生きているのも、自分の身を守るためだった。四人目か五人目の養父の時、膨らみ始めた胸に気付かれた。月英は自分の性別を特に気にしたこともなかった。汚い下民の子――くらいにしか見られていてないと思っていたから。しかしある日、着物の隙間から胸の膨らみを見て女だと気付いた養父が、薄気味悪い笑みを浮かべて新しい仕事をとってきた。何の疑問も持たず月英は言われた場所に向かった。しかしそれは春を売るような仕事だった。やに下がった顔をして待ち構えていた汚らしい男の手が、自分の襟を引き下げようとした時、やっと月英は仕事内容を把握した。


 怖気おぞけだった。男の股間を踏み潰し月英は逃げた。その男からも養父からも。

 死にたくなった。もう解放してくれと走りながら願った。このまま倒れ、野犬の餌になり、そして土に還ることが出来ればどんなに楽だろうかと。

 だが死ねなかった。

 それは子順との死の間際での約束。――『生きろ』という、死にゆく者から願われた自分の生。

 だから月英は生き続けた。

 そして再び捨て犬と変わらぬ生活を送っていれば、次の養父に拾われたのだ。そこからは月英は『私』ではなく『僕』となった。


「けど、一つだけ未だに分からないんだよな」


 子順の約束はどれも自分を守るためのものだった。ただ、三つの約束事の内、未だに一つだけが分からなかった。


 ――なぜ、姓を明かしてはならないのか。


 それを知る子順はもうこの世には居ない。恐らく母に聞きに行っても分からないだろう。

 しかし、子順が無意味な事を言うはずがなかった。きっと自分を守るための約束なのだろうと思えば、分からなくても約束を破ろうという気はしなかった。


「――本当の父さんと母さんは、今頃どこで何してんだろ」


 手にしていた本の表紙を指で撫でる。

 随分とボロボロになってしまった。角は丸くなり、頁も手で持つ部分は文字が擦れている。その擦れた部分にぎりぎりで判別出来る文字が記してあった。


よう……光英こうえい……」


 響きからいって男名だ。恐らくこれが本当の父の名。

 月英は破かれた表紙を眺めた。

『さいこく』――それは『西国』と書く。西国とはつまりは異国の事だった。


「どうして父さんが異国の術を……」


 どうやって異国の術を知ったのか。

 月英は『陽光英』の文字を丁寧になぞった。

 背表紙の、しかも内側に目立たぬようにひっそりと記された名。子順もこれには気付かなかったのだろう。もし気付いていれば、「姓を言うな」と言っておいてこの名を見逃すはずがない。

 月英は本を胸にぎゅっと抱き、身体を丸めた。


「会いたいよ……父さん」


 実の父親が唯一自分にと遺してくれた術。燕明も藩季もこの術に驚いていた。しかも価値あるものとも言っていた。燕明や藩季の言葉を頭の中で反芻させていれば、ふと月英は思い至る。


「そうだ……この術を国中に広められたら……!」


 そうすれば、いつかどこかで父の耳に入るかもしれない。自分が生きていると知らせることも出来る。噂を聞いた父が会いに来てくれるかもしれない。

 だとすると月英が今、宮廷に居る事は最高の環境といえた。何事も文化や流行りは中心地――萬華宮から始まるものだ。


「萬華宮の中でこの術を必要とさせる事ができたら、きっと……」


 月英の双眸そうぼうには強い光が宿っていた。


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