天国に1番近い時間
空良 明苓呼(別名めだか)
前編
2012年3月11日。早朝。
夜行バスから降り立った瞬間、鋭い刃が口の中に入り込み、喉奥へ深く深く差し込まれた。東北地方の冷気は僕にとって凶器のようなものだ。
この地に1歩踏み込んだ瞬間、瓦礫の記憶が両脚をパキパキと凍らせる気がして、右脚を無理やり持ち上げる。こういう時に足を止めると、先に進め無くなることを、経験上痛感していた。
ここは家の中でも無ければ、大学のキャンパスでも無い。三陸沿岸Z市のターミナルステーションZ駅だ。
足に巻き付く何かを振り払いながらでも進まなければ、立ち止まった途端二度と戻れないかもしれない。そのまま、ひとまずの目的地であるお手洗いへ。
2011年3月11日。三陸沿岸の地方都市であるZ市は、なすすべも無く大津波に飲み込まれた。高台にあったZ駅は偶然難を逃れ、今も短区間運行を続けている。何より、高速バスの発着をいち早く再開したため、ボランティアの受け入れに大いに役立っていた。
底冷えするZ駅のトイレの洗面台で、僕は顔を洗い、頭をぐしゃぐしゃと洗った。古い陶器の洗面台は、蛇口が青緑色に錆付いている。清廉な水道水は、氷点下を僕の頭に叩き込み、バスで沈められた僕の思考を研ぎ澄ませてゆく。
この1年間、大学の休みを狙っては何度かボランティアに来ていた。
内容はその都度様々。瓦礫の山を巡りながら、人の写った写真やアルバムを集めるなんてのもあった。
今でも印象的なのは、何処の誰かも分からない、いつかの結婚式の写真。海水に浸ってしなだれて、乾いて泥が吹き飛んで。すっかり褪せた紙片と化しても、その中の笑顔は決して色褪せていなかった。
花が咲いたように笑う新郎新婦の安否も不明のまま、その写真をそっと回収ボックスに横たえたっけ。
「今日は生配信の手伝い。それが終わったら、明日の朝一番に帰る。今日は生配信の……」
そう唱えながら再び外へ。寒いはずだ。髪を拭きながらお手洗いを後にすると、空は濡れ布巾のような薄白い雲に覆われていた。
「山本君、ごめんごめん。待たせちゃったかな?」
目の前にサッと停まった軽自動車の窓から、恰幅の良い男性がこちらへ微笑む。Z市に暮らすアツシさんだ。
本当に小ぢんまりとした駅ロータリーは、常に閑散としており、夜行バスに乗って帰宅した地元住民は、すでに家族が運転する車で全員去っていた。
こんなタイミングで駅に取り残されているのは、自分のような他所者だけだ。さっと助手席に乗り込むと、アツシさんは車を軽快に走らせ始める。
「待たせちゃったかな。ていうかその頭凄いね〜! 髪まで洗っちゃったの?」
「今日徹夜なんですよね? 明日の朝に帰るつもりなんで。洗える時に洗っておかないと」
「いやあ、何箇所か途上国に行ったことあるとは聞いてたけどさ、参ったね。配信場所を提供してくれてる家の人が、大部屋貸してくれるらしいから。シャワーぐらい借りられるって」
「ご迷惑掛けられませんから」
「ははっ。真面目だね〜。まあ、全く気を遣わない奴よりマシだけどね。みんなピリピリしてるからさ」
知っていた。今まであちこちの避難所で、ボランティアの評判は確認している。正当な悪評も痛いほど耳にしていた。常駐のボランティアで無い以上、自分は他のボランティアの評価を落としてはならない。
被災者にとっても、常駐ボランティアにとっても、自分はたまに来るだけの他所者なのだから。アツシさんは兄弟のように自分に明るく接してくれるが、実際に被災した人間で、このような人物は少し珍しかった。
アツシさんとは2011年の5月に知り合ったのだが、車が確保出来ないだろうからと、何度も送迎を買って出てくれたのだ。そんな彼は介護していた両親を亡くし、家を失い、買ったばかりの新車を潰されていた。
見てよ。あそこのてっぺん。あの黒いのが俺の軽だよ。そう言って玩具のように積み上がる自動車の山を指差す。振り返った彼は冗談めいた笑顔だったが、あの時、自分は笑えなかった。
この軽自動車は親戚のお陰で入手出来た中古車らしい。
「急に連絡したのに、引き受けてくれてありがとう。本当に助かったよ」
「アツシさんには、ほんまにお世話になりましたから」
「東京はどう? あ、春休みなら大阪帰ってるのかな?」
言えなかった。夜行バスに乗るために池袋へ向かったが、繁華街の灯りはすでに日常を取り戻していたなどと。
「東京も今日の14時46分に向けて、少し寂しい感じでしたね」
「そっか……東京の人たちは地震の方で、きっとビックリしたもんね。ああ、そういえばこの時間からやってるとこあるの。最近再開したんだけど、今日は朝飯そこで食おうよ」
アツシさんはまだ瓦礫の山が散らばるZ港方向へとハンドルを切る。そういえば、以前から再開を急いでいる喫茶店があると聞いていた。看板メニューが何やったっけ。
「前に話したでしょ? 名物の苺ババロアが美味しいって。苺上手く入荷出来てるみたい。あとラーメンからオムライスまで何でも置いてるからさ」
ああそうだ、苺ババロア。甘い物苦手やねんけど。そんなことを考えていると、車窓から港が飛び込んで来た。
未だにバラバラと打ち上げられた漁船が放ったらかしだが、何とか港が使えるよう片付けたという風だ。復興どころか復旧優先。あれからたった1年しか経っていない今は、まだその段階なのだろう。
その瓦礫の海の端に、半壊だった小さなコンクリートビルが残っていた。その1階に「喫茶○○」と書かれた看板。
内装は驚くほど綺麗だった。東京にあっても、大阪にあっても、このレトロな空間は流行るかもしれない。ラーメンとチャーハンとカレーをもりもり食べ終わると、アツシさんが勝手に苺ババロアを2つ注文していた。
「めっちゃデカいやないですか〜」
目玉が飛び出るほど大きいが、こうなっては食べ残すわけにも行かない。これでもかと盛ってあるそれに、覚悟を決めて食らい付く。
「食べれるでしょ?」
悪戯っぽく笑うアツシさんの言う通りだった。ババロアの中身は半分以上、生苺だったのだ。かつかつと平らげる自分を見て、女将さんが気を良くしたらしい。
「良く食べるわね〜。サンドイッチおまけしてあげるから、お昼にでも食べてね〜」
その包みを受け取りながら、財布を取り出そうとすると、アツシさんに止められた。
「いや、でも……」
すでに千円札を数枚取り出した自分に、女将さんがにっこりと笑う。
「甘えときなさい。アツシ君、昔っから面倒見良いから」
参ったという表情で、アツシさんが会計を女将さんへと手渡す。
「自分も海外からの出戻りっすからね。向こうで世話して貰った分を、返してるだけです」
談笑しながら喫茶店を後にする。店の外は異世界だった。世紀末な風景の現実に、一瞬で頭が引き戻される。
いや、やっぱりまだマシだろうか。斜向かいのコンクリートの残骸には、スプレーで大きく赤丸が描かれ、無情に日付と数字が刻まれていた。
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