さよなら、チャーリー

T.KANEKO

さよなら、チャーリー

「最後くらいさぁ、自分の言葉で、何かないの……」

「……」

 彼は、キョロキョロと、宙に視線を巡らせる。その顔に深刻さは微塵も感じられず、むしろ滑稽でさえあった。


 彼との交際は十年にも及んだ。

 別れの機会は何度も訪れた。

 だけど、どういう訳か別れられなかった。

 理由はよく分からない。

 別れる理由は山ほどある。別れられない理由は見当たらない。それなのに、どうして別れられないのだろ。


 そんな彼との別れがついにやって来た……


 彼との出会いは、横浜の山下公園だった。

 結婚を約束していた人から突然告げられた、婚約破棄の言葉……

「やっぱり、俺には無理だわ。手に負えないよ。幸せにする自信がないから、別れよう……」

 そう言って、さっきまで婚約者だった人は、私の元を去った。

 私の言い分なんて何も聞かずに……


 あまりにも突然の事で、頭の中が真っ白になり、あらゆる感情を失って、ベンチでうな垂れていた私に、声を掛けてくれたのが彼だった。


「下を向いていたら、虹を見つけることは出来ないですよ」

 タキシードを着て、怪しいほどの笑顔を浮かべた彼は、一輪のバラを両手でピンと立てて、私の前に差し出して来た。

 それは、安っぽい映画か、予算の無いCMのようなワンシーンだった。


「綺麗なバラですね……」

 何の感情もなく、私がそう言うと、よかったらどうぞ、と彼は軽く膝を折った。

 差し出されたバラを受け取った時、何かが心の中で動いた。空っぽになっていた心に、一輪の花が咲いたのだ。

 人間と言うのは、満たされている時に感じない事が、空っぽだと些細な事でも刺さるのだ、という事を初めて知った。

 この人は私を幸せにしてくれるかもしれない、そんな風に思ってしまったのも、心が空っぽだったからに違いない。


 だけど彼には、何もなかった。

 若者と呼ぶには、少し無理がある年齢なのに、アルバイトで生計を立てていて、稼いだ僅かばかりのお金を、ギャンブルにつぎ込んでしまう駄目男だった。

 ちょっと良い話があると、すぐにアルバイトを辞めて、面白そうで、ラクそうで、沢山稼げそうな話に飛びつき、あとで痛い目に遭う。

 そして、生活費が底を突くと、私のところへやって来て、手を擦り合わせて拝むのだ。

 そして必ず言う……

「人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ……」

 どこかで聞いた事があるような言葉……

 そして続ける。

「僕には勇気と想像力はある、だけどお金が無い。だから少しだけ貸して」、と。


 そんな男に毎度、毎度、お金を貸してしまう私もバカだと思う。

 だけど、その願いを無碍に出来ない雰囲気を、彼は持っている。

 クシャクシャの笑顔で、口を尖らせて、本当に申し訳無さそうにするその姿は、まるで捨てられた子犬のようで、放り出してしまったら、死んでしまうんじゃないかと心配になり、助けてしまうのだ。


 彼の為にならない、と言う事を自覚しているのに、私は手を差し伸べてしまう。

 あの頃から、餌の獲り方をキチンと教えておけば、もう少しまともな生き方が出来ていたかもしれないのに…… 私は駄目な男を作ってしまった。


 そんな彼だけど、悪い事ばかりじゃなかった。

 交際したての頃は、いつも楽しくて、笑いが絶える事なんて全然なかった。

 レストランで食事をしている時も、公園で手を繋いで歩く時も、動物園に行ったって、ラーメン屋の行列に並んでいる時だって、いつも彼は私の事を笑わせようと一生懸命だった。


 私が友達と喧嘩して、落ち込んでいる時に、工業地帯の夜景を見に連れて行ってくれたり、仕事で大きなミスをして、死んでしまいたいと悩んでいた時に、朝までしっかりと抱きしめてくれたり…… 

 どんなに私が沈んでいても、彼はおどけた態度で、私の心を解してくれた。


「あなたは、どうしてそんなに陽気でいられるの?」

 一度、彼に尋ねた事がある。

 そうしたら、彼は言った。

「無駄な一日、それは笑いのない日だからね……」

 彼は、その言葉を地で行くタイプだった。お金が無かろうが、人に騙されようが、浮気がバレて私に問い詰められたって、いつだって明るさを失わない人だった。


 私の母が死んだ日、彼が傘を差さずに歩いていたから、どうして傘を差さないのか、聞いてみたら、「僕は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済むでしょ」、と言って笑った。

 涙を笑いに変えてしまう彼、駄目なところばかりだけれど、そんな彼の事が大好きだった……


 だけど……

 この人は、悪い人じゃないけど、私が傍にいたら駄目な人にしてしまう。

 そう思った私は、彼との別れを決意した。

「もうこれ以上、あなたに振り回される訳にはいかないの、これで終わりにしましょ。きっとあなたにとっても、その方が良いと思うわ……」

 込み上げてくる感情に蓋をして、毅然とした態度でそう言い放った。

 言い終えた瞬間、指の隙間から、彼の笑顔が零れて行く気がした。

 大好きだった彼の笑顔が……


 ピクっと眉を動かした彼は、視線を天井に向け、徐に口を開いた。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ……」

 彼は頬を少し引き攣らせて、そう言った。

 笑顔を浮かべてはいたが、その中には悲しみや、切なさが含まれているような気がして、胸にツーんと痛みが走った。


 彼の侘しさを纏った雰囲気に引き摺られないように、背筋を伸ばして口を挟む。

「その言葉さぁ、どこかで聞いた事があるような気がするんだけど、誰の言葉?」


「これはね、チャーリーが言っていた言葉だよ……」

得意げに彼は言った。


「チャーリーって誰?」


「サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン…… チャーリー・チャップリンさ……」

 そう言うと、彼は両手を広げて、おどけた態度を取った。

 私の心に、何かがストンと音を立てて落ちた。

 彼が時々口にする、哲学的で心に刺さる言葉は、みんなチャップリンの受け売りだったのだ。


 彼の生き方……

 それは、チャップリンの様に、愛情や、怒りや、切なさや、悲しみを、全て笑いに変えて生きる。彼は、そんな生き方に憧れていたのだと思う。


「そっか、あなたはチャップリンが好きなのね……」

 彼は人差し指で鼻の下を擦り、満足げに微笑んだ。


「最後くらいさぁ、自分の言葉で、何かないの……」

 ちょっと呆れて、そう言うと、キョロキョロと宙に視線を巡らせていた彼は、ニコッと笑って、私の目を見つめた。


「僕の最高傑作は次回作だから、生まれ変わったら、また会おうね……」

 結局、彼は最後までチャーリーから抜け出す事の出来ない男だった。


 だけど私は知っている。

 私の前から去って行く彼の背中が、微かに上下していた事を。

 そして、そんな彼に駆け寄って、抱きしめようとしている自分の心を。


 せめて雨が降り出してくれれば、彼の涙を隠す事ができるのに……

 そう思って見上げたら、雲ひとつ無い青空がどこまでも広がっていた。


 了

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