心の声が聞こえる私が、お嬢様に膝枕される話

黒上ショウ

心の声が聞こえる私が、お嬢様に膝枕される話

 漫画やアニメみたいな特殊能力なんて存在しない。私だって、中学校に入学する頃には、そんなことは理解していた。


 だけど、私はたまに、奇妙な感覚に襲われて、聞こえないはずの声が、聞こえる日があった。


「最悪……」


 大学の正門を通って、講義棟への道を歩いていると、誰かの濁った感情の声が頭の中に響いてきた。

 両耳に付けたノイズキャンセリングのイヤホンから流れる音楽が、頭の中で直接聞こえる尖った重たい音声に押し出されていく。


 私は、その音声の理解を拒否して、道を歩くために自分の両足を動かすことだけを考える。

 私の足は自然と講義棟への道から外れ、大学の敷地内の森林がある場所へ進んで行った。


 緑の樹木と、誰も座っていないベンチが見えてきて、私は少しだけ安心する。


 イヤホンを耳から外して雑にバッグに放り込み、木製のベンチに思い切って寝そべって、目を閉じる。

 周りに誰もいない場所では、頭の中に響く音声のボリュームは下がるが、重低音のノイズのようなものが聞こえ続けている。


 気休めに深呼吸をしながら、この悪夢のような時間が過ぎ去るのを待つ。


「大丈夫? 宇佐川うさがわさん」


 私の名前を呼ぶ声が聞こえて、目を開けると、長い髪の女の子が視界に映った。


 北条十和子ほうじょうとわこだった。


 歴史の教科書に載っていそうな名前の通りの、どこかのお嬢様。と私は友達から聞いている。


「宇佐川さんがフラフラと歩いてるのが見えたから、気になって後を追いかけて来ちゃったの」


 北条さんは、ベンチの前にしゃがみ込み、寝そべっている私と顔の高さが近くなる。


 私は、何も言えずに北条さんの顔を見つめていた。

 彼女とは会話をしたことがなく、同じ講義を受けているときに、その整った顔とセンスの良い服装と、周りにいる人たちが浮かべている楽しそうな笑顔を、遠くから見ていた記憶しかない。


 しかし、遠くから見ていた顔が今は、かつてないほど近くにあった。


「悪いけど、今は気分が最悪なの。一人にしておいてくれると助かるんだけど」


 気恥ずかしさに負けて、私は態度の悪い言葉を口にしてしまう。

 罪悪感のようなものを味わっていると、私の頬に冷たい感触が当たった。


「お水、飲んだほうがいいよ。買ったばかりでまだ開けてないから、飲んで」


 北条さんが私の頬に当てている、ミネラルウォーターのペットボトルから、ひんやりと心地よい冷気が伝わってくる。


「身体を起こすの、手伝うね」


 北条さんは、私の両脚をベンチからゆっくりと下ろし、私の首筋の下に左腕を差し込んで、静かに持ち上げてくれた。


 だらしなくベンチに座る私に、北条さんが蓋を開けたミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれる。


「ゆっくり、ね」


 ベンチの私の横に座った北条さんに見つめられながら、私はほんの少しずつ水を飲み込む。

 ペットボトルから口を離すと、北条さんが私の背中を優しくさすってくれた。

 しばらくこの行為が繰り返されて、私の身体の緊張と重たさは、ゆっくりと解けていく。


「おつかれさま。しばらく、休んだ方がいいわね」


 力が抜けていた私は、北条さんに引き寄せられるように身体を倒されて、再びベンチに寝そべっていた。

 先ほどと違うのは、私の頭が北条さんの膝の上に乗っていること。

 柔らかいスカートの下にある、北条さんの意外としっかりしたの太ももの感触が私の頭に触れ続けていて、私は北条さんの微笑んだ顔をぼんやりと見上げることしかできなくなっていた。



「ありがとう」


北条さんに膝枕をしてもらってから、どのくらいの時間が過ぎたのかわからないけれど、私はようやくその言葉を伝えられた。


「どういたしまして」


 北条さんは、私の髪に触れて、指で優しく梳いていく。


「ショートへア、似合ってるわね。貴女あなたの髪、とても柔らかい」


 私は、ありがとうも言えずに、されるがままになる。


 私の頭の中に響く、誰かの心のノイズは、いつの間にか聞こえなくなっていた。


「よかったらだけど、貴女が困っていること、私に聞かせてくれない?」


 北条さんはそう言って、私の言葉を優しく待つ。


 しかし私は、北条さんに濁った感情を向けていた自分を自覚してしまっていて、結局は自分も、拒絶していた誰かと同じような心の声を持っている人間かもしれない、という暗い感情が広がり始めていた。


 北条さんには、きっと私の悩みはわからない。生まれも、育ちも、見た目も、優しい性格も、何もかも私とは違う。


「わかるよ」


私は、反射的に北条さんの顔を見上げていた。


北条さんは微笑んだ。


「だって、私も人の心の声が聞こえるんだもの」


その言葉が耳に届くと同時に、私は勢いよく北条さんの膝枕から頭を上げて立ち上がり、警戒モードの野良猫みたいに、背中を見せないようにして、北条さんを睨みつけながら距離を取った。


くすくす、という声が聞こえてきそうな笑顔を私に向けた、北条さんの心の声は聞こえてこない。


さっきまでの、私の心の声が北条さんに聞こえていたとしたら、恥ずかしいなんてものじゃ済まないし、冗談でからかわれているとしても、私は完璧なリアクションで応えてしまった。


北条さんは、ゆっくりと目を閉じて、歌うように囁き始める。


「その整った顔とセンスの良い服装と、周りにいる人たちが浮かべている楽しそうな笑顔を、遠くから見ていた」

「あの、本当にやめて。お願いだから」


 北条さんは、『ごめんなさい、嬉しくて』という声を私の頭の中に響かせながら歩いてきて、私との距離を近付ける。


「明日から、一緒にお昼ごはんを食べましょう。誰かの心の声を聞かない方法と、聞かれない方法を教えてあげるわ」

「今すぐ教えて。夜ご飯でもデザートでも奢るから」


 と言ってから、私がよく行くチェーン店に北条さんを連れて行っていいものか?という疑問が浮かんできた。


『どこのお店でもいいわよ。貴女が一緒にご飯を食べてくれるなら』


 北条さんの声が、私の頭の中に響く。


「……じゃあ、私の家に来て。電車で二十分くらいの駅だから」


 そもそも、その辺の飲食店で話せるような内容じゃない。

 でも、ハンバーガーとポテトとコーラを途中で買って帰ろう。今は、そういう食べ物で、味覚を埋め尽くしたい。


 北条さんが、私の頭の中に語りかけてくる。


『貴女のお母様かお父様がお家にいたら、ご挨拶しないといけないわね』

『いや、挨拶しなくていいから。ていうか、今日は夜まで家に誰もいないし』


 心の声で返事をすると、北条さんはアハハッ、と声を出して笑った。

 これまでに見たことのない、楽しそうに弾けた北条さんの笑顔。

 私は、笑っている北条さんの身体の揺れが、小さくなるのを待ってから言った。


「……さっさと行くよ。聞きたいことは、いっぱいあるんだから」

「そうね。私ずっと、貴女とこうして楽しくお話してみたかったの」


 口にされたその言葉は、頭の中に語りかけられる声とはまた違う味で、私の心に突き刺さる。


 楽しそうに私の隣を歩く北条さんの姿を横目で見ていると、明日も明後日も、もしかしたらその先も、私と北条さんはこんな会話をしているような予感がした。

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