第5話「言いたくない事」


「おはよう」


 早朝、俺が凛に挨拶をすると彼女は口をあんぐりと開けて固まった。それはそうだろう、と俺でも思う。つい先日に気をつけろ、と念を押されていたにも関わらず身体中ボコボコにされて白い包帯を巻かれているところがないほどになってしまっていたのだから。


 自分でも呑気に学校に登校したのは笑えてくる。

 放課後に人目を感じた俺は足早に帰宅を急いだのだが、人気がいなくなった頃あたりで背後からいきなり殴られた。それが拳だったのかそれとも何か鈍器を使ったのかはよくわからない。ただとりあえず酷く鈍い痛みが俺を襲った。

 頭部の衝撃からか次第に気が遠くなっていった。ぼんやりとする頭で何とか持ち堪えて犯人の顔ぐらい拝んでやろうとしたのだが視界がぼやけてよく見えなかった。

 何か喚いていたがよく聞こえない。その人物が言葉にならない言葉を発していたのかもしれないし、俺の頭がすっかりやられて処理できていなかったのかは定かではないが、水の中に入った時のような視界でとりあえず蹴られていることだけは理解した。


 俺が意識を手放してもう一度掴んだとき、太陽はすでに沈んでいた。

 人目のないところを通った俺も悪いが誰も気付かず、見つけてもくれず、助けてもくれなかったことに俺は世界から隔離されてしまったように孤独感に支配された。


 とぼとぼと帰宅し、適当な嘘を並べる相手もいないし愚痴をこぼせる相手もいないことを改めて痛感させられたのちに、消毒して処置をした。


「……それ」

「ん? これか? 実は風呂掃除していたら派手に転けてしまってさ。足元に石鹸置いたの誰だよ……って俺なんだけどな」

「嘘言わないで。誰にやられたの? はっきり答えて」


 俺の言葉は信用してくれないらしい。まぁ風呂掃除で転けたぐらいでこんなにボロボロになるわけはないので当たり前と言えば当たり前なのだが。

 凛の真剣な眼差しに俺は手をひらひらとさせてその要件には乗らないことを示す。


「風呂場で転んで、運悪くこのザマだ。誰にとかはない。強いて言うなら俺自身ってところだな」

「……そう」


 俺に取り付く島もないことを悟ったのかこれ以上深く聞いてくることはなかった。

 俺を狙う理由は凛の彼氏だからだろう。それ以上の理由は見つからないし、その他では関わりのない他人、人畜無害のポジションにいるはずなのでまず間違い無いだろう。とはいえ、ここで凛が殺気立って犯人探しをすれば、その犯人は彼女に手を出す可能性もある。一度したことはそう易々と心の中にとどめおくことなどできない。


 逆上すれば本末転倒であることは明白なのにも関わらず凛に危害を加えるかもしれないのだ。

 俺が危害を加えられたのだから契約は破棄されるはずなのだが、俺はどうにもその契約を破棄するつもりがないようだった。俺自身のことを言っているのに他人事のようになってしまったが、どうも感情と理性がぐちゃぐちゃになっているのだろう。


「じゃあ、今日一緒に帰ってもいい?」


 凛が訊ねた。俺は素直に頷く。

 凛の笑みの奥に業火のように煮えたぎる怒りの感情を垣間見た気がするがそれには素知らぬ顔をして軽く流しておく。怒ると女の子は怖いのだなぁ。


「あ、そうだ。今日は一つ買い物しないといけないの忘れてた。……俺が買い物してる間も待ってくれるなら一緒に帰ってもいいけど」

「ちゃんと待ってるから安心して。空くんが買い物してるところ見たいなー」

「そんなところ見ても面白いところなんかないだろ。それこそそこら辺のおもちゃとか見てる方が何倍も楽しいと思うけどな」

「ねぇ、私のことを小学生か幼稚園生だと勘違いしてない?」

「いいえ、滅相もございません」


 程のいい理由を付けてみるが弾かれてしまった。素直に頷いてしまった手前、はっきりと断ることができず、つい数分前の俺を安請け合いするな、と殴りたくなる。

 結果的に見せつけるようになっているのはわざとだろう。俺も少しは意識して話し方を変えてみたつもりだが、凛の方があざとすぎるのでは、と言うほどにアピールしてくる。その相手は俺ではなく、もちろん告白を狙っている男たちにだ。


「空くんは結構細いよね。ちゃんと食べてる? しっかり栄養取らないと背が伸びないしいい男になれないよ?」

「た、食べてるさ。いい男になるかどうかは別として」

「そこは『お前のために』って言ってくれてもいいところだよ? ねぇ、空くんの買い物が終わったら食料品買うの付き合ってよ」

「食料品? いいけど買って何に使うんだ?」

「それは料理に決まってるでしょ。私が空くんのために栄養たっぷりの食事を作ってあげる」


 俺は痛む右手を摩りながら「少々やりすぎでは?」と視線を送る。

 先程まで俺の状態を見て流石にやりすぎだろ、と哀れみの視線を向けてくれていた男たちが今は完全に敵側に回ってしまっている。

 しかし、凛はどこ吹く風、とばかりに知らんぷりをする。

 俺にはぐらかされたのがそんなに嫌だったのだろうか。凛には正直に話すべきかもしれないが、大勢の目がある教室で話すことでもないかな、と思い、どこか二人きりの時にでも話そうかと思っていたのだが。


 料理を作ってもらえると言う意味で睨まれている。好きな人の手料理は誰しも一度は食べてみたいと願うだろう。俺だってそうである。好きな人の作る手料理を食べてみたい。俺に好きな人ができるまでは無理な話だが。


 なら断るべきだろう。料理のおかげで得られるメリットとデメリットが釣り合わない。損をする。


 しかし、断ればそれはそれで好きな人の手料理が食べられるチャンスを捨てたクズとして叩かれるのもまた必然の将来である。詰みだ。詰み筋です。


「あ、ありがとう。楽しみにしとく」


 ぎこちない笑みで返すしかなかった。他に正しい選択肢があるなら誰か教えてください。


 凛が俺との契約を守ろうとしているのか、それとも他の人との関係を悪化させようとしているのかよくわからない。とりあえずじっと睨みつけおく。

 すると悪戯っ子のような笑みを浮かべられて俺は睨む気力を喪失した。顔がいいって絶対お得だよな。俺もそんな魔の顔が欲しかった。


「放課後が楽しみだなぁ。まだ朝だけど」

「ついでに言うと一時間目すら始まってないし、朝のホームルームもまだだぞ」

「授業長いなぁ」

「寝てればすぐだ」

「授業中に寝てるから成績伸びないんだよ〜? ちゃんと起きてノート取らないと見直しできないし、頭使わないと暗記だけじゃいつか頭パンクするからね?」


 隣の席にいるが凛が寝ているところは一度も見たことがないな。

 あの眠たくて仕方のない先生の授業のどこに面白さがあるのか俺にはさっぱりだが、凛には興味を惹かれるものがあったのだろうか。


「あ、お泊まりしてもいい?」

「ん〜、だめ」


 ふざけるな。俺はそろそろ本当に刺されるかもしれない。背後に気をつけよう。

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