―― 鬼 ――
腹が、減った。
サイズの合っていないゆるゆるのズボンのポケットや、ぱつぱつに張ったシャツの胸ポケットをまさぐっても、お札はおろか、小銭さえ入っていない。
舌打ち。
財布には、延滞している公共料金を払うのさえ躊躇われるくらいにしか金額がない。
ギャンブルでスッたせいだ。
絶対に店側に有利に設定をいじって、俺から金を巻き上げやがったのは間違いないのだから、店の前で不正を叫んでやったのに、あいつら警察を呼びやがった。
こんなはずじゃあなかった。
むず痒い鼻穴を指先でほじる。
何日も洗っていない脂ぎった髪をかきむしる。
こんなはずじゃなかった。
親兄弟との仲は険悪で、金をせびるわけにもいかない。
先日、退職した仕事は、半ば辞めさせられたようなもので、今でも恨みに思っている。
こんなはずじゃなかった。
ハローワークに行っても、無料の求人誌を見ても、自分に合った仕事なんてない。
以前の仕事繋がりの後輩たちは、連絡しても、誰も金を貸してくれなくなった。
会社員だったときに作ることができたクレジットカードは、もう限度額いっぱいだ。
こんなはずじゃなかった。
酒とタバコと口寂しさの間食と好物ばかりの食事、不摂生な生活の限り。
最後に仕立てたスーツは、もう着ることさえできない肥満体型。
こんなはずじゃなかった。
滞納した公共料金の支払い伝票の枚数。
部屋のドアを叩く大家のノック音。
こんなはずじゃなかった。
誰からも送られてこない年賀状。
クソリプばかりのSNS。
こんなはずじゃなかったっ!!!
金がない。
そう、腹が減るのは、金がないからだ。
だから、大家や集金人が金をせびりに来る部屋にも戻らず、街をふらふらとぶらついている。
金があれば良い。
金が。
腹が、減った。
とにかく何か、何でもいい、買えれば、安ければ、何でもいい、腹が膨れれば。
目にとまった、コンビニにふらりと入る。
「いらっしゃいませえー」
挨拶をよこしたコンビニ店員は、1人。
どこのコンビニもだいたいそうだ、ワンオペで人件費をケチってやがる。
駄菓子のコーナーで立ち止まり、レジカウンター内の店員を横目で伺う。
視線を防犯カメラに映す。
レジの死角になるような棚に回り込む。
万引き、するか・・・・・・?
店員が、事務所に引っ込むのが見えた。
畜生、防犯カメラで監視するつもりだ。
俺には内部事情が分かるんだ。コンビニバイトをバックれたことがあるから。
服の内側を冷たい汗が伝うの感じ、鼻息を荒くして、俺は場所を移動した。
指先が震える。そろそろアルコールがきれそうだ。
適当に、ワンカップと紙容器の酒を手にして足早にレジに行くと大声で店員を呼ぶ。慌てて事務所から出てきた野郎を睨み付けて、怒鳴り散らしてさっさと会計させる。会員カードのポイントで。
タバコを買えないことにも文句を言って、店を出る。
ワンカップの蓋を開け、こぼれる酒に構わず一気に飲み干し、咳き込む。瓶を地面に叩き付け、痰と唾を吐いた。
カッと腹の底から内臓を引き絞るような熱にイライラは収まらず、紙容器の酒にストローを差し込もうとするが、上手くいかない。
酒の入った容器を飲みもせず、コンビニのドアに投げつけ、ふらつきながら通りすがる連中に意味もなく怒声をあげた。
アルコールでぼやけた視界と思考のまま、左右にふらつきながら歩き続ける。
酒のせいで、余計に腹が減った気がする。
このまま強盗でもしてしまおうか。
商店街の一角で立ち止まる。
早朝ながらもう店をやってるところもあるようだ。
だが、人通りが以外とある。
妬ましいが、繁盛してやがるようだ。
開いてるおにぎり屋は、無理筋だが。
向かいの総菜屋は閉まっている。
何かを思い付いたかのように、男は店と店の隙間に太い体躯を滑り込ませていた。
店の裏手に、ゴミ箱が並んでいた。
清掃はされているようだが、それでも油と生ゴミの腐敗臭は隠せていない。
男がゴミ箱の前に立つと、スズメとカラスは飛び立ち、ネコやネズミが駆け抜けていった。
金銭的に底辺へ落ちても、アルコールで自制を外しても、それはさすがに人間の尊厳を天秤にかける判断だったようだ。
男はじっと、ゴミ箱の前で佇んでいたが、やがて腹の音が鳴ると、合図のように蓋を開けた。
食えそうなものを漁る。まだ大丈夫そうな鮮度を探る。素手で掴む。
口に運んでは、吐き出し、或いは飲み込む。また、飲み込んだものを吐き出す繰り返し。
やがて、足元から吐瀉物の酸っぱい匂いが立ちこめてきた頃、不意に声をかけられた。
「なあ、アンタぁ、そういうのはぁ、やめでぐれねえ、なぁ」
ひとつのゴミ箱を倒しながら、後退り、内心の焦りと驚きと羞恥を隠して、怒鳴り返す。
「分がるよう。でもなぁ、アンタぁ、こごでは、やめでぐれぇ」
見れば見るほど、体つきは貧弱で、身なりもおんぼろなジジイだった。
値踏みが済めば、なんてことはない、相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
「こごの人らにぃ、街にぃ、迷惑だぁ。おららはよぅ、こんなだがら。迷惑かけちゃだめだがらよぅ、それじゃ、生ぎでいげねぇ」
視線を向こうにやれば、空き缶や瓶、ペットボトルを満載したリアカーが見える。
廃品回収を生業に日銭を稼ぐようなホームレスに違いなかった。
「商店街の人らはよぅ、近ぐの公園でぇ、炊きだししてくれるような人らでよぅ。いい人たちだがらぁ、頼むよぅ。腹ぁ減っだら、そんどき、来てくれればいいがらぁ」
見下した。ジジイの小ささも細さも、歯の隙間から訛る説教も、何もかも気に入らなかった。
「少しだば、金やるがらよぅ、なぁ? これで何が買って食って、ええがらぁ」
痩せ衰えた腕で、ゆっくりと小さな巾着を取り出すと、男の前に差し出してきた。
「なぁ、これでぇ・・・・・・」
言葉を遮って、その細腕から小汚い巾着をむしり取ると、返す太い腕で振り払う。男の目にはもう死体やゾンビのようなものにしか映らず、見向きもせずに立ち去りながら、巾着の口を開ける。
舌打ち。
札も入っていやがらねえ。
スーパーの半額弁当を買えば、少しは・・・・・・と考えて、そこを揉め事で出禁になっていることを思い出すくらいだった。
だが、不意に手に入った金銭の、硬貨、まさに手の上の重みに、男は僅かに喜びを覚えていた。
弱い。
弱い奴から奪えば良いんだ。
俺は今まで、俺より強い連中に良いように奪われてきての今なのだから。
俺はこれから、俺より弱い連中から奪えば良いんだ。
アルコールの酩酊よりも、自己の中で芽生えた歪な正しさに、より酔った。
まだ早朝。
人通りは少ない。
男より、俺より、弱い、存在。
探した。
見つけた。
メス。
ガキ。
ジジイ。
ババア。
だが、そうだが、金目となると、ガキはダメだろう。
やはりメスか。
酔いで靄がかかり、狭まる視界の中。
突然。
忽然。
人通りが絶え、男の横を、女が通り過ぎた。
女。
女?
女。
だが、少女のようであり、老婆のようであり。
振り返ってみれば、妙齢の美女に見えた。
『おや・・・・・・妾が見えるのかえ?』
踵を返した美女の微笑みに、バカにされているのかと思った。
『ホホ・・・・・・そうか、そうか、飢えておるか、餓えておるのか? のう?』
時代がかった物言いに、やはり怒りを覚える。
『腹が減っては何事も出来ぬ、古今、皆がそうじゃ』
いつの間にか酔いはすっかり引いていて、体中を寒気が走っていた。気付けば、膝は震え、股を小便が濡らし、雫を垂らしている。
『善き哉、善き哉。喰ろうて善い。底まで堕ちなば、鬼に転じて成るも容易かろう』
額から伸びつつある角のようなナニかを手に掴むと、女は手首だけでへし折った。
『さすれば、そなた。この世は喰い物だらけぞ? 好きなだけ喰ろうと善い』
口の中に、角のようなナニかを押し込まれ、鼻水と涙をまき散らし、胃の中身の全てを吐き出しても、ソレは出てきてくれなかった。
やがて――――
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