第十一話 君に伝えたかったことを。
ポツリポツリと雨が降り出していた。
僕は窓の外を見ながら、少しだけ後悔する。
失敗したな、傘を持って来ていない。
午前中には雨が降る気配なんてなかったから、完全に油断してしまっていた。
風間さんも雨が降ってきたことに気が付いたのだろう。立ち上がり、僕を振り返る。
「……そろそろ帰った方がいいですね」
まだ小雨の内に帰りなさいということなのだろう。
風間さんはメアリの手を取り、僕の脇を通り過ぎる。
彼は微笑んでいた。……少なくとも表面上は。
「ええと……そうですね」
僕は風間さんの言葉にうなずくしかなかった。それ以外に何も言えない。
メアリは風間さんに手を引かれて、みんなのいる部屋へと向かっている。
僕もふたりの後を追う形で付いて行く。
廊下の歩く足音はよく響く。よくよく聞いてみれば、言い争いは終結しているようだった。
風間さんふすまを開け、ぐるりと様子を伺っている。僕はふたりの後からそっと覗き見た。
鎮痛な雰囲気が流れている。重苦しい雰囲気だ。
鳳さんはテーブルに頬杖を突き、疲れたように目を閉じている。小早川さんは鳳さんに背を向け、視線だけをこちらを抜けていた。
そして東野さんはといえば、体を小さくして居心地が悪そうにしている。
僕と風間さん、そしてメアリが話をしている最中、ここで一体何があったのだろうか。
考えるだけで恐ろしかった。
僕はそろりそろりと東野さんの側に行ってみた。足音を殺したところで意味はないのだろうけれど、そこは場の雰囲気に合わせてだ。
「えっと……大丈夫?」
「……大丈夫」
たぶんだけれど、大丈夫ではない。
とはいえ、僕にできることなんてないのだから、それ以上のことを訊くつもりはなかった。
トラブルは想定していなかったわけじゃあない。何かよくないことが起こるであろうことも。
それでも、連れて来なければならなかった。……のだと思う。
「そろそろ帰ろう。雨が降って来たよ」
僕が言うと、東野さんはゆっくりと立ち上がった。
小早川さんも、無言でその場を離れる。
部屋を出る際に、鳳さんに小さく頭を下げておいた。鳳さんは軽く手を振っただけで、別れの挨拶となった。
◇
『ささはら書店』を後にする。僕と東野さんは隣に並んで。小早川さんは僕たちの少し後ろに付いて来ていた。
どれくらい歩いただろう。僕たちの間に会話はなく、ただ規則的な足音だけが続いていた。
ふと立ち止まる。僕の行動に合わせたわけでもないだろうが、東野さんと小早川さんも立ち止待ってくれた。
「……どうしたの?」
東野さんは首を傾げ、僕をじっと見ていた。
僕は……どうしたらいいのだろう。何を言ったものだろうか。
「ええと……ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」
「あ? んだよ?」
僕は小早川さんに視線をやって、それからまた逸らした。
彼女の何者も寄せ付けない、鋭い眼光に威圧されたのだ。
「風間さんの婚約者の人のこと、小早川さんは知っているのだろうか?」
「……ああ、知ってる」
彼女の視線が、更に鋭くなる。ちっといらだたしげに舌打ちをして、続ける。
「だがこれはあたしたちの問題だ。てめえには関係ねえ」
「それは……まあそうだけれど」
関係ない、と言われてしまえばその通りだ。
僕は親戚でも何でもない。ただの部外者で、他人だ。
もちろん、それはわかってる。わかっている、のだけれど。
「……こう言ってはなんだけれど、僕は風間さんがちょっとおかしいような気がするんだ」
左手に薬指にはめられた婚約指輪。さながら遺影のような写真。
そこに映る、綺麗な女性。おそらくあの人が、風間さんの婚約者さんなのだろう。
なんとなく、それらの情報から察することができた。
きっと、件の婚約者さんはきっと、もう……この世にはいないのだろうな、と。
僕はまだ人生について語れるほど生きてはいない。ましてや、他人の人生に口出しするなんてお門違いもいいところだ。
だから、これは言わなくてもいいことなのだろう。いや、むしろ口にしない方がいいのかもしれない。
けれど、僕は言うことにした。この判断は、おそらく間違っている。
「僕にはわからないんだ。風間さんが何を考えているのか」
もちろん、わからないだろう。
関係者でもないかつ赤の他人である僕が風間さんの胸の内を知る機会なんてないだろう。
端的に言って、僕には人の心がわからない。
「知る必要はねえよ。第一、てめえには何もできない」
「それはそうだけれど……」
いや、これ以上はよそう。小早川さんの言う通り、僕には何もできないのだから。
風間さんの個人的な胸の内を聞いたところで、僕には。
「ところで、話は変わるのだけれど」
あきらめとともに、僕は話題を変えるべくそう切り出してみた。
「警察の居心地はどうだった?」
僕はできる限り嫌味に聞こえるように、ねっとりと口にする。
小早川さんは僕の意図を察してくれたのか、僕と同じように口の端を歪めて、答える。
「すげえよかったよ。警察のおっさんたちさえいなければ」
「……それは貴重な体験だったね」
「嫌な言い方するな、てめえは」
「事実を言ったまでだよ」
「そりゃあそうだが、例え事実でも言っていいことと悪いことがあるって習わなかったのか?」
「そんなことを習った記憶はちょっと僕にはないな」
もっと現実的なことを習った気もしなくもないが、今は関係のないことだ。
建設的な話をしよう。例えばそう……もう一ヶ月後に迫った期末試験のこととか。
「ところで、小早川さんは期末テストの準備はしているの?」
「きまつてすとぉ? なんだそれは? 美味いのか?」
小早川さんは眉間に皺を寄せ、嫌悪感を全面に押し出しながら訊いてくる。
もちろん、美味しくはない。それどころか食べ物ですらない。
「どうだろうね。人によるんじゃないかな。少なくとも僕にとっては歓迎できるものではないけれど」
「でも、着々と準備してるんだろう、てめえは」
「まあね。それが学生ってものだと思ってるよ」
これはおおよそ半分くらい真実を言っている。半分は嘘だけれど。
ただ、意識を逸らすのにはいいかもしれない。
「とやかく言うつもりはないけれど、不真面目もほどほどにしておいた方がいいと思うよ」
でなければ、留年とかあるかもしれない。知らないけれど。
「……でも、そんな場合なのかな?」
僕と小早川さんがなんでもない普通の学生の会話をしている最中、東野さんがふとそう言った。
言って……しまったのだった。
つい数秒前までは朗らかだった小早川さんの表情が強張る。
いらだたしげに、東野さんを睨み据えた。
「何が言いたいんだ、祈」
「そのままの意味。本当にこのままでいいの?」
「……ああ、いいんだ。もういいんだ」
小早川さんの声色には、どこかあきらめが混じっていたように思えた。
察するに、これまでにも同じような問題が持ち上がったことがあったのだろう。
その度に、ああして風間さんと似たようなやりとりがあったのかもしれない。
小早川さんは眉間に皺を寄せ、少し疲れたような表情で溜息を吐いた。
「あのアホが何もしない以上、あたしにはどうすることもできないんだ」
それに……、と彼女は続ける。どこか悲しそうに。
「死んだ人間は生き返ったりしないものだしな」
「……そう」
「……すまねえな。心配ばっかかけてよ」
東野さんの表情に変化は見られなかった。少なくとも、僕には。
僕にはわからなくても、小早川さんにはわかるらしい。
「すごいね。どうしてわかるの?」
「逆にてめえはなんでわからねえんだよ」
小早川さんはあきれたように、じとっとした視線を向けてくる。
そう言われても、僕は東野さんとそれほど付き合いは長くない。微妙な表情の変化なんてわかるはずもなかった。
そんな目で見られる筋合いはないはずだ。……たぶん。
「それで、テストのことなんだけれど」
僕は半ば無理矢理、そう切り返す。
学生の本文は学業。風間さんのことから気を逸らすためにも、テスト勉強に打ち込んでみるのもいいのかもしれない。
「ねえ、今度の休日にみんなで勉強しない?」
こんなことで何がどうなるというわけでもないが、何もしないよりはましというものだろう。
さあ、帰ろう。そろそろ本格的に雨が降り出しそうだ。
◇
自宅の事実にて。
僕は机に向かっていた。
外はザーザーッと大雨が降っていた。言われた通り帰って来ていてよかった。
このどしゃ降りの様子を見るに、びしょ濡れになってしまっていたことだろう。
そうなると母さんに叱られる。
「……それにしても、よく降る」
僕は窓の外を見ながら、ぼんやりと呟いた。
机の上には、教科書とノートを広げていた。小早川さんにああ言った手前、多少なりとテスト勉強をしようと思ったわけだが、これが手に付かない。
そんなわけで、僕は形だけ勉強している風を装っているわけだ。
頭を中を、風間さんのことが占めていた。もしかしたら、これが恋なのかもしれない。
そんなバカなことを考えてしまうくらいには、僕はただぐるぐると同じ思考のループに陥ってしまっている。
風間さんと婚約者の女性。そして小早川さんと鳳さん。彼らの間に、一体何があったのか。
僕が口を出す筋合いではないことは重々承知しているけれど、だからといって知らん顔もできそうになかった。
本来であれば、僕は他人の問題に積極的に関わる人間ではない。
にもかかわらず、どうして僕はこれほどあの人たちのことを気にしているのだろう?
窓を叩く音がひどくうるさい。これもまた、僕の勉強を妨げている要因なのだと思った。
雨音がうるさいから気が散る。気が散るから、考えても仕方のないことを考えてしまう。
悪循環だ。これでは勉強が手に付かなくて当然だろう。
「……やめたやめた」
僕はカランッとシャープペンを投げ出し、ノートを閉じる。
このままダラダラと続けていても、ただ時間を浪費するだけだ。なら、さっさと見切りをつけてしまった方が幾分もいいだろう。
何をしてもうまくいかないことがある。そんな時にはやりかけていたことを全て捨て置いて、ただボーッとするに限ると僕は思っていた。
そうすると、なぜだかわからないけれど、頭の中がクリアになる気がするから。何も考えていないはずなのに、問題解決のための重要なアイデアが生まれたりするから不思議だ。
きっと、考えていないので意識の外の外のまた外側では、多くのことを考えているのだろう。
なんてことを想像しつつ、背もたれに体重を預け、天井を見上げる。
ボーッとする。ただ一点を見つめて。
頭の中を取りとめもなく雑多な光景が流れていく。
主だっては、学校生活のことだ。
教室、職員室、そして図書室。
いつもそこにいる、ひとりの先輩。そのほほ笑みが、僕を少しだけほっとさせてくれる。
「……先輩に相談してみようかな」
とはいえ、常識的に考えれば返ってくる答えは決まっている。
「どうしたものだろうか……」
ベッドに移動する。ボフンと体を投げ出すと、全身から力が抜けていくのを感じた。
ドロリと体がとろけていく錯覚に陥る。僕という存在がこの世から消失していくような。
僕は……何をしたいのだろう。なぜこんなにも心が揺れるのだろう。
ゆらりゆらりと湖面に現れる波紋のように、僕の内側は安定しない。
他人のあれこれに口を出すべきじゃない。そんなことはわかっている。
けれど、どうしてもこのままではいけないような気がしていた。
風間住吉というひとりの人間が、世界からいなくなるような、そんな気が。
「どうしたの? どこか具合悪い?」
頭上から声がかかる。声のした方へと視線を向けると、母さんがいた。
母さんは少し心配そうに僕を見下ろしていた。
視線が合うと、さっきまで感じていた全身がとろけるような感覚が消え失せていく。
「なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
僕は体を起こし、笑って母さんに答える。母さんは心配そうにしたままだったけれど、何も言わずに頷いてくれた。
「そう。……ごはんできたよ」
「……うん、わかった」
僕はベッドから立ち上がり、母さんに続いて部屋を出るのだった。
◇
雨は止まなかった。
僕は傘を差したまま、空を見上げる。
相変わらず、どんよりした曇り空はどこか鎮痛な気持ちにさせてくれる。
僕としては、今は晴れ間が見たいものだ。それでなくとも、ここ数日は気分が落ち込み気味なのだから。
「……僕はどうしたらいいのだろう」
相変わらずと言えば、小早川さんは例によって学校には姿を現していない。
東野さんは……表面上はいつも通りに見える。その心の内はわからないけれど。
きっと小早川さんだったらわかったのだろう。そう考えると、幼馴染というのはやり特別なのだろうと思う。
「どうしたの?」
後ろから声をかけられた。振り返ると、神谷先輩がいた。
先輩はいつもの微笑みを浮かべ、くるくると傘を回している。
「ええと……まあ色々ありまして」
そう返答すると、神谷先輩は微笑みを浮かべたまま、僕の脇を通り抜ける。
「いこ」
神谷先輩は一度立ち止まり、振り返ってそう言った。
僕は神谷先輩に続いて登校する。
先輩は教室には向かわず、校舎の端の方にある階段を昇っていった。その後を僕は追う。
二階の端に、図書室はある。先輩は図書室の扉を開けた。鍵は開いていた。
「……さあ、入って」
神谷先輩はそこがまるで勝手知ったる自分の家のように僕に入室を促す。
僕は何か文句を言うべきだろうかとも思ったけれど、何も言わなかった。
そうするだけの気力がなかったとも言える。
「座って」
僕たちは図書室の窓際のいつもの席に座った。
その際、ちらりと室内を見回す。しかし、司書の先生の姿はなかった。
鍵が開いていたということは、既にいるのだろう。姿を見たことはないけれど。
窓は開けなかった。もし雨が降り込んでしまったら大変だから。
「元気がないように見えるよ?」
「……そう、見えますか?」
僕はなるべく自分の内面を表に出さないように気を付けていたつもりだったのだけれど、先輩にはバレてしまっていたようだ。
「大丈夫? 話くらいなら聞くけれど」
「大丈夫……です」
忘れた方がいい。そんなことはわかっていた。
それでも心の中のもやは晴れなかった。
忘れることなんてできっこないのだから。
「それより、先輩」
「どうしたの?」
「先輩は……もし自分の大事な人が死んじゃったら、どうしますか?」
「……どうって言われても」
神谷先輩は困っていた。まあそれはそうだろう。
いきなりそんなことを訊かれても、そりゃあ困るというものだろうな。
「何があったのか、わたしにはわからないけれど」
先輩はそう前置きをして、少しだけ考え込んだ。
「……覚えていたいと思う」
「覚えて……?」
「うん。わたしは覚えてるよ。忘れないように、思い出の物をたくさん側に置いてね」
「思い出の物……」
そういえば、風間さんの経営している書店。なんと言っただろうか。
たしか『ささはら書店』だ。
不思議には思った。風間住吉なのだから、『かざま書店』と名付けた方がよかったのではないだろうか。
「ささはら……それがあの人の名前なのだろうか」
「ん? どうしたの?」
「ああ、いえ……なんと言いますか」
例の写真の人。あの人はおそらく、風間さんの婚約者だった人なのだろう。
彼がはめている指輪の、もう片方をはめるはずだった人。
「こっちの話です」
「……そっか」
先輩は少しだけ残念そうな顔をしていたけれど、それ以上深掘りしてこようとはしてこなかった。
ただ、僕たちの間にシンとした、どうにも居心地の悪い雰囲気が流れただけだ。
「と、ところで先輩、もうすぐ定期テストですね」
「あと一ヶ月くらいだね。どう? 自信はある?」
「ははは、どうですかね……まあやれるだけのことはやるつもりですけれど」
実のところ、勉強は全然手についていなかった。小学生時代でも、そこそこ勉強はしてきただけに、こういうことは初めてだ。
原因は、おおよそ想像が付く。きっと、風間さんの件が片付かなければ今度のテストの結果は惨憺たる結果に終わることだろう。
「どうしよっか。今日はわたしとここにいる? 何だったら勉強教えてあげてもいいよ」
「そうですね。それもいい……」
神谷先輩の魅力的な提案に、僕は頷いた。
正確には、頷きかけた。けれど、頷かなかった。
結果的に、だけれど。
「……あれは」
何気なく見た窓の外。眼下には校門が見える。
そして校門の脇に、黄色いレインコートをまとった人影を見付けた。
どうやら、学校の中を覗き込んでいるようだ。覗き込んで、入ろうかどうか迷っている風だった。
小さな女の子だと思われる。女の子、と思ったのはなんとなくだ。
最近、小さな女の子と知り合ったからだろう。長い金髪がよく映える、可愛らしい子だった。
言葉が通じなかったことだけが悔やまれる。名前はメアリだということは知っていた。
メアリと意思疎通を図るためにも、勉強はしなければならないのになあ、なんて考える。
「誰か探してるのかな?」
神谷先輩ま窓の外を見下ろしながら、首を傾げていた。
僕は先輩から再びレインコートの女の子(たぶん)へと視線を戻す。
「そうだと思います。……でも」
そろそろ授業が始まる時間帯だ。校門はしまっいたが、おそらく女の子の背格好なら隙間からくぐり抜けて入っては来られるだろう。
そうしないあたり、いい子なのか。それともただ警戒心が働いているだけなのか。
いずれにせよ、あのままにしておくわけにはいかないだろうなあ。
「どうしましょうか?」
「……真壁君、ちょっと行って様子を見て来てよ」
「僕……ですか?」
先輩が行けばいいのに、と言ってしまいそうになったが、無駄なので言わなかった。
「……わかりましたよ」
僕は立ち上がり、図書室を出る。まだ教師もあの子の存在に気が付いていないようだったというのもある。
本来なら、先生に相談するべきなのだろう。
もちろん、必要ならそうするけれど、とりあえずは行ってみることにした。
もし説得してひとりで帰ってくれるのならそれでよし。ダメな時はその時先生に言おう。
あの子もいきなり大人に出て来られるよりはいいだろう。
「じゃあ、行って来ますね」
僕は図書室を出た。出てから、階段を下りる。
降りながら、ぼんやりと思い出す。先日、風間さんの自宅兼店舗でのことを。
あの時は、どういう言動をしたのだったか。
確か、メアリに付いて観察していたのだと記憶している。つい最近のことだというのに、記憶がぼやけてしまっているのがなんとも気持ち悪い。色々と混乱することが多々あったからだろう。
階段を降りきると、廊下に出る。広くもなく狭くもなく、きっと一般的な学校の廊下とはこういうものだろうと思わせるような廊下だった。
つまりは一般的な学校の廊下なわけだ。
僕はそんな一般的な廊下を歩き、下駄箱へと向かう。幸いにして、誰にも見付からなかった。
以前はかなり苦労した記憶があるのだけれど、まあそれはいいか。
ともかく、僕は下駄箱から靴を取り出して、履き替える。雨が降っているので傘を持って行きたいが、ぱっと見て自分の傘がどれかわからなかった。
確か黒い、何の面白みもない傘だったはずだが、そんな傘はいくらもあった。
だから、 まあ一番手前にあった傘を失敬した。それは僕の傘とは似ても似付かない派手な色合いの傘だったけれど、まあすぐそこまでなので大丈夫だろう。
僕は傘を差して、外に出る。どしゃ降りというほどでもないが、まあまあ激しく降っていた。
校舎を出て、校門へと向かう。すると、相手は僕に気が付いたようだった。
気が付いたのだけれど、どこかうろたえたようにきょろきょろと周囲に視線を巡らせていた。
何をしているのだろう?
「どうしたの? 大丈夫?」
声をかけると、その子はびくりと肩を震わせた。なんだか変質者になった気分だったが、どちらかというと異質なのはこの子の方だろう。
黄色いレインコートのその子はフリーズしてしまったのだろう。身じろぎもせず、じっとしていた。
時間にしておよそ数秒から長くても数十秒といったところだろうか。
何にせよ、黄色いレインコートの子共はゆっくりと僕の側に近寄ってきた。
「ええと……どうしたんだろう?」
僕は腰を曲げ、少し目線を下げ、その子に訊ねる。雨が降っていなかったらもっとしゃがんでいたかもしれないが、今はこれが精一杯だった。
黄色いレインコートの子供が、顔をあげる。なんと、その顔には見覚えがあった。
メアリだ。黄色いレインコートの正体はメアリだった。
彼女はその大きな瞳で、何かを訴えるように僕を見つめてくる。
「……困ったな」
なぜメアリがこの場にいるのかはわからなかった。さりとて、このまま放って置くわけにもいかない。
僕はどうしたものかと思案を巡らせる。
うーん……とりあえず学校に連れて行くか。
そう結論付け、僕はメアリに校舎を指示した。
「とりあえずこっちに」
と言ってはみたものの、おそらく通じていないだろう。
何せ、メアリは異国の人。日本語を解することができないと思われた。
かくいう僕もメアリの使う言葉を理解はできないのだけれど。
こういうイレギュラーな事態が起こった時、意思疎通ができないのは困ったものだ。
僕はメアリを手招きして、校舎へと案内する。
そっと様子を見ながら、こそこそと移動していく。階段を昇り、図書室を目指す。
移動していく最中、どきどきと鼓動が高鳴っていた。もし見付かったら、なんて言い訳をしたらいいのだろう。
チラリと背後を見やる。すると、メアリの通った後が水浸しになっていた。
考えてみれば、当たり前だった。今まで雨に打たれていたのだから。
僕は立ち止まり、頭を悩ませる。メアリも足を止め、不思議そうに僕を見上げてきた。
「あー……ええとね」
なんと言ったらいいのかわからなかった。というか、意志疎通が難しい。
せめて簡単な日本語とかわかってくれればいいのだけれど。
途方に暮れた気持ちで、天井を仰ぐ。
「……よし」
考えた末、神谷先輩に相談してみることにした。
トントン、とメアリの肩を叩く。校舎の奥にある階段を指差し、そちらへと案内する。
それにしても、一体こんなところで何をしているのだろう。
まさか、ひとりで来たわけでもないだろうに。
「……君ひとり?」
階段を昇っている時間が気まずくて話しかけてしまう。
無駄だとはわかっていた。それでも、黙々と足を動かすだけなのは辛かった。
もちろん、メアリからの返答はなかった。だだ不思議そうに首を傾げていただけだ。
「先輩、今戻りました」
僕はメアリを伴って、図書室へと戻って来た。
「待って!」
という神谷先輩の声に、僕とメアリはピタッと足を止めた。
何なのだろう?
「そのまま入って来ちゃだめ」
なぜ? と疑問に思ったけれど、謎はそぐに溶けた。
背後を振り返ると、レインコートから雨粒をしたたらせているメアリと目が合ったからだ。
なるほど、これか。
さて、先輩の言葉の納得はした。それはそれとして、だ。
「……わかりました。ところで神谷先輩」
「な、何?」
「……どこにいるんですか?」
姿が見えなかった。僕がメアリを迎えに行く直前までは確かにいたのに。
声は聞こえているから、おそらく図書室のどこかにいるとは思うのだけれど。
「わたしは大丈夫だから」
「大丈夫って……」
何が大丈夫だというのだろう。そのまま会話することがだろうか。
まあなら、僕としては否やはない。特別困るというようなこともないわけだし。
「先輩、ちょっとお願いがあるんですけれど」
「わ、わたしにお願い? 無理だよ」
「返事が早い」
そして否定。判断が光の速度だった。
「そう言わずにお願いします。引き受けてください」
「……とりあえずお願いの中身を教えてくれる?」
もちろんだ。それを言わずして何も前に進まないだろう。
と、僕はそこで言葉を詰まらせた。
待てよ……ここで先輩にオーケーをもらえなければ、全てがお終いになってしまうのだろうか。
メアリが何を考えてここに来たのか。それを知る術はなくなってしまう。
僕はちらりとメアリへと視線を向けた。
鳳さんと風間さんだったら、メアリの言葉がわかるかもしれないのだけれど。
でも、それではダメだから、この子はわざわざここに来たのだとしたら。
僕に何か、助けを求めているのだとしたら……。
「……もしかしたら、それは真壁君にとってよくないことかもしれないよ」
どこからともなく、神谷先輩の声が聞こえてくる。
僕にとってよくないこと。それは一体、どういう意味なのだろうか。
もしかすると、先輩には何かがわかっているのかもしれない。なにせ神谷雫という人には、秘密があるから。
それは、今のところ先輩と僕だけが知る秘密だ。学校では、だけれど。
「でも、それでも――見捨てるわけにはいかないじゃないですか」
僕はメアリを見下ろして、意識的にほほ笑んだ。そうすることが、何だか必要な気がしたから。
雨で濡れて、すっかり冷えてしまった彼女の心を温めるには。
続。
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