第十話 君ともう一度会えたら。

『ささはら書店』の看板が見えてきた。

 僕はその看板を見て、ふむ、と息を吐く。

 ここまでの道のりはそれほど長くはなかった。せいぜい一駅分だ。

 とはいえ、今は平日の昼間。制服姿の中学生がふたりに大きな荷物を背負った女性がひとりという構成は、異様に人目に付いた。

 僕以外のふたりは目立つことには慣れているのか、それとも抵抗がないのか、平然としたものだった。すごいなぁと感心したものだ。

 僕は他ふたりのように心臓に毛が生えていないので、戦々恐々としていた。

「はぁー、やっとたどり着いたよ」

 大きな荷物を背負った女性は疲れたという表情で肩を落とした。

 まあここまでの道のりは確かに長かった。

 物理的な距離は短かったけれど、なんだかすごく長く感じたのだ。

「それにしても、本当に小早川さんはここで働いているの?」

「なんだよ……わりーかよ」

「いや、悪いっていうか……」

 意外というか似合わないというか。正直本と小早川さんの組み合わせがおかしいというか。

 ……口が滑っただけというか。

「ま、ようやく着いたわけだし、さっさと行こう」

 大きな荷物を抱えた女性は店の入り口に立つ。僕たちも彼女に続いた。

 彼女の隣には百円均一という手書きの紙が貼られたワゴンがあった。

「ごめーんくださーい」

 女性は店の奥に向かって叫ぶ。すると、男の人の声が聞こえてきた。

「はーい、いらっしゃいませー」

 という言葉とともに、奥から男性が顔を出した。

 この人が『ささはら書店』の店主なのだろう。

「君は……」

 男性はまず女性の抱えている大荷物を見て(電車内でもジロジロ見られていた)それから女性へと視線を向ける。

「よう、久しぶりだね」

「ええと……ああ、久しぶり」

 男性は驚いたような表情から、少し泣き出しそうな、嬉しそうな、なんとも言えない表情になった。

「手紙の通りだね。予定より遅かったから来ないのかと思っていたのに」

「あははは、そんなことがあるはずがないだろう。私が約束を破ったことがあるかい?」

「そうだったね。君はそういう人間だった」

 本当に久しぶりの再会なのだろう。ふたりとも楽しそうに会話をしている。

 それはそれとして、だ。

「おい住兄」

「ん? 樹里ちゃん? なんでここにいるんだろう?」

 住兄と呼ばれた男性は首を傾げる。が、すぐにハッとしたような表情に変わった。

「まさか……ダメだよ、学校にはちゃんと行かないと」

「行ったに決まってんだろ! つかこいつを連れて来たのはあたしたちだ!」

 小早川さんは声を荒げ、大きな荷物を抱えた女性を指差した。

 指は……差さない方がいいのでは。

「ああそうだったのか。……あたしたち?」

 店主の男性は再び首を傾げる。そしてようやっと、僕を見た。

「……あ、どうも」

 僕は男性に向かって会釈する。

「ああ、君も付き合ってくれたんですね。すみません」

 店主の男性は申し訳なさそうに頭を下げた。

 僕はそんな彼に、慌てて手を振る。

「えと、あの……なんと言いますか……」

「この度はボクの友人と妹がご迷惑をおかけしまして」

「大丈夫、大丈夫ですから」

 そこまでかしこまれると、僕としても困ってしまう。

 後ちょっと気になる発言があったのだけれど。

「妹って?」

 親戚だと聞いてたのだけれど。

「ああ、まあなんと言いますか……妹みたいなものですから」

「なるほど」

 まあ親戚なら、そんなこともあるのか。

 僕は店主の男性の言葉に、納得した。そもそも僕は部外者だし。

 僕がわたわたとしていると、ふと視界の隅に光何かが映った。

 なんだ? と思ってじっとよく見る。男性の左手の薬指にそれはあった。

 指輪だ。無駄な装飾の全くない、簡素な指輪。

「ええと、結婚しているんですか?」

「ん? ああ、これですか?」

 店主の男性は自分の左手の薬指を見やる。

 正確には、そこに嵌められている指輪を、だけれど。

「これは……結婚はしていません。これは婚約指輪なんです」

 優しく、そしてどこか悲しそうにそう言う店主の男性の言葉に、僕は二の句が継げなかった。

 まずい話題を選んでしまっただろうか、と後悔する。

「すみません、言いたくないことだったら……」

「大丈夫ですよ。ただまあ……そうですね、あまり他人に話すようなことではないことは確かです」

 やはり地雷を踏んでたようだ。取り返しの付かないことになる前に気付けてよかったと胸を撫で下ろす。

 そうして気まずい空気が流れている僕と彼との間に、大きな荷物を下ろした女性が軽快な言動で割って入ってくる。

「ところで、メアリは来てないのかい?」

「……メアリ? それは誰だろう?」

「あー……そうだな。ええとな、こう、ふわふわとしていて、きらきらしている子供なんだけれど」

 なんだその訊き方は。ふわふわとかきらきらとか、本当に人間に対して使う言葉なのだろうか。

 そんな訊ね方では、いくら旧知の間柄とはいえわからないのではないだろうか。

 なんて僕の心配は、杞憂だった。

「ああ、その子なら奥にいるよ。おやつをあげているんだ」

「おお、それはありがたいことだね。すまないね、住吉君」

 なんであの説明で理解できたのかわからなかった。

 さすがは友人といったところだろうか。

 それはともかく、話題を挿げ替えるチャンスが来たことにほっとした。

「住吉さんって名前なんですか?」

「そうですよ。ボクの名前は風間住吉」

「へぇー……てっきりささはらさんなのかと思ってました」

 だって店の名前が『ささはら書店』だし。

 という僕の無邪気な言葉に、またもや場の空気が凍ってしまった。

 ええ……これもあまり触れちゃいけない部分だったのだろうか。

 僕はそのことを敏感に感じ取り、慌てて別の話題を探すべく頭を巡らせる。

「そ、そういえばメアリさん? ってどんな人なんですか?」

 おやつをあげているとか言っていたけれど、大人……なんだよな。

 なんとなく疑問に思えてきた。どんな人なんだろう?

「ああ、メアリはね……まあ見てみればわかるさ」

 彼女は風間さんに断りもなく、店の奥へと入っていく。

「あっ……そんな勝手に」

「いいんだよ、彼女はああいう人だからね」

 風間さんは朗らかな笑顔のまま、首を振る。

 その姿は、ある意味においては諦めの境地に立っている気がする。

 まああの女性の態度を見ればわかるけれど。

「おら、あたしたちも行くぞ」

 小早川さんも店の奥へと入っていく。小早川さんは……まあいいのか?

 親戚だし。

「じゃあ、君もあがっていってください。……ああそうだ」

 風間さんに促され、僕も店に入ろうと足を踏み出した。

 直後に呼び止められ、振り返る。

「君の名前をまだ聞いていなかったですね」

「ああ、そういえば……すみません」

 自分は聞いておきながら、名乗ってなかった。

「僕は真壁陸といいます」

「真壁君ですね。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします……?」

 さてどういう意味なのだろう。もしかして営業された?

 何にしろ、とにかく今は店に入ろう。

 僕は愛想笑いとともに『ささはら書店』に足を踏み入れた。

 風間さんに案内されている最中に、僕はふと思い出したことを口にする。

「そういえば、あの人の名前をまだ聞いてなかったです」

「……え?」

「いやだから、名前聞いてないなって……」

 風間さんは相変わらず笑顔だったのだけれど、心無しかあきれているように見えたのは、たぶん僕の気のせいだったのだろう。

「全く……彼女の名前は鳳萌華おおとりほうか。見ての通りの変人です」

「え、ええ……まあなんとなくはわかります」

 なんとなく、というかがっつり変人なのだけれど。

「それにしても、本当にありがとうございました」

「あ、いえ……僕は大したことは――」

 していません、と言おうとして、出かかった言葉が喉で止まった。

 思い返してみると、割と色々お世話を焼いた気がする。大変だった。

「疲れた顔をされていますね。……本当に申し訳ありませんでした」

「ああ、いや別に風間さんが謝ることじゃ……」

 本当に申し訳なさそうな表情をしている風間さんに、僕の方こそ申し訳ない気持ちになってしまう。

 想像してみてほしい。成人した友人の落ち度で申し訳ないと謝る大人。

 これほど心をえぐるものもそうそうないのではないかと思われる。

 風間さんがそんな心境だからなのかわからないけれど、ポツポツと空から雨が降り出してきた。

「おお、まずいです。すみませんが、ボクは表に出してきた本をしまってきます」

「はい。わかりました……」

 表に出してきた本とは、あの百円均一と書かれた紙の貼ってあったワゴンのことだろう。

 確かに本にとって濡れることは致命的だ。店の商品というのなら、なおさら。

 ということで、僕はひとりで店の奥へにいるであろう小早川さんと鳳さんのところへ向かうことになった。

 まあまあ大きな建物だ。とはいえ、別になんらかの施設というわけではない。

 店舗になっているエリアを抜ければ、民家と同様だ。迷う余地など微塵もない。

 ない……はずなのだけれど。

 僕は迷っていた。迷路のように入り組んでいるというわけでもなく、普通の家のはなのに。

 小学校低学年の頃に遊びに行った友達の家が、こんな感じだった。

 シンプルな構造のはずだ。

 でも、見知らぬ他人の家ってなんでこんなに迷いやすいんだろう。

 不思議だ。

「それにしても……ふたりはどこにいるんだ?」

 僕は完全に迷ってしまった。どうしよう。

 悩みつつ廊下を歩いていると、ふすまで閉じられた部屋の前で立ち止まった。

 声が聞こえたのだ。幼い少女の声だった。

 澄み切った声だ。何を話しているのだろう。

 ふすまの奥から漏れ聞こえてくるのは、明らかに日本語ではなかった。

 なんだろう……?

 僕は好奇心に駆られ、ふすまを開けようとして、思いとどまった。

 勝手に他人の自宅の部屋を漁るのはよくないよね。

 なんてことを思いつつ、じっとふすまの奥に耳を澄ませてみる。

 話し声……というより、誰かがひとりで喋ってる?

 どう、しよう……開けてしまおうか。いや、でもなぁ。

「……ええい、ままよ」

 僕は意を決してふすまを開けたのだった。

 誰だ、誰がいるんだ。

 僕はその先にいる人物のことを想像し、期待を膨らませていた。どんな人がいるのだろう、と。

 しかし、誰もいなかった。がらんどうとした室内は、静かなものだ。

「……ええと」

 あったのは、目の前の簡素な仏壇だけだ。

 遺影とも言えないような、写真立てに入れられた写真。線香の香りが、鼻を抜けていくのがわかった。

「これは……」

「……ああ、こんなところにいたんですか」

 声をかけられ、僕はビクッと肩を揺らした。

 声の主が風間さんであることは明らかだった。そして勝手にこんな場所にいる僕。

 これは間違いなく怒られるだろう。そう思った。

「えっと……これはあのですね」

 僕はだらだらと汗を掻いてしまっていた。一生懸命に言い訳を考える。

 考えて考えて、そしてピンッと思い付いた。

「み、道に迷ってしまったんです」

 ついさっき、自分で家の広さの描写をしておいてこんな台詞を吐くとは、説得力に欠けるというレベルの話ではなかった。

 もう明らかに嘘を吐いてこの場を乗り切ろうとしているように風間さんには映るだろう。そしてそれは事実であることが悲しいことだ。

 悪手であると自覚しつつも、今さら吐いた言葉は取り消せない。

 僕は風間さんからの沙汰を待ちつつ、体を硬直させる。

「別にボクは怒ってなんていませんよ。だから大丈夫です」

 風間さんは僕の頭をポンポンと軽く撫でてくる。

 罪悪感を抱きながら、僕は風間さんに連れられてその部屋を後にした。

 それにしても、あの話声はなんだったのだろう。それだけが気がかりだ。

 振り返り、遺影を見る。

 写真の中の彼女は、悲しげに微笑んでいた。

 

 

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 風間さんに案内されたのは、少し広めの部屋だった。

 畳の敷かれた床に足の低い大き目のテーブルが鎮座している。

 普段はここで食事をしたりしているのだろう。客間としても機能しているらしい。

 僕は風間さんに促され、小早川さんの隣に正座した。

 ちなみに小早川さんは胡坐に頬杖という格好で僕を睨んでいる。……なんで?

 隣に座ったのがいけなかったのだろうか。でも、風間さんと鳳さんは既に対面に並んで座っているわけで。

 この状況なら、これが一番自然なのかなと思った次第なのだけれど、違ったらしい。少なくとも小早川さん的には。

 それはともかくとして、だ。

「それでは、改めてお礼を言いたいと思う」

「……ちょっと待ってください」

 鳳さんが切り出したので、僕は遮るようにして言葉を挟んだ。

 そうすると鳳さんは訝しむようにして眉間に皺を寄せている。

 けれど、しょうがないだろう。

 鳳さんの膝の上にいる、小さな女の子が気になって仕方がないのだから。

 僕は鳳さんから、その女の子へと視線を移した。

 ビクッと、女の子が身を固くする。別にいじめてやろうというつもりはないのだけれど。

 怯えたように、鳳さんの胸に顔をうずめる女の子。

 小早川さんが僕の脇腹を小突いてくる。

「何やってんだ、おまえは」

「別に何もしてないんだけれど」

 小さな女の子と相性が悪いのだろうか。ちょっとショックだったりする。

「その子は……?」

「ん? ああ、紹介がまだだったね。この子はメアリだよ」

「メアリって……」

 鳳さんがはぐれたとか言っていた、しっかりした知り合い。

 こんな小さな子だったのか。

「では、改めて。わざわざ私をここまで連れて来てくれてありがとう」

 鳳さんが頭を下げる。彼女の腕の中にいた女の子――メアリも続いておずおずと頭を下げた。

 僕としては、どう返事をしたものか迷ってしまう。こんなことは初めてだから。

 僕の十余年の短い人生において、こうして大人(見た目は)からお礼を言われた時の対処法を学ぶ機会はなかったからなぁ。

 という次第で、あたふたしてしまう。ちらりと、助け舟を求めて風間さんへと視線を向けた。

 僕はどうしたらいいんですか……!

「あはは、まあとりあえず、これでも食べてください」

 風間さんは僕の視線をどう受け取ったのか、手元にあったお茶菓子を僕の方へと差し出してくる。

 いや、今はお茶菓子なんてどうでもいいのですけれど!

 今度は小早川さんの方を見てみた。相変わらず怒ったような顔で、鳳さんを睨んでいた。

 そんな小早川さんの苛立った視線が、僕の方へと向けられる。

「……んだよ!」

「なんでもない、けれど」

 ダメだ。あっちもこっちも、この状況に対する正解を教えてはくれないらしい。

 それにしても、なんだろう……どこかで見たことがあるような気がする。

 どこだっただろう? 思い出せない。

 そう思って、眉間に皺を寄せて考え込んでいると、コツっと軽く頭を殴られた。

 誰だろうと思ったところで、小早川さんしかいないと思い至った。

「何を睨んでんだよ」

「いや、睨んでたわけじゃ……」

「睨んでただろ。見てみろよ」

 小早川さんに促され、僕はメアリを見やる。……怯えていた。

 なんでだろう……そんなに怖い顔してただろうか。

 小早川さんの方がよほど怖い顔をしていると思うんだけれどなぁ。

「おまえ、何か失礼なこと考えてるだろ」

「いや……何も考えてないよ」

 本当だよ。

 小早川さんは怪しんでいるらしく、ジロリと僕を睨み付けてくる。

 ほら、怖い顔をしているのはどっちだって話だよ。

「まあまあ、落ち着いて。ボクからもお礼を言わせてください。ありがとう」

「いや、僕は別に……」

 大したことはしていない、とは思ってはいないが。

 今回の件で風間さんはほとんど関わっていない。そんな彼に頭を下げてもらうことは僕にとってすごい罪悪感があった。

「あの……それで、その子は」

 話を逸らしたくて、僕はメアリに水を向ける。やはり、ビクッと肩を震わせ、怯えたように鳳さんにしがみ付いていた。

「この子はね……まあ私が海外を放浪している途中で拾った子なんだ」

「それは……」

「不幸な身の上なのだよ。詳細なことはこの子の名誉のためにも言わないけれど」

 鳳さんがメアリの頭を優しくなでている。メアリはそれで多少落ち着いたのか、少し表情がやわらかくなったようだった。

「さて、ではそろそろ学校に戻った方がいいですね。ふたりとも、送って行きましょう」

「住吉君は店があるだろう。どれ、私が行こう」

「ダメに決まってるでしょう。君はここまで彼らに迷惑をかけた立場だということがわかっていないのかい?」

 風間さんが鳳さんの提案を即座に却下する。

 まあここまでの彼女の言動を鑑みるに、風間さんの言い分も一理ある、か?

 いずれにせよ、これ以上の長居はできないだろう。

 学校にも、戻らないといけないわけだし。神谷先輩も心配するかもしれない。

 そういえば、神谷先輩は今頃どうしているだろう。図書室にいるのだろうか。

 僕はふと、図書室登校とかいう謎の行為をしている先輩のことを思い出した。

 不幸といえば、神谷先輩はどうして図書室登校なんてしているのだろう。

「何を考えているんですか?」

 風間さんに問われ、僕は首を傾げた。

 彼の優しげな笑顔が、僕には少し陰りのあるもののように見えた。

 風間さんに促され、僕は立ち上がる。

「……もし、真壁君に大切な人がいるのなら、一緒にいる時間を大切にしてください」

「? ……どうして……」

「どうということはありません。ただ、人生の先輩としてのアドバイスです」

 不思議なことを言う人だ。

 ただ、風間さんに言われてぼんやりと頭の隅で考える。

 大切な人か。僕にとって、大切な人って誰だろう。

 家族、友人はまあ大切な人たちだ。

 では神谷先輩はどうだろうか。

 大切、といえば大切な人だとは言えなくもない。でもなぁ。

 なんてぼけーっと考えていると、トントンと肩を叩かれた。

「それでは、そろそろ行きましょうか」

「あっ……はい」

 僕は風間さんに続いて廊下に出る。

 出た……ところで、何の気なしに背後を振り返った。

「……なんだよ、コラ」

「あっと……いや、まあね」

 終始不機嫌そうな表情のままだった小早川さんに胡坐のまま睨み付けられ、僕は視線をさまよわせた。

 そんな僕の隣で、風間さんが困ったような顔をしていた。

「樹里ちゃんもだよ。ちゃんと学校行かないと」

「あたしは別にいいよ、学校なんて。後樹里ちゃんって呼ぶな」

「ダメだよ。というかこんなことがバレたら怒られるのはボクなんだから」

「なんで住兄すみにいが怒られるんだよ」

「それはそうだろう。ボクはこれでも大人だからね」

 風間さんは肩をすくめ、やはり微笑んでいる。小早川さんの視線に怯えた様子はなかった。

 そりゃあそうだろう。親戚なら、まあこんなものかもしれない。

「ほら、立って。学校は大事だよ」

「なんでだよ。勉強なんて将来何の役にも立たねぇだろうが」

「そんなことはないさ。勉強は大切だよ」

「……説得力がねぇんだよ、アンタの言葉は」

 小早川さんは目を細めて、反論する。

 明らかに苛立っていた。……言いたいことはわかるけれど。

「樹里ちゃんも大人になればわかるよ」

「だからその樹里ちゃん・・・・・ってのを止めろって言ってんだろ!」

 小早川さんはダンッとテーブルを力一杯叩いて、勢いよく立ち上がった。

 視界の端で、メアリがびくりと肩を震わせ、僕の時以上にカタカタと怯えていた。鳳さんがそんなメアリを優しくなだめている。

「そう大声をださないでくれ。メアリがびっくりしてしまうだろう?」

「……チッ」

 小早川さんは舌打ちをすると、風間さんの脇を通り抜け、店から出て行ってしまった。

 僕はといえば、そんな小早川さんを目で追うくらいしかできなかった。

「……すみません、真壁君。お見苦しいところをお店しました」

「あの……僕は別に」

 大丈夫、と言えば嘘になる。

 けれど、じゃあなんともないのかと問われればそれも嘘になってしまう。

 結局、どちらを選んでも僕は嘘を吐くことになってしまうのだから、ここは黙っているのが正解なのだろう。

 ここまで付いて来ておいてなんだけれど、赤の他人の僕がどうこうする問題ではない気がするから。

「じゃあ行きましょうか。もし先生と鉢合わせしてしてしまったら、ボクから事情を説明しますね」

 風間さんはにこりと微笑むと、歩き出す。

 僕は彼の後に続いた。廊下を歩いていると、ふと先ほど遺影があった部屋のことを思い出した。

 そこで誰かが話しをしていた気がしたのだけれど、あれは結局なんだったのだろうか。僕としては、気になるところなのだけれど。

 気になると言えば、小早川さんのこともそうだ。

 いくら親戚だからってあの態度はないだろう。ちょっと横暴だ。

 そう思って、風間さんの表情をうかがう。けれども、彼は特に気にした様子はなく、穏やかな表情のままだった。

 日常茶飯事、ということなのだろうか。

 一緒に働いているにしては、ずいぶんと仲が悪い。

 僕はそのことを不思議に思いつつ、風間さんの後に続いてその場を去るのだった。

『ささはら書店』――今後この場所を訪れることは、ないだろう。

 

 

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 学校に戻ると、僕は真っ先に教室……ではなく図書室へと向かった。

 別に教室でもいいのだけれど、なんとなくこちらに足が向いたのだ。

 今が授業中であることは、特に関係がない。

「という次第でありまして」

 図書室には神谷先輩がいた。いつも通りに。

 僕は神谷先輩にここまでのあらましを話した。これもなんとなくだ。

 誰かに話してしまいたかった。

 不思議な女性の話。金髪の女の子の話。小早川さんの横柄な態度の話。

 何より『ささはら書店』の店主である風間住吉さん。

 彼が何を抱えているのか。神谷先輩なら、きっとその一端だけでも教えてくれるのではないかという期待もあった。

 先輩は困ったように眉間に皺を寄せ、微笑んでいた。

 それをわたしに話されても困る、とその目は語っていた。

 神谷先輩は黒縁眼鏡の奥の瞳を伏せ、しばし考える。

「……小早川さんが何を考えていたのかはわからないけれど」

 そう前置きして、先輩は語ってくれた。

 鳳さんでもメアリでも風間さんでもなく、小早川さんのことを。

「たぶん、腹が立った……んだと思うよ。その風間さんって人に」

「風間さんに? でも……」

 風間さんのあの店の主だ。そしてアルバイトをさせてもらっている人だ。

 加えてあの優しい人柄と柔らかな物腰。腹を立てる要素があるだろうか。

 それとも、僕にはわからないだけで、何かあったのだろうか。腹を立てるところが。

「……難しいですね」

「そうだね。難しいね」

 言って、やはり先輩は困ったように笑っていた。

 やはりというか、先輩は僕の求めている答えを教えてはくれなかった。

 あるいはと思ったのだけれど、それは僕のわがままでしかない。

 僕はこの話題を取りやめることにした。代わりと言ってはなんだけれど、別の話題を振ってみた。

「ところで、僕ってこの後どうなりますか?」

「どうって?」

「このまま教室に戻って、しれっと次の授業から出席しても大丈夫ですかね?」

「どう……だろう。たぶん大丈夫だと思うよ」

 そういう神谷先輩の声音は、先ほど小早川さん周りの話をした時と比べ、若干明るかったように思われた。

 ああいう話は、やはりあまり得意ではないらしい。

 先輩とはあまり長い付き合いとはいえないが、まあそれなりに理解しつつあるつもりだ。

 その神谷先輩がこう言うのだから、仕方がないのだろう。

 こればかりは今日明日どうにかなる問題でもないということなんだろうか。

「それで、僕は一体どうしたらいいんでしょう?」

「どうしたらって……そうだね」

 神谷先輩は小さく溜息を吐いた。

「どうしようもないことだと思うよ。他人がとやかく言うことじゃないからね」

「まあ……そうですよね」

 僕は先輩の言葉に同意した。同意、するしかなかった。

 先輩の言っていることは正論で、僕には反対できるだけの論理がない。

 こんな時、父さんだったらなんて言っただろう。

 僕は天井を見上げ、考えても仕方のないことを考える。

 ……父さんのことは、一旦忘れよう。それでなくとも、今は大変なのだから。

「僕がとやかく言うことじゃないってことはわかってるんですよ」

「だったら、今は見守るしかないよ」

「……ですよね」

 見守るしかない。本当にその通りだ。

 所詮、僕は赤の他人でしかない。その僕が割って入ったところで、いい結果に転がるなんて微塵も思えなかった。

 おそらく、中学生という立場になかったら小早川さんが『ささはら書店』でアルバイトをしていることもなかったんだろうな。

 そう考えると、全く義務教育というのは不自由な立場だと思う。

 早く大人になりたいものだ。

「……それじゃあ、僕はそろそろ行きますね」

「ん……午後の授業から参加するの?」

「はい。遅刻した手前行きづらいですけれど」

「そうだね。じゃあまたね」

 神谷先輩が小さく手を振ってくる。僕は振り返して、図書室を後にした。

 司書の先生の姿は見えなかった。

 

 

            3

 

 

 それから二日ほど、何事もなく過ぎていった。

 まあそれがいいことなのは明白なので、それでいいんだけれど。

 それでも、なんだか気になる。特に小早川さんのことが。

「…………」

 僕は教室へと顔を出す。ざわざわとしていた室内が一瞬静かになったけれど、すぐにまた喧噪が戻っていった。

 そろそろ授業が始まるはずだけれど、小早川さんの姿はなかった。

 どうしたものだろう、と僕は溜息を吐く。

 絶対にあのことが原因だ。先日の『ささはら書店』での一幕が。

 僕には関係のないことだけれど、そう言ってしまえればどれほど楽だろう。

 知らないままでいれたなら、こんな気持ちにもならなかったんだろうなと思うと後悔の念が押し寄せてくる。

 そんな感じで僕が頭を搔いていると、僕の席の正面にとある人物が現れた。

 僕は顔を上げ、その人物を見上げた。

 東野さんだった。

 東野祈――美術部所属の女子。ちょっと変わった人だ。

 あまりしゃべったことはないけれど、以前に小早川さんからお願いされて彼女を取り巻く問題に首を突っ込んだことならある。

 要するに、小早川さんと東野さんは親友にあたるわけだ。

 その東野さんがじーっと、僕を見つめてくる。

 見つめて……というか睨み付けてくる。……なんで?

「えと……何か用事だった?」

 いくら待っても何も言わないので、諦めて僕の方から話題を振ってみる。

 大方の予想は付いていた。おそらくは小早川さんのことだろう。

 あの日以来、あまり付き合いのない僕から見てもおかしな点が多々あった。

 まず学校に姿を現さなくなった。これまでは、遅刻することはあっても一日サボるといったことは滅多になかったように思う。

 くわえて、悪い噂が目立つようになった。

 とはいえ、これは未確認情報だ。

 目撃情報としては肩口までのショートカットに猛獣のような獰猛な目付き。

 何より、高校生以上の男子数人に囲まれても無双する鬼神のごとき喧嘩力。

 本当に中学生女子かと言わしめるようなその暴れっぷりはまさしく小早川さんだと言わざるを得ないだろう。

 何かバトル漫画の登場人物のようだな、これだけを並べると。

 バーサーカーかよ。……なんて思ったりもする。

 もちろん、これらはただの噂だ。話に尾ひれが付いていたりするかもしれないし、何だったら全く別人の可能性もある。

 というか別人だったらいいな。そんな悪鬼羅刹が知り合いだなんて思いたくない。

 そしてそんな親友の蛮行を、東野さんが知らないはずはなかった。

 たぶんそれに付いて僕に話を聞きたいのだろう。だが、僕も詳しく知っているわけじゃあない。

 おそらく、東野さんの知っている以上の情報は僕からは得られないだろう。

「あの……小早川さんのことだったら僕は何も知らないからね」

 東野さんがじっと僕を睨み据えたまま動こうとしないので、機先を制す意味合いも込めて先に言ってみる。

 けれど、それでも彼女は眼前で僕を睨んでいた。

 ええ……どうしたらいいんだろう。……困った。

 僕は助けを求めて、周囲を見回す。すると、クラスメイトの何人かと目が合った。

 合った、のだけれど、すぐにふいっと逸らされてしまう。

 面倒事のにおいがぷんぷんしているのだろう。まあ気持ちはわかる。

 わかるんだけれど、今は助けて欲しかった。僕ひとりで処理させようとしないで。

「……噂だけれど、小早川さんは喧嘩に明け暮れているらしいよ」

 隣町の不良チームを解体させて子分にした、なんて話もあるくらいだ。

 これも未確認。ただまあ、あの日からこうした噂話が増えたことは事実だ。

 全くの無関係というわけでもないのではないかと僕は睨んでいた。

 だからなんだ、という話なのだけれど。

「……知ってる」

 東野さんはぼそっとそう言った。

 ああ……知ってるんだね。ならよかった。

 僕は東野さんの言に対して、返答に窮してしまった。

 その噂を知っているというのなら、僕から伝えることはないように思うのだけれど。

「なら、他に何か?」

「……お願いがあるの」

「お願いって……?」

 僕が訊き返すと、東野さんは言葉を探しているのかぐるりと視線を巡らせた。

「一緒に……探してほしい」

「探すって……ええと、小早川さんを?」

「そう」

 こくりと頷く東野さん。

 僕はなんだか嫌な予感がしてきたけれど、とりあえず先を促すことにした。

「探してほしい。……わたしは樹里ちゃんと話をしないと思ってる」

「話……そっか」

 何を話すつもりなのかわからなかった。が、一先ず東野さんの気持ちはわかった。

 それに、じーっと僕を睨み続けられるわけにはいかない。ここで断ったとして、後々にイ遺恨を残しそうだ。

 さて、どうするべきだろうか。

 僕は東野さんがそうしたように、ぐるりと視線を巡らせる。

 クラスメイトの数人が、僕たちを遠くから眺めていた。

 東野さんは美術部に所属している。そこの部長と大変仲がいいことは知ってる人は知ってるんだろうな。

「……わかったよ」

 結論として、僕は東野さんのお願いを聞き入れることにした。

 まああれだ。色々と気にかかることもあるし。

 その最たるものとしては、例の金髪の女の子。

 名前は確か……メアリといっただろうか。あの幼女。

 最も気にかかるのは、彼女の存在だ。

 風間さんの『ささはら書店』から戻ってこっち、ずっと考えていた。

 あの遺影のあった場所で聞いた声。そして鳳さんが外国から連れ帰って来たという金髪幼女。神谷先輩のような人の存在。

 これらを総合的に考えると、おそらくだがあのメアリという子にも何か特殊な能力が備わっているのではないだろうか。

 なんてことを考えてしまうのは、僕の悪癖とでも言ったらいいのか。

 いずれにせよ、僕としてももう一度、小早川さんや風間さんや鳳さんと話をしてみたいと思う。……妙なことに巻き込まれるのでない限りは。

 僕が彼女にとって都合のいい返事をしたからだろうか。東野さんの表情が若干明るくなった気がする。

 まあそれならそれで、悪い気はしない。できるだけのことはしよう。

 ぼちぼちやってみようという決意を胸にしたところで、授業開始の時間が迫っていた。

「席に付けよー」

チャイムが鳴ると同時に、担当の先生が顔を見せる。皐月先生ではないことにホッとした。

 別に僕自身は悪いことをしているわけではないのに、おかしな話だ。

 それもこれも、小早川さんのせいだとこの場にいない人物に怒りを覚えた。

 そういえば、皐月先生が小早川さんを探していたな。

 あれは一体何だったのだろう?

 

 

           4

 

 

 そして放課後になった。

 図書室に顔を出すと、いつものように神谷先輩がいつもの席で本を読んでいた。

 基本的に歴史ものが好きな先輩だが、この日はちょっと違っていた。

「先輩、それって……」

「真壁君、これ知ってるの?」

「まあ最近話題になってるので」

 そう、本日神谷先輩が読んでいたのは、今世間で話題になっているファンタジーライトノベルだった。

 ライトノベルと言えば文庫サイズが一般的だろうが、最近ではちょっと大きめの単行本があったりするらしい。先輩が読んでいたのは単行本の方。

 とはいえ、僕はニュース等で知っているだけで読んだことはない。

 本はまあそれなりに読む方ではあるが、読書家というほどでもないと自分では思っている。

 ただの暇つぶし程度に考えているわけだ。

 先輩のように隙間時間があれば本を開くようなタイプではない。

 とまあそれは今は置いておこう。

 僕は先輩の正面に腰を下ろした。

「先輩、ちょっと質問がありまして」

「え? ええと……何、かな?」

 神谷先輩は読んでいた本を閉じて、僕の話を聞く体制を整えてくれた。

 僕としてはありがたいことだが、それほどかしこまられるとそれはそれでやりずラサを感じてしまう。

 しかしそれもまた先輩ということで流しておこう。

「魔法使い……って先輩は言いましたよね、自分のこと」

 言っていて、ちょっと痛い奴みたいな感じになってしまうのはこの際考えないようにしよう。

 なぜなら、魔法使いを名乗っているのは先輩自身なのだから。

「えと……まあそうだね。わたしもよくは知らないのだけれど、歴史上わたしのような人間はたまに存在していた……んだと思うんだ」

「それは……ええと、なぜそう思うんですか?」

「……陰陽師とか聞いたことない? 霊媒師でも祈祷師でもいいけれど」

「まあそうですね。……はい」

 たまにドラマやらで耳にすることはある。

 そして先輩的には、それらは魔法使いだということを言いたいのだろう。

 そう思って確認してみるが、先輩の反応はあまり芳しくない。

「それはわからないよ。そもそも歴史の表舞台にはあまり出てこない人たちだから」

 ただ、歴史の転換点を紐解いていくと、そうだと思われる人々がいたかもしれないというだけの話のようだ。

 絶対数が少ない上に、能力もそれほど使い勝手のいいものではないのだろう。

 というのが神谷先輩の推測らしい。

 実際、神谷先輩の能力に関してもそれほど便利に使える代物ではないというのだから、このあたりは当たらずとも遠からずといった感じだろうか。

「それに、人数は少ないけれど世界中にたくさんいるはずだから」

「……少ないのにたくさん、ですか」

 一言で矛盾しているようだが、ただこれは世界を見回した際の話だ。

 世界中、なんて途方もないような言葉を耳にするなんて思いもしなかった。

 魔法使いやら何やらという話も同様だ。

「何と言いますか……すごく現実味に欠ける話ですね」

「そうだね……でも、そうでもなければ説明できないようなこともたくさんあるから」

 そうだろうか。……そうかもしれない。

 歴史の陰に魔法使いあり、なんてまるでフィクションだ。

 架空の物語なら、そういったことも多々あるだろう。けれど僕が生きているのは現実で、そして実際に奇跡を起こせる人たちというのは存在するわけで。

 なら、僕が何を言ったところで、それは無意味なことなのかもしれない。

「質問があります」

「何?」

「先輩は、幽霊と話せる人……なんていると思いますか?」

「ゆう……れい?」

 神谷先輩は眉間に皺を寄せ、顔をしかめる。

 まあ唐突と言えば唐突な質問だ。いきなり幽霊なんて。

 けれど、では先日のあれは何だったのだろうということになる。

 先日『ささはら書店』で聞いたあの声は。

 まるで、誰かと会話をしているかのような声。そんな声を、僕は確かに聞いたのだ。

「うーん……いない、とは断言できないよね」

「まあそうですね」

 断言はできない、と。その程度のことは言われなくてもわかる。

 しかし、逆に言えばその程度のことしか言えないのだ。

 少なくとも現段階では。

 そして、今はそれだけで十分だった。

「……そろそろ帰りますね」

 気が付けば、すっかり話込んでしまっていた。

 僕は立ち上がり、先輩に頭を下げる。先輩はそれに手を振って応じてくれた。

 図書室を出る。廊下は薄暗くなりつつあった。

 そういえば、先輩はまだ図書室にいるのだろうか。ふとそんな疑問を覚えた。

 雨こそ降ってはいないが、空は厚い雲に覆われている。本格的に暗くなるのもすぐだ。

 ……まあ大丈夫だろう。先輩だし。

 そんなことを考え、僕は階下へ向けて足を動かすのだった。

 

 

            5

 

 

 それからしばらくは、何事もなく日々が過ぎていった。

 強いて言うのなら、小早川さんの噂が聞こえてくることくらいだろうか。

 その噂にしても、相変わらず真偽のほどは確かではない。

 まあおそらくは小早川さんのことなのだけれど。

 事態が動いたのは、風間さんの経営する『ささはら書店』を訪れた日から一週間と五日が経過したある日のことだった。

 学校に一方が入ったのだ。

 小早川さんが警察の厄介になってしまったらしい。

 唐突な展開に思えたけれど、よくよく考えてみるとそりゃそうだとなる出来事だった。

 だって、あれだけ派手に暴れ回っていたのだから。もちろん小早川さんではないのかもしれないけれど。

 いずれにせよ、知り合いが警察に捕まったというのは割とショッキングなニュースだった。

 このことを生徒に伝えるか否か、先生の間で慎重になっているのだとか。

 ではなぜ、僕が小早川さんが警察に厄介になったことを知っているのかと言えば、これは全くの偶然からのことだった。

 その日の放課後、僕は既に自分の中でルーチン化しつつある図書室へ向かうという行為を遂行していた。

 そうして廊下を歩いていると、皐月先生と盛岡先生が話をしている場面に出くわしてしまった。

 ふたりとも苦手なタイプの先生だったので、見付かっては面倒なことになることは容易に想像できた。

 特に皐月先生はまずい。ただでさえ、問題児に頭を悩ませて機嫌が悪いことが多々あるのに。

 僕の姿を発見した暁には、説教タイムが始まってしまう。それは避けたい事態だった。

 なので、僕は先生方から身を隠すようにして壁に背付けた。早くいなくなれと念じながら、様子を伺う。

 小早川さんの近況を知ったのは、この時だった。

 先生たちの会話の内容を要約すると、こうだ。

 彼女はなんらかの理由で高校生の不良グループに絡まれてしまい、殴り合いに発展。

 しかし肉弾戦で小早川さんの右に出る者はなく、それは件の不良グループとてそうだった。

 故に奮戦はしたが、相手方を全滅まで追いやり、騒ぎを聞き付けて近隣住民から通報を受けた警察官が現場で取り押さえた次第だ。

 取り押さえた、とは言っていたが、まあ実際は大人しく捕まったのだと思う。

 いくら小早川さんでも、警察相手にそう無茶なことはしないだろう。そう思いたい。

 状況が状況なだけに、あまり大事にもならないだろうとは言っていた。

「全く……何をしているんだか」

 そんなわけで、小早川さんは聴取のため現在は警察署で話をしているのだという。

 というと全て丸っと解決してしまったかのようだ。が、実際には違う。

 なぜ彼女はそれほど荒れているのか。ひとえにそこが問題だった。

 その理由さえ取り除ければ、たぶん小早川さんは学校に来るようになるだろう。

 そうなれば、東野さんも安心する。

「……というような事情なんだ」

「そう……なんだね」

 僕は東野さんに、皐月先生たちの話していた内容を掻い摘んで説明した。

 どこの警察署かなんて知らないし、だからどうするべきかなんて想像も付かない。

 けれど、とりあえずは東野さんには知らせておくべきだと思った。

 だってふたりは親友なのだから。

「……どうしようか」

「どうって……?」

 東野さんは小首を傾げ、問い返してくる。

 それはもちろん、小早川さんに会いに行くかどうかだ。

 先述の通り、僕は彼女がどこの警察署にいるのか知らない。とはいえそれはどうとでもなるだろうと思っていた。

 幸いにして、僕には小早川さんの親戚に知り合いがいるので、その伝手で面会くらいまでなら漕ぎ付けるだろうと。

「会いに行く……という選択肢もあるってこと」

「え? ……会えるの?」

「そうだよ。もちろん」

 別に裁判にかけられて懲役何年を言い渡されたわけじゃあない。

 まして死に別れたわけでもないのだから、当然会えるさ。

 けれど、東野さんは驚いた様子だった。眉間に皺を寄せ、少しほっとしたようだ。

 彼女のこんな顔は初めて見るかもしれない。普段の東野さんは表情の変化に乏しいので。

 赤の他人に対しては感情を表すことが苦手らしい東野さん。そんな彼女が、ここまでの感情の変化を見せてくれたのは、果たして僕を信頼してのことなのか。

 それとも、小早川さんのことがそれほど大切だからだろうか。

 おそらくは後者だろう。そうであってほしいと僕は願っている。

 僕への信頼は、今のところなくてもいい。

「たぶん面会くらいならできると思うけれど」

「……いく」

「まあそうだね。第一、何をやってるんだって聞き出したいところだからね」

 僕は東野さんの短い言葉に頷いた。

 いずれにせよ、いずれにせよだ。もしも東野さんがこの事態に首を突っ込んでくるのなら、やはり避けては通れない部分だろう。

 ふたりは赤の他人と切って捨てるには、近しい存在なのだから。

「わかったよ。……だったら、行こう」

 僕が笑いかけると、東野さんはこくりと頷いた。

 相変わらず感情の起伏がわかりずらいけれど、おそらくは喜んでいるのだろうと思われる。

 このことがいい方向に転ぶか否か。僕にも、きっと誰にもわからないだろう。

 何はともあれ、だ。

 今週末の予定が決まってしまった。

 

 

          6

 

 

 そんなわけで週末。僕は東野さんと最寄り駅で待ち合わせをしていた。

 空は晴れていた。久しぶりの晴れ間に、ちょっとだけ気分がよくなる。

 まあこれから『ささはら書店』へと向かうのだけれど。

 ちなみにあれから、小早川さんは無事釈放と相成った。

 二対八の割合で例の不良グループが悪い上に、中学生という身の上だからだろうと皐月先生は言っていた。

 それは僕としてもおおむねその通りだと思う。

 というか、中学生女子に負ける不良グループって。

 改めて、小早川さんの阿修羅っぷりには驚かされる。

 もしかしたら、彼女もまた神谷先輩と同類なのかもしれない。

 つまりは特殊な能力を持っていて、その能力によって戦闘力が格段に上がっているのだという説だ。

「…………ないな」

 自分で言っておいてなんだけれど、まあないだろう。

 明確な理由はないけれど。ただ、先輩のことを考えると、喧嘩なんかに真価を発揮するような能力があるとは思えなかった。

 電車を降り、目的地までの道のりを歩いていると、猫がいた。

 僕はなんとなく、その猫を目で追う。茶色い長毛種だった。

 長くてふわふわとした毛皮と水玉のような綺麗な瞳が印象的だった。

 飼い猫……だよね。どこの猫だろう?

 なんて疑問に思ったのも束の間だった。別段立ち止まったりすることなく、猫から視線を逸らして前を見る。

 今は猫のことを考えている場合ではないな。しっかりしろ。

 ちらりと後ろを振り返る。

 東野さんと視線が合った。当然だが、ちゃんと付いて来ていたらしい。

「たぶん、そろそろ到着すると思うんだけれど……」

 なんて言っていると、目的の店の看板を発見した。

 『ささはら書店』と書かれたそれを見上げ、僕たちは店の前に立ち止まる。

「じゃあまずは僕が先に声をかけてみるよ」

「わかった」

 僕の提案に小さく頷く東野さん。

 東野さんをその場に待たせ、僕は店の奥へと声をかけた。

「すみません、風間さんはいますか?」

「おお、来たね少年。よく来たよく来た」

「……ええと、どうしてあなたが?」

 奥から出て来た人物に、僕は首を傾げてしまった。

 なぜってそりゃあ、いるとは知っていたけれど、僕としては風間さんが出てくるものだと思っていたから。

 しかし、現れたのは風間さんではなく鳳さんだった。

 先日と同じように、ジーンズにシャツというラフないでたち。そして彼女の足元には、相変わらず金髪の女児がいた。

 じっと僕を見るまなざしは、まるで警戒されているかのようだった。なんとも居心地がわるい。

「まあとりあえず上がりなさい。そこの君もだ」

 なぜか当然という顔で僕たちを手招きしてくる鳳さんだった。

 しかし、今日訪問するという連絡はしていたので、この対応は自然と言えば自然……なのだろうか。わからないけれど。

 このままここで立ち尽くしていても始まらない。

 僕は鳳さんの言葉に従い、上がり込むことにした。

 後ろを振り返り、東野さんを手招きする。

「言われた通りにしよう」

「……わかった」

 東野さんはじっと、金髪の女児――メアリを見つめていた。

 何か思うところがあるのだろうか。それとも、よからぬことを考えているのか。

 何を考えていようと僕としては関係のないことだけれど、それはそれとしてだ。

「……どうして鳳さんがここに?」

「何、しばらくは滞在しようと思ってね」

「そうなんですね……」

 彼女は彼女で自宅があるはずだ。海外暮らしが長いのだとしても、実家なりが。

 なのに、知人の男性宅に泊まるとは。なんだか大人な関係を想像してしまう。

 ……たぶんだけれど、その手の浮付いた話はないな。

 僕はすぐさま浮かんだ妄想を振り払う。

 鳳さんはわからないけれど、風間さんはそう軽々とした行動は取らないだろう。

 何せ、奥さん? 婚約者さん? の写真を大事そうに飾っているような人だ。

 いくら元々知り合いだったとしても、女性とその……エロいことをするとは思えなかった。

「ところで、その子は君の恋人かい?」

 鳳さんはニヤニヤと口の端を持ち上げ、訊いてくる。

 世界中をめぐっている彼女であっても、その手の話題は好物な様子だ。

 けれども残念ながら、僕と東野さんはそういう関係ではない。というか、東野さんには恋人がいる。

 もちろん僕ではない。

「違いますよ」

「そっか。それは残念だ」

 僕が首を振ると、鳳さんは肩をすくめた。

 全然残念そうではないけれど。

「それで君たちは一体何の用で……いや、待ってくれたまえ」

 鳳さんはじーっと東野さんを見ていた。

 このタイミング的に僕たちが訪れた理由なんて簡単に想像が付きそうなものだけれど。

 彼女からしてみれば、そういうわけでもないのだろうか。

「ええと……実は小早川さんに会いに来ました」

「だろうね。とすると、彼女は東野さんだね」

「え? ああ、はい。その通りです」

 鳳さんが手の平で東野さんを指し示し、訪ねてくる。ので、僕は頷いておいた。

「ふむ……では入ってくれ」

 なぜ家主でもなんでもない鳳さんがそんなことを言うのか定かではなかった。

 が、僕としてはその疑問を口にする理由もないので大人しく付いていく。

「では、お邪魔します」

「……お邪魔します」

 鳳さんの後に続いて、僕と東野さんが店の中に入る。

 店内は閑散としていた。古い紙のにおいとインクの香りがふわりと漂ってくる。

 まるで、図書室にいる時のようなにおいだ。そういえば、あそこも本がたくさんあった。

 そういう意味では、似たような場所なのだろう。

「おーい、住吉君。到着だぞー」

 店の奥へと向かって、鳳さんが声をかける。

 声をかけながら靴のまま上がり込もうとしていた。ので慌てて指摘する。

「靴のままですよ」

「おっと、あぶないあぶない。また住吉君に怒られるところだった」

「またって……初めてじゃないんですね」

「まあね。海外生活が長かったせいか、家の中でも土足が体に染み付いてしまったんだ」

「……なるほど」

 実は、実家には帰れない身の上なのではないだろうか。

 ふとそんな疑問が僕の中に湧いてくる。言動の端々から、そんな印象を受けてしまう。

 まあ要するにガサツすぎるので帰ってきてくれるな、というわけだ。想像だけれど。

 ちなみにメアリは鳳さんの足元にしがみ付いたまま、チラチラと僕たちを振り返ってくる。

 警戒……されているのだろうか。わからないけれど。

 何にせよ、もう少し仲良くなりたいものだ。言葉が通じないことが悔やまれる。

 もっと英語を勉強するべきだろうか。などと考えていると、鳳さんが靴を脱いで上がってしまった。

 メアリも同様だ。なので僕と東野さんはふたりの後に続く。

「それにしても、君たちも大変だね」

「大変……ですか?」

 そうかな? そうかもしれない。

 だって小早川さんが馬鹿なことをしなければ、今頃僕たちはこんなふうにこの場にはいなかっただろうから。

 そういう意味では小早川さんのせいだという言い方もできるわけだ。

 まあ言わないけれど。

「それで……小早川さんは元気ですか?」

「ん? ああ、もちろんだよ。元気過ぎて手に余るくらいさ」

 それは何よりだ。

「さて、それでは久しぶりの友人との再会だ。心してくれたまえ」

 鳳さんがふすまに手をかけ、開ける。

 すると、僕たちの目の前には人影があった。一瞬小早川さんだと思ったけれど、違う。

 そこにいたのは、風間さんだった。この前と同じように、ニコニコと優しく微笑んでいる。

「やあ、久しぶりだね、真壁君」

「……お久しぶりです、風間さん」

 風間さんは軽く手を上げ、挨拶をしてくる。ので、僕も返しておいた。

 それはそれとして、小早川さんはどこにいるんだろう?

 僕は軽く部屋の中を見回した。すると、彼女の姿はすぐに発見できた。

 テーブルを挟んで向かい側。風間さんとは距離を置く形で、胡坐を掻いていた。

 ぶっすーっと、明らかに不機嫌そうだ。

「いらっしゃい。……君が東野祈さんですね?」

 風間さんは僕から後ろの東野さんへと視線を移した。

 東野さんが頷く。

「……何しに来たんだよ、祈」

「どうしてるかなって思って」

 小早川さんが東野さんを睨み付ける。が、本気で敵意を持っているわけではないことは容易に想像できた。

 おそらく、ただの照れ隠しなのだろうなと思う。

 対する東野さんは表情に変化はない。本当に会いたかったのだろうかと邪推してしまう。

 とはいえ、会いたかったのは本当だろう。でなければ、こんなところまで足を運んだりなどしないだろうから。

「そっちこそ何をしているの?」

「……なんだっていいだろ」

 照れ隠し。照れ隠しに決まっている。

 だというのに、小早川さんの眼光は鋭かった。

 それはもう、殺意とか籠っているのでは? というレベルだ。

「だいたい、なんで祈を連れて来たんだこの野郎!」

 ダンッと拳を握り、テーブルを叩く小早川さん。

 あの手で、数多の敵を屠ってきたのかと思うと肝が冷える。

 幸いにしてテーブルは無傷だったので、暴力に訴えるつもりはなさそうだ。顔は怖いけれども。

「わたしがお願いしたから」

「だからって……ったくよ」

 東野さんをこの場に招いたことを怒っているようだった。どうしてかはわからない。

 わからないなりに推測すると、きっとこういうことなんだと思う。

 親友に今の自分の姿を見られたくなかった、と。そういうことだろう。

 実際のところはわからないけれど、僕の中ではそういうことにしておこう。

「ええと、いろいろと噂は聞いてたよ。……主に喧嘩に関してだけれど」

「喧嘩に関して、か。つまりテメーは、あたしが喧嘩三昧だったと言いたいわけだな?」

 じろりと睨み付けられ、僕は思わず目を逸らした。

 余計なことを口走ってしまったようだ。

「本当のことだろう? その点に関しては樹里ちゃんが悪いと思うけれど?」

「黙ってろよ。第一、誰のせいでこうなったと思ってんだ」

 風間さんがフォローを入れてくれる。が、それに関しても小早川さんは嚙み付いていく。

「あの時テメーが……」

「樹里」

 何かを言いかけた小早川さんに向かって、それまで黙って成り行きを静観していた鳳さんが声をかける。

 それも、かなり厳しい感じでだ。

 何か失言をしてしまったのだろうか。

「それ以上はいけない」

 鳳さんは目を伏せ、首を振る。

 それ以上はいけない、とは何を指しているのだろう。

 訊きたかったが、とても訊ける雰囲気でもなかった。

 ともかく、その場の全員が黙ってしまったことで、しんと静まり返る。

 ただひとり、家主である風間さんだけが笑っていた。

 その笑顔は、とても悲しそうだった。

「……すみません、ふたりとも。せっかく来て頂いたのに」

「いや……僕は大丈夫ですけれど」

 東野さんは一連のやり取りを見て、どう思っただろう。

 ちらりと東野さんの様子を伺う。すると、やはり彼女の表情に変化は見られなかった。

 いや、僅かに眉間に皺が寄っている。本当に僅かにだけれど。

 小早川さんが警察にお世話になったことも含めて、彼女にとっても今回のことは心を痛めているのだろう。

 それはそうだ。僕ですらショックは大きかった。

 親友の東野さんなら、きっと僕の何千倍……否、想像もできないほどのショックを受けていたのだろう。

 僕はどうするべきかと思案する。したところであまり意味はないだろうけれど。

 そして思案の結果、黙っていることにした。

 ふたりの問題はふたりだけで解決してもらおう。

「……どうして?」

「あたしがなんで警察沙汰になったかってことか?」

 こくりと頷く東野さん。

 それにしても、あの一言だけで彼女の言いたいことを理解したぞ。

 さすがは幼なじみで親友なだけはある。僕だったら絶対に聞き返していたところだ。

 小早川さんはちらりと僕を見やった。眉間に皺が寄っている。

 僕がいたら、話ずらいことだったりするのだろうか。

 出ていくべきかどうか迷っていると、小早川さんは小さく溜息を吐いた。

「……詳しいことは言えないが、ちょっといらいらしてたんだ」

「いらいら?」

「そうだ」

 小首を傾げる東野さんに対して頷く小早川さん。

 いらいらしていた、とはどういうことなのだろう。何がそれほど気に入らないのだろうか。

 僕も東野さんと同じように首を傾けていた。

「……何があったの?」

「だから、言えねぇって言ったんだろ」

 東野さんの再度の問いかけにも答えるつもりはないようだった。

 小早川さんは東野さんや僕から視線を逸らし、壁を睨んでいた。

 と、そこで僕は気が付いた。いつの間にか、ひとりいなくなっていることに。

 誰が……と思ったけれど、すぐに知れた。風間さんだ。

 風間さんが姿を消していた。どこへ行ったのだろう。

 僕は小早川さん、東野さん、それから鳳さんへと視線を向ける。

 しんと静まり返っていた。あれだけうるさかった鳳さんですら、言葉選びに窮しているのか無言だ。東野さんは割といつも通りな気がする。

 とにかく、あまりいい雰囲気とは言えなかった。ので、僕はその場から一時退散することにした。

 トイレに行ってくるとかなんとか言ってその場を辞する。

 部屋を出ると、後ろ手にふすまを閉めた。ふーっと一息吐く僕。

 先ほどはあまりいい雰囲気ではないと思った。けれど、こうして廊下に出てみると、かなり悪い雰囲気だったと実感する。

 最悪だと言ってもいい。だって空気感が全然違う。

 廊下の方がいくらか清々しく感じられる。

 あの空間はあまりに居心地が悪すぎた。

 それを察してか、風間さんは姿を消したのだろう。僕もしばらくは戻らないようにしようと思う。

 彼女たちの間で何があったのか、気にならないと言えば嘘になる。

 けれど、僕は赤の他人で、きっとごく個人的な事情なのだろう。そんな僕が興味本位で聞き耳を立てるのはなんというか……あまりよくない気がする。

 さりとて、このままひとりで帰ってもいいものだろうか。

 僕はじっと、廊下の先を見る。ここを真っ直ぐ進めば、店頭に出るのだろう。

 本日は休日の昼間だ。にもかかわらず、人の気配は少ない。

 僕たち以外に誰もいないかのようだ。それでも、店はつぶれることなく存在している。

 それはもしかしたら、すごいことなのではないだろうか。よくわからないけれど、そう思った。……なんとなくだけれど。

「……とりあえず、トイレ行こう」

 そう言って出て来たのだ。一先ず言葉通りにしておこう。

 もしかしたら、万が一ということもあるのだし。

 そう思い、僕は廊下を歩く。

 廊下は少し薄暗かった。光と言えば、窓から入ってくる小さなものだけ。

 そういえばトイレの場所を聞いておくのを忘れていた。とはいえ、母屋部分だけに限って言えば広さ的にはそれほどでもない。

 迷うほどではないだろう、と楽観的に考えていた。

 実際、迷子になることもなくトイレの前に立つ。他人の家のトイレを勝手に使うことに抵抗はあったけれど、あの空気の中に戻ることもためらわれて、結局トイレの中に入った。

 しかし別に便意があったわけでもない。ただ、あの空気感に堪えられなかっただけだ。

 用を足すこともなく、僕は立ち尽くす。さてどうしたものかとあごに手を添える。

「……何をどうしたらいいんだろう?」

 僕は赤の他人だ。それは間違いなく、先ほども確認した。

 けれど、この状況で全く無関係だと主張できるほど肝が据わっているという自覚もない。

 つまりは、何かしないといけないというあせりだけがある状態だ。

 しかしそんな僕のあせりなど、たぶん誰も知らないのだろう。

 そして、いつまでもトイレに籠っているわけにもいかない。

 さりとて、このまますぐにあの場に戻るのは気が引けた。

 僕は意識的にゆっくりと戻ろうと決めた。

 おそるおそる、廊下を歩く。なんとなく足音を殺して。

 途中で、僕は足を止めた。

 話し声が聞こえたからだ。誰かが会話をしている。

 よく聞いてみれば、会話というよりは語りかけている、と言った方が正確だろう。

 聞き覚えのある声だった。というか、さっきまで聞いていた声だ。

 つまりは風間さんの声だった。ここにいたのか。

 僕はほそく、ふすまを開けてみた。すると、案の定彼はそこにいた。

「この部屋は……」

 僕が初めてこの家を訪れた時に迷い込んだ部屋だ。

 そうすると、正座している彼の向こう側には、あの写真があるはず。

 おそらくは風間さんの言っていた婚約者の写真が。

 覗くのを止めて、僕はうーんと考えた。

 さてどうしたものだろうか。

 僕個人としては、風間さんを連れ帰って冷え切ったあの空間をどうにかしてほしい。

 具体的には、鳳さんや小早川さんや東野さんの間に入って仲裁してほしいのだけれど。

 しかし今は、なんとなく入っていける雰囲気ではないよなぁとも思う。

 などと、僕が悩んでいると、小さな足音がするのに気が付いた。

「ええと……君は確か……」

 振り返ると、そこにいたのはメアリだった。常に鳳さんの隣にべったりとしていた印象だったから、ひとりで行動するのは意外だ。

 ……どうしよう。僕、割と子供の相手って苦手だったりするんよな。

 だって、色々と気を使わないといけないし、何より変に緊張してしまう。

 加えてメアリは外国人だ。白い肌と綺麗な金髪。

 そして僕を見つめる灰色の瞳は、どこかおびえているようだった。

 小さなメアリは僕と視線を交わすと、ピタッと動きを止めてしまった。

 僕は僕で、次に何をどうすればいいのかわからず、固まってしまう。

「……ええと、どうしたんだい?」

 僕は努めて優しく聞こえるよう気を付けてそう言ってみた。

 けれども逆効果だったようだ。メアリはびくりと肩を震わせると、呼吸が浅くなっていくう。

 うーん……これはまずい感じかな。どう見たって僕がいじめてるみたいだ。

 彼女にとって多大なストレスを与えていることは容易に想像が付く。が、だからと言って僕には何をすればメアリを安心させてあげられるのか全く見当が付かなかった。

 ……とりあえず、鳳さんのところに連れて行くのがベストだろうか。

 などと考えていると、スッとふすまが開いた。故人との会話を終えた風間さんが出て来たのだろう。

 僕は助け舟を求めるつもりで、彼を見た。風間さんは僕と視線が合うと、驚いたように目を見開いたが、すぐにメアリにも目を向ける。

 僕と小さな金髪の女の子の間で視線を行き来させる。

 果たして、彼は今の僕が置かれている状況を正しく理解できたのだろうか。

 などと考えていると、眉間に皺を寄せ、困ったように笑みを浮かべた。

「……大丈夫ですか?」

「あー……あまり大丈夫ではないですね」

 メアリは今にも泣き出してしまいそうだった。そして、それは僕も同じだ。

 風間さんは僕の脇を通り、メアリの前に移動した。膝を折り、彼女となるだけ目線を合わせる。

 ふたりのやりとりは、僕にはわからなかった。単純に、英語が苦手だからだ。

 英語……なのだろうと思う。少なくとも日本語ではない。

 何を話しているのだろう。

 会話の内容はわからかったが、メアリと風間さんの表情からして、この場は丸く収まりそうな気配だった。

 ふたりを見守りつつ、僕は想像する。

 メアリがなぜ鳳さんと一緒だったのか。かわいそうな身の上とはどういうことなのか。

 この小さな女の子は、果たしてどこからやって来たのか。

 一言で海外といっても、広い。もしかしたら、将来的には鳳さんのように世界中をめぐる旅をしてみてもいいかもしれない。

 まあだとしたら、日常会話もままならない今の状態は脱しないといけないわけだけれど。

 何にせよ、将来の話だ。

 そうして僕が未来に思いを馳せていると、ふたりのやりとりは終わったようだった。

 風間さんが立ち上がる。その際、メアリの頭をひと撫でした。

 メアリは一瞬くすぐったそうにしたが、緊張も多少柔らいだように見えた。

 それでも、まだリラックスしているというにはほど遠いだろうけれど。

 知らない場所に来たのだから、そんなものなのかもしれない。

「英語……上手なんですね」

「得意、というほどではないですが、昔大学で勉強しました」

 風間さんは立ち上がり、僕に笑いかけてくる。

「どうして? やはりこれからの時代を見据えて?」

 と思ったけれど、すぐに違うのでは? と首を傾げてしまう。

 こう言ってしまっては失礼だけれどう見ても時代を見据えた職業選択とは思えなかった。

 時代に取り残された選択だったのではないだろうか。

 そう考えた瞬間、僕はどうしても訊きたくなってしまった。

 現在の自分をどう思っているのかを。

「……風間さんは、後悔していますか?」

 その問いは、スッと僕の口から出た。

 風に舞うように、彼の耳へと届いただろう。

 驚いたように目を見開くその姿を見て、僕は自分がとんでもない失言をしてしまったのではないだろうかという不安に襲われた。

 余計なことを、訊いてしまったのではないかと。

 それでも、一度僕の許を離れた言葉は戻ってくることはなく、取り消すこともできない。

「それは……」

 風間さんは困ったように眉間に皺を寄せ、ぐるりと周囲を見回す。

 その視線が、ひとつのところで止まる。

 さっきまで風間さんがいた部屋だ。ぴたりとふすまで閉じられているが、その向こうには婚約者という人の写真が飾られている。

 なんとなく、今のふたりの関係を察することはできた。

 どれくらいの時間が経っただろう。とても長いような気がするし、短いような気もする。

 僕は、その場から逃げてしまいたい衝動をこらえ、風間さんの返事を待った。

 それが、この場での僕の役割だと……そう思ったから。

「……後悔は何度もありました。何度も、何度も」

 風間さんは僕に対してそう言ったのだと思う。

 けれど同時に、写真に写る婚約者に対しても言っているのではないかとも感じた。

「これでよかったのだろうかと悩んだこともありました。もしかすると、君はボクの選択を愚かだと思ったのかもしれませんね」

「そんなことは……」

 風間さんが僕を振り返ることはなかった。彼の側にいるメアリも、じっと目の前の男性を見上げている。

「あの時ああしていれば、もしかしたらその瞬間のボクは間違っていたのかもしれない。幾度となくそう思い、そう思う度に考えてしまう」

 風間さんは一度言葉を切り、すぅーっと息を吸う。

 次に放たれた言葉は、声は、震えていた。

「何度も何度も願います。願わずにはいられません」

 その一言が、僕の胸をきつく締め上げる。

「どうか……どうかもう一度、君に会えたらと――そう願って止みません」

 きっと、どこまでもの彼の本音なのだろうと。

 何があったのかはわからなくとも、それだけはわかった。

 

 

続く。

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