第八話 彼と彼女とペットと真相。
飼い主の男性はペットが姿を消したことに気付いていないのか、家の中から出て得くる気配はなかった。
「あっ……先輩!」
神谷先輩が珍しく走り出す。普段運動なんてするイメージがなかっただけに意外だった。
僕は先輩を追いかける。まあイメージ通りそれほど走るスピードは速くない。
すぐに追い付いた。
先輩の前に回り込む。
「ちょっと先輩、いきなりどうしたんですか?」
「ダメ……はやく行かないと」
先輩は焦っているようだった。なぜそんなに焦っているのだろう。
あの犬がどうしたのか。
確かに逃げ出したことは憂慮すべきことだろう。けれど、言ってしまえばそれまでだ。
「何があるんですか? 教えてください」
「それは……」
先輩……神谷先輩は顔を背けた。
よほど言いにくいことなのかもしれない。
それでも、言ってくれなくては困る。でなければ、僕にわからないのだから。
「先輩」
「……あの子が、死んじゃう」
重々しく、先輩が口を開く。
死んでしまう、と。
神谷先輩が言うには、あの犬は事故に遭って死んでしまうらしい。
それを阻止するためにも、僕たちはすぐに後を追わないけない。そうでなければ、見失ってしまう。
ただ……と僕は二の足を踏んでいた。
理屈としては、さっきと同じだ。
見ず知らずの他人……いや、他犬?
いずれにせよ、無関係だ――と言いたいところだけれど。
「死ぬ……んですか?」
僕が問い返すと、神谷先輩は小さく頷いた。
死ぬ、なんてことを聞いてしまっては、感嘆に見捨てる、無関係とは言えなくなってしまった。
事故に遭って死ぬ。時々、道路の端で死んでいる猫やなんかを見かけることがあるが、あんな感じになるのだろうか。
「……わかりましたよ」
僕はため息とともに、肩を落とした。
これは、諦めるしかなさそうだ。なんてことを思いながら。
「えっ……いいの?」
神谷先輩は意外そうな表情で僕を見ていた。
そんな、人をろくでなしのクズ野郎みたいに思われても心外だ。
僕はただ、先輩のことを考えて発言しただけに過ぎないのだから。
言わないけれど。
「それで、僕たちは何をすればいいんですか?」
「えっと……とりあえずあの子を追いかけよう」
ということで、僕と神谷先輩は先ほどの犬を追いかけることにした。
見つかるといいのだけれど。
1
僕は一体何をしているのだろう?
隣を歩く神谷先輩をちらりと見て、僕は思った。
先だっては無関係だからと遠ざけようとした。しかし今は一緒になって手伝っている。
もちろん、放っておけばあの犬が死ぬと言われたからだ。
例え動物だろうと、死の運命を変えられるのなら変えたいと思う。
それが、自分の手で変えられるものであるのならなおさらだ。
だが同時に、ことの全てにおいて無関係であるという事実は変わらない。
一度付き合うと言ってしまった以上、発言を撤回するつもりはないけれど、必要以上に深入りすることだけは避けた方が無難だろう。
「先輩……先輩? ……神谷先輩」
「え? えと、ごめんね。……どうしたの?」
神谷先輩は歩く足を止めることなく、僕の方を振り返った。
僕も先輩に歩きつつ、ふと湧いた疑問をぶつけてみる。
「ちなみにあの犬の行方を見失ってしまったのですが、アテはあるんですか?」
そう訊ねると、神谷先輩の足がピタリと止まった。
……ま、まさか。
「ど、どうしよう……」
神谷先輩は困ったように眉根を寄せ、視線で訴えてくる。
どうしようって……それはこちらの台詞だ。
僕としては、先輩だけが頼りだったわけだから。
「先輩の力で、あの犬の居場所がわかったりしないんですか?」
「そんなすごいことできないよ……」
まあわかってたけれど。
とはいえ、これではどうしようもないな。
「では、どうしようもないのでは?」
「……そう、だね」
先輩は考え込むようにして、俯いてしまった。
「先輩?」
「別れよう」
「えっと……それはどういう」
まさかこの状況で、告白してもいないのに振られるとかいうことをされてしまうのだろうか。
……そんなわけがないか。
「どういう意味ですか?」
「探すにしても、二人一緒より別々の方が効率的かと思って」
「なるほど」
確かにそうかもしれない。別々に探せば、捜索範囲は倍になるわけだから。
でもなぁ……大丈夫かなぁ。
「先輩、今度はちゃんと電話に出てください。見付けたら連絡しますから」
心配で仕方がなかったが、そんなことよりさっさと犬を見付けた方がよさそうだ。
そうすれば、先輩がこれ以上無関係なことに首を突っ込み続ける理由はなくなる。
「……それじゃあ二手に分かれましょう」
無茶はしないでください、と念を押しておく。
神谷先輩は困ったように笑っていたが、冗談ではない。
先輩は踵を返し、僕は反対方向を探す。
そうすることで、一刻も早くあの犬を探しだすのだ。そして、こんなバカなことは止めるべきだ。
2
とはいえ、僕一人で本当に大丈夫だろうか。なんだかすごく不安になってきた。
僕は神谷先輩と違って、不可思議な超能力は持っていない。
そんな僕が、何のヒントもなしにあの犬を見付け出せるものだろうか。
……ダメな気がする。しかし、探すと言ってしまった以上は探さないと。
じゃないと、神谷先輩はどんな顔をするだろう。
想像することも嫌だった。
「……せめて、誰か見ている人がいればなぁ」
なんてことを考えるが、まあいないだろう。
僕は周囲に視線を巡らせながら、そんな感想を抱く。
左右、どちらを見回しても民家だった。それか小さな畑。
休日の昼下がりに、こんな何もないような場所をうろつくにん人はいないだろう。
今日は天気もいいことだし、きっと今頃は公園やレジャー施設なんかに行っていることだろうなぁ。
僕のように、うろうろと他人のペットを探すよう人間は稀有な部類だろう。
「早まったかなぁ……」
足を止め、思案する。
さてと。僕は一体何をどうしたらいいのだろうか。
まず目的としては、あの犬を探すことになるのだけれど。
見失ってから、そこそこの時間が経ってしまっている。これだけの時間が経過しているのなら、大型犬の足なら割と遠くまで行ってしまっている気がする。
見付かる……気がしない。
「……ああ、なんでこんなことに」
思いかえせば、母さんのせいだ。そのせいで、こんなことに巻き込まれたのだ。
なんて母親への呪詛を口にしそうになった。が、止めた。
もし母さんが僕に用事を言わなかったら、先輩は一人だっただろう。
一人で、今日の出来事の全てをやらなくてはならなかった。
そう考えると、逆に母さんはファインプレーだったと言える……のか?
そんな感じで頭を抱えていると、背後から聞き知った声が聞こえてきた。
「……何やってんだ、おまえ」
振り返ると、そこには小早川さんがいた。
小早川樹里。クラスメイトで、ちょっと粗野で不良な感じのする人だ。
実際はそんなことはなく、ただ言葉使いがちょっと荒いだけなのだけれど。
「ん? ちょっとね……そうだ、聞きたいことがあるんだけれど」
「ああ? なんだよ」
僕は小早川さんに例の犬のことに付いて聞こうとした、のだけれど。
小早川さんの恰好に違和感を感じて、口を噤んだ。
なんだろう……何がこんなに気になるのだろう。
「……何ジロジロ見てんだ、コラ」
小早川さんは苛立ったように眉間に皺を寄せている。
んー……ハッ! そうか!
「エプロン姿なんて珍しいね」
「……バイト中だ」
ああ、例の親戚がやっているという古本屋。
よくよく見れば、エプロンの胸元に店名が書かれている。
『ささはら書店』っていうらしい。
「……んで、なんだよ」
「ああ、そうだった」
危ない。話が逸れてしまうところだった。
「この辺で犬を見なかった。このくらいの……」
僕は両手を使って、例の犬の大きさを表してみせる。
「犬か……真壁が探している奴かはわからねぇが、見たぜ」
「本当? それはどっちに行ったの?」
「ん」
小早川さんが背後を指差す。そちらに行ったということだろうか。
「なんだ? 逃げ出しちまったのか?」
「実はそうなんだよ」
「ふーん……手伝ってやろうか?」
小早川さんは背後を振り返り、そんな提案をしてくれた。
しかし、僕は彼女の提案を丁重に辞する。
「大丈夫だよ。それに、バイト中でしょ?」
「むっ……まあそうだけど。いいのか? おまえには前に世話になったこともあるし、少しくらいならいいと思ってるんだけど」
小早川さんはどこかバツが悪そうだったっが、そんなことを今気にしている場合ではない。
僕は小早川さんにお礼を言ってから、その場を離れた。
小早川さんに言われた方角へと足を向ける。
「それにしても、なんだってまたいなくなったってんだか」
男性と散歩をしている様子を見ていたのは一瞬だったっが、それほど活発な性格をしているようには見えなかった。
いくら脱走できる状況だったからといって、脱走するものだろうか。
何か、動物ならではの事情があったり……いや、考え過ぎか?
いずれにせよ、今は追いかける以外にやれることがない。
さっさと見付けて、さっさと帰ろう。そうしよう。
そんなことを考えていると、ふと視界の端に何かが映ったような気がした。
なんだろう? と足を止める。すると、そこには探している犬の姿があった。
丁字路の曲がった先。危うく、また見失うところだった。
僕は犬が怖がったりしないようにゆっくりと近付いていく。
犬は僕の存在に気が付いたようで、首だけをこちらへと向けてくる。
「……大丈夫だから。おとなしくしててね」
僕は小声でつぶやきながらにじり寄っていくと、犬はワンと一声吠えた。
なんだ? 何か下手を打っただろうか。
僕が緊張で体を固くしていると、犬は小走りに僕の方へと駆け寄ってくる。
頭を擦り付け、ペロペロと僕の手を舐めてきた。
……ずいぶんと人懐っこい犬だな。
「よし、じゃあ帰ろう」
幸いにしてリードは付けたままになっていたので、それを引いて帰ろうと手を伸ばした。
伸ばした、んだけど、僕の手がリードを掴む前にひとりでに動いた。
いや、犬が動いたんだ。さっきまで僕の側にいたはずが、一瞬のうちに少し遠くへ行っていた。
犬……わかってたけど俊敏だなぁ。
犬は僕をじっと見ていた。立ち止まって、僕の動向を観察しているようだ。
僕はもう一度、リードへ手を伸ばす。が、犬が再び動く。
リードへ手を。犬が移動する。そしてまたリードへ手を。そうすると犬が移動。
その繰り返しを何度か行い、僕は少々の苛立ちを覚えていた。
なんだろう……馬鹿にされているのだろうか。おちょくられているのか?
いずれにせよ、犬が人間様を馬鹿にするものじゃあないぞ。
「……おとなしくしててくれ」
ゆっくりと、じりじりとにじり寄る。
後少しで、僕のつま先が犬の足に届きそうなほど近付いた。
ここから、一気に飛びかかる。そうすれば、いくらなんでも捕まえられるだろう。
「……よし、今だ!」
僕は思い切り、飛びかかる。
犬は僕が急に大きな動きを見せたので驚いたのか、全身を強張らせていた。
動けないようだ。これはいける!
勝利を確信した僕(全く意味がわからない)はニヤリと口の端を釣り上げた。
――が、だ。
犬は僕の手が触れるより刹那はやく、身を引いた。
おかげで僕は前につんのめるような形になり、その場に倒れ込んでしまう。
顔面から。地面に擦り付けられる。
痛い。……すごい痛い。
「……ああ」
口の端からうめき声が漏れた。自分のうめき声のなんと聞き苦しいことか。
僕は顔を上げ、犬を睨み付けた。
「全く……なんなんだよ、ほんと」
口にした直後に、自分の発言を顧みて恥ずかしさを覚えた。
犬相手に何を言ってるんだ、僕は。
今度こそ、捕まえるんだ。
僕がそう一人で意気込んでいると、犬はくるりと身を翻した。
軽快な小走りで、去っていく。
「ちょっ待てよ!」
僕は犬を追いかけた。
犬の走る速度はそれほどはやくはない。時折こちらを振り返る様子をみるに、僕をどこかへ連れて行こうとしているのだろうか。
そんな……フィクションじゃあるまいし。
とはいえ、このまま放っておくこともできない。
捕まえることは諦めて、せめて見失わないように付いていくことにした。
それに、本当にどこかへ連れてかれるというのなら、少し面白いじゃないか。
僕はちょっとだけわくわくしながら、犬の後に続く。
「それにしても、一体どこへ行くんだ?」
犬は僕を振り返りながら、ずんずんと進んでいく。
その歩くスピードははやい。何度か置いて行かれそうになった。
その度に、立ち止まってくれるのだから僕のことを気にしているのかいないのか。
どちらなのだろう。
なんにせよ、僕に用事があるというのなら、その用事を片付けてやればおとなしくなるだろう。
何あれだけ人懐っこいんだから。
「何をさせようっていうんだ?」
丁字路を抜け、少し歩き、右に二度、左に三度曲がる。
そうすると、とある建物の前にたどり着いた。
ずいぶんと古い家だった。
家を囲む塀はいたる所が欠けている。加えて、ここから見えるだけでも壁や屋根がボロボロだった。
素人目にも、住人がいなくなって長い年月が経ったのだなと想像させる、趣深い外観だ。
ここに、僕を連れて来たかったのだろか。
「なんだってこんなところに」
今にも崩れそう……というほどではないけれど、できれば近寄りたくはなかった。
もしかしたら、床が抜けたりするのかもしれない。壁に穴が空いたり。
幽霊……とか出たり。
などと、嫌な想像が僕の脳裏を駆け巡る。
まだ明るい時間でよかった。もし夜に来なければならなかったなら、きっと怖くなっていただろう。
まあ今も十分怖いのだけれど。
主に怪我をしたりするんじゃないかという心配から。
「えっと……もしかしてここに入るの?」
訊ねると、犬はワンと一声吠えた。
それはつまり……イエスということ? それともノー?
僕が呆然としていると、犬はためらうことなくボロ屋の中へと入っていった。
「ええ……本当に入るの?」
すごく嫌だ。入りたくない。
とはいえ、あの犬は入ってしまったのだから僕も入らないと。
じゃないと、犬が怪我をするかもしれない。
そう思うと、入らないという選択肢がないように思われた。
「……ええい」
僕は意を決してボロ屋の中へと突入する。
塀の外から見た感じだとかなり狭そうだったけれど、どうやら気のせいだったようだ。
足の踏み場くらいはありそうで安心した。足下の草が少し鬱陶しかったけれど。
さて、あの犬はどこへ行ったのだろうか。
僕はさっきまで一緒にいた犬の姿を探して視線をさまよわせる。
「おーい、どこだー」
見付かったらまずい気がするので、小声で読んでみる。
すると、どこかからくぅーんと返事が聞こえてきた。
鳴き声のした方へと向かう。――いた。
家の裏手にある庭……だっただろう場所。
少し広さのあるその場所は、長年放置されていたのだろう。玄関先と同じように、雑草が生え放題だった。
加えて、前の家主が溜めたものなのか不法投棄されたものなのかはわからないけれど、ごみ袋や粗大ごみが大量に積まれていた。
「……うへぇ」
見ているだけでげんなりする。これはひどい。
僕は横目でごみの山を見ながら、犬を探した。
声は聞こえる。が、姿が見えない。
「どこにいるんだー」
再び呼んでみる。すると、また返事が。
返事が聞こえた方へ目を向ける。視線の先には、ごみの山が高々と積まれていた。
棚や衣装箪笥に子供用の勉強机等々……比較的大きなごみがたくさんあった。
そして、粗大ごみの山の側に探し犬がいた。
「全く、何だってっこんなところに入り込んだんだよ」
僕は今度こそ犬のリードに手を伸ばす。さすがが逃げられないと悟ったのか、犬は大人しいものだった。
しかし、よかった。これで先輩が視たという未来を回避できただろう。
事故でこの犬が死んでしまう未来は。
「……さあ、帰ろう」
僕はリードを引いた。が、犬は抵抗してくる。……なんで?
帰りたくないのか?
いやいや、帰らないといけないだろう。ご主人様が心配するから。
「なんでそんなに……」
抵抗するんだろう、と疑問に思った次の瞬間だった。
小さなうめき声が聞こえてきた。
僕はリードを持ったまま、あたりを見回した。
どこから聞こえてきたんだろう。そもそも本当に聞こえてきたのだろうか?
僕の気のせいだったという可能性はないか?
「……おまえは聞こえたか?」
僕は犬に訊ねてみる。犬は舌を出して僕を見ていた。
何を考えているのか、いまいちわからなかった。一緒に暮らしてたのなら違っていたのだろうか。
いずれにせよ、この犬を連れて行かなくては。いつまでもこんな場所にいるわけにはいかない。
僕はもう一度、犬を連れ出そうと試みる。けれど、ビクともしなかった。
これは犬の力が強いのか? それとも僕が弱すぎるのか?
どっちでもいいけれど、もうちょっと力を付けないと。こういう時困るな。
なんてことを考えてる場合じゃないな。
「それにしても、なんで動かないんだ?」
僕は犬を連れ出そうとする手を止めて、犬の側にしゃがみ込む。
頭を撫でてみる。嫌がる素振りはなく、されるがままだった。
本当に人懐っこい犬だ。だけれど今は遊んでいる場合じゃない。
というか、さっさと動いてくれないかな。お尻を地面に付けて悠然としてるんじゃない。
んー……どうしたらいいんだろう。
そんなことを考えていると、またどこからかうめき声が聞こえてきた。
うめき声、というかうなり声というか。
気のせいではないのか?
僕はリードから手を離した。犬は逃げたりする素振りを見せることなくおとなしくしている。
その様子を横目に見ながら、うなり声の発生源を探す。
よくよく耳を澄ませて聞いてみると、ごみ山の中から発生してしているようだ。
僕は犬を見る。犬は僕に何かを期待するかのようにじっと見つめていた。
ま、まさか……この中からうなり声だかうめき声を発している何かを探せというのだろうか。
僕はそのことを犬に訊ねてみた。犬は元気に「ワン!」と元気に鳴いた。
これはわかるぞ。まごうことなくイエス、だ。
「えー……」
何を探せばいいんだ? 何もわからなかったが、どいしよう。
正直ここまで来たのだって嫌々だったんだけれど。なのにまた妙なことをやらされようとしている。
それも犬に。こんなのおかしいって。
もう、こんな犬はここで捨て置いて一人で帰ってしまおうか。
そんな考えが脳裏を過ぎる。が、直後に神谷先輩の顔が浮かんだ。
もしここで僕がこの犬を見捨てて帰ったらどうなるだろう。
無事ならそれでいいが、神谷先輩の言う通り事故にでもあったらと考えると、ため息が出る。
……全く、しょうがないな。
僕は意を決して、ごみ山へと目を向ける。やるしかない。
ここで行動に移せなかったら、僕は何のためにこの場にいるんだ。
……何をひとりで盛り上がっているんだ、僕は。
頭を振り、脳内に分泌されたアドレナリンを散らす。
冷静になろう。変に興奮状態だと、ケガをする恐れがある。
あくまでもクールに、だ。
僕はちらりと犬を振り返る。何を考えているのか相変わらずわからなかったが、犬はじっと僕を見ていた。
はぁーっとため息を吐いて、粗大ごみに手を伸ばす。
触りたくはなかったが、仕方がない。
ひとつひとつ、ゆっくりとごみを動かしていく。取り除いたごみを脇に置き、また次のごみへと手を伸ばした。
そうして、時間と体力をかけて粗大ごみの山を崩していると、またうめき声が聞こえてきた。
近い。かなり近くから聞こえてくる。
正直自分の行動に対して半信半疑だったが、そこまでくると何かがいるという確信を持てる。
何がいるんだろう?
うめき声のような声を聞きながら、ごみを取り除く作業を続行する。
じっとりと汗が流れてくる。ひとりでやる作業ではないことに、ようやく気が付いた。
気が付いたからといって、今さらなのだが。
「それにしてもなんなんだよ、ここは」
僕は愚痴りつつ、作業を続けた。そろそろ腕がパンパンだ。
限界だと感じていると、ふと足下で何かがうごめく気配がした。
足首のあたりに、やわらかな何かが触れる。
ぞっと背筋に悪寒が走った。思わず、手にした箱を取り落としてしまう。
尻もちを突き、その場に倒れ込む。すると、粗大ごみの山の上の方からいくつかのごみが落ちてきた。
僕のすぐそばに。
あ、危なかった……。
僕は側に落ちてきたそれに視線を向ける。もし後少しずれていたら、僕の上に落ちてきていたかもしれない。
そんな想像が浮かび、全身が強張った。
運がよかった。本当に。
僕は意識して、ゆっくりと大きく息を吐いた。そして、大きく息を吸う。
強張っていた全身が弛緩するのが感じられた。
大丈夫。僕は無事だ。どこもケガなんてしていない。
そう、自分に言い聞かせると、立ち上がる。
それにしても、あれは一体何だったんだ?
先ほどの出来事を思い出す。明らかに何かがいた。
「……玄関の方か」
僕はついさっき入って来たばかりの玄関の方へと視線を向ける。
あの毛玉っぽいのはそちらの方へと向かったようだ。
どうしよう……僕が悩んでいると、僕の作業を命じた(と僕は思っている)犬はさっさと玄関へと向かっていく。
用がすんだらこれか……。
全く……と僕は呆れながら、犬の後を追う。
どちらにせよ、さっきの生物の正体を見届けないと気がすまない。
生物かどうかもわからないけれど。
小走りで玄関へと向かう。
もはや役割を果たしていない門から外へ出ると、誰かがいた。
「どこに行ってたの? 心配したんだから……!」
僕は立ち止まり、その人をじっと観察する。と、その誰かは僕が出てきたことに気付いたのか、その人が振り返る。
「……ええと」
困ったように笑っている。もちろん、僕も困っているわけだが。
さてどうしたものだろう、と思っていると、僕の隣で「ワン!」と犬が吠えた。
「ジョン? なんでこんなところに?」
お姉さんはますます困惑したように、眉間のしわを深くする。
まあそうだろうとは思うのだけれど、僕としてはこれ以上の面倒事はごめんだった。
ただでさえ疲れたというのに、これ以上あれやこれやと言われるのは勘弁してほしい。
「えっと……これにはわけがありまして」
どう説明したものだろう。バカ正直に言ったところで、信用してもらえるだろうか。
それとも、頭のおかしい子供と思われてしまうだろうか。それでも不都合はないのだけれど、なんだかすごく嫌だった。
とはいえ、うまい言い訳なんてすぐに思い浮かぶはずもなく、あわあわとしてしまう僕であった。
どうしたものだろう、本当に。
「あの……もしかして真壁君?」
「うえ?」
なんで僕の名前を知ってるんだ? 面識はないはずだけれど。
「ああ、ごめんね。実はさっき神谷さんって女の子と会ってね」
お姉さんはなぜ僕の名前を知っていたのか、そのいきさつを話してくれた。
簡単なことだ。神谷先輩と会い、事情を聞いた。ただそれだけのこと。
話を聞いてみれば、なんらおかしなことはなかった。どこから個人情報が漏れたのかと思ったから、ほっとした。
「ええと、その子はあなたの……」
「ええ、そう。太郎っていうの」
太郎……ね。
内心で笑ってしまう。だって太郎って。
僕はかたわらに座る犬――もといジョンへと視線をやった。
ジョンも僕を見ていた。
おまえの方がよっぽど太郎って感じなのにな。
僕はお姉さんの独特のセンスにおかしさを感じつつ、ほっと胸を撫で下ろした。
3
後日譚。
あの後、ジョンと太郎は無事それぞれの飼い主のところへと帰って行った。
僕はといえば、一応神谷先輩に連絡を入れてから家に帰った。
なれない作業をさせられて、すごく疲れていた。母さんが何やらうるさく言っていたが、ぼうっとした頭でまともに聞けるとも思えなかったので聞き流した。
そして二日間、僕は図書室に足を運ばなかった。
別に理由らしい理由もなかったけれど、強いて言うのならなんとなくだ。
そして今日、僕は図書室に来ていた。
相変わらず、放課後の図書室は閑散としている。
まあこの静かな雰囲気は嫌いじゃないけれど。
「ところで、先輩はどれくらいわかってたんですか?」
「え?」
僕が訊ねると、神谷先輩はぱちくりと瞳を瞬かせた。
質問の意図がわからなかったのかなんなのか。
何にせよ、もう一度訊かなければダメなようだ。
「あの犬の騒ぎのことですよ。先輩は全部視えていたんですか?」
もう一度訪ねると、神谷先輩は少し考えた後、首を振った。
「違うよ。わたしが視えていたのは、ただワンちゃんが事故に遭ってしまうっていうことだけ」
「……じゃあなんで」
「んー……たまたまの部分が大きいけれど」
神谷先輩は手にしていた本を閉じ、窓の外へと視線を向ける。
僕はそんな先輩の横顔を、じっと見ていた。
綺麗な耳の形と、太陽の光を反射してキラキラと輝く長いまつ毛。
すごく画になるな、と思いながら、先輩の返答を待つ。
「わたしがやったことと言えば、飼い主さんに大まかな場所を教えたくらいかな。知ってるでしょ? わたしの力はそれほどすごいものじゃないって」
もちろん覚えている。けれど、そんなのは僕にはわからない。
それに、もし本当に先輩の言う通り、先輩の力が大したことがないのだとしても、だ。
常人たる僕から見れば、それは超常現象にも等しいのだから、先輩の言うことをまともには受け取れなかったりする。
何が言いたいのかと言えば、僕にとって神谷雫はやはり、すごい人だといいうこと。
「だからまあ……最後には飼い主さんの愛情のおかげってことになるのかな?」
先輩はどこか気恥ずかしそうに笑いながら、そう締めくくるのだった。
何か反論してやろうかという気持ちもあった。が、やめておこう。
当の神谷先輩自身がそう言っているのだから、僕が口を出すことじゃあない。
「じゃあ、まあそういうことで」
それに、いいじゃないか。飼い犬と飼い主の愛情物語。僕は好きだ。
きっと、神谷先輩も好きだ。
僕は頬杖を突いて、窓の外を見る。
「ああ……気持ちのいい風ですね」
「うん、そうだね」
空は、どこまでも晴れ渡り、澄んでいた。
そして僕は、今だに筋肉痛が取れずに若干困っていたのだった。
end.
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