第五話 伝えたいことは、伝わらない。
魔法使い。そんな言葉を聞いたところで、現実味などあるはずもなかった。
そもそも、魔法使いとはなんだろうか。ゲームやアニメに出てくるような、あんな存在だろうか。
否。神谷先輩が魔法使いと言われたところで、それらとはイメージが噛み合わない。
神谷先輩が誰かや何かと戦っているシーンなんて想像もできなかった。
だとするなら、皐月先生がデタラメを言っているということになる。
魔法使いなどという存在なんてなく、全てはただの偶然で、僕を煙に巻くために口から出まかせを言った。
そう考える方が、しっくりくる。
「でもなあ……皐月先生がそんなことをするだろうか」
僕は溜息とともにそう独り言ちた。
入学してまだ間もない身の僕としては、皐月先生の人間性を理解しているとは言えない。
先生の人柄に付いては、ほぼ何も知らないのだ。
とはいえ、こんな真面目な場面で変な冗談を言う人だとも思えなかった。
学校の屋上……は立ち入り禁止になっているので、屋上へと続く階段。
そこで僕は一人、考え込んでいた。何が正解なのか、いまいちよくわからなくなっているけれど。
「先生は何が言いたかったんだ?」
先輩は魔法使いである。それ以上の説明はなかった。
信じ難いことを、さらりと言って僕を混乱させただけだった。
もしや、この混乱している状態が先生の狙いだった、というのだろうか。
事故の調査から手を引かせるために。
ぐるぐると思考が回り、まとまらない。
「こんなところにいた」
頭を抱えていた僕の頭上から、ここ最近聞き慣れた声が振ってきた。
顔を上げると、そこにいたのはやはりというか、霧崎先輩だった。
「何をしているのよ、こんなじめじめしたところで」
「何をしていた、というわけではないんですが」
ただ、何の意味もない思案を繰り返していただけだ。
そう言うと、霧崎先輩ははあと溜息を吐く。なんだか、妙に居心地が悪かった。
「そんなことだと思ったわ。……ま、全然成果らしいものはないのだから、仕方ないのだけれど」
霧崎先輩は肩を竦め、首を振る。
僕は先輩の顔をまともに見ることができずに、俯いた。
「僕は……皐月先生に言われました。余計なことはするなと」
「ええ、それはわたしも言われたわ。皐月先生は何を考えているのかしら?」
先輩の声音には、剣呑とした雰囲気が混じっていた。
先生の、ともすれば冷徹とも取れる言動に苛立っているのかもしれない。けれど、それもしょうがないことだと思う。
先輩の立場からすれば、親友に怪我を負わせた人間を放っておくことなどできないのだろう。僕が先輩の無実を信じているように。
そして、皐月先生によって僕の中の疑念は払拭された。
すなわち、神谷先輩は何も悪事を働いてなどいなかったのだ。最初から分かっていたことだけれど。
「それで、これからどうするんですか?」
「どうするって、そんなの決まっているわ」
霧崎先輩はさっと髪をかき上げる。
「調査は続けるわ。わたしのやり方でね」
僕は顔を上げ、霧崎先輩を見た。
その固い決意を孕んだ瞳は、真っ直ぐに僕を見つめる。
眩しい、と正直に思った。この人は、思い込みが激しく突っ走るタイプの人だ。
けれど、それがこの先輩の持ち味なのだと思えた。
「真壁、君はどうするの?」
「僕……?」
「ええ。……このままでいいと思っているわけではないのでしょう?」
「まあ……しかし」
できることはなかった。
皐月先生の話が全て本当なら、神谷先輩には僕たちにはない能力がある。
それは、未来を見通す力。その力のお陰で、小門先輩は事件の被害者にならずにすんだのだとも言える。
その代償が大きいか小さいかは、当人たちにしか分からない。
「わたしは続けるわ。このまま引き下がるわけにはいかないもの」
「このまま引き下がる?」
「……わたしのところにも、皐月先生が現れたわ」
そう言うや否や、霧崎先輩は眉間に皺を寄せた。
よほど、皐月先生の言い方が腹に据えかねているのだろう。苛立たしげに体を揺する。
「なぜあの子があんな目に遭わないといけないのか、納得ができない」
「それは……まあそうですよね」
僕だってそうだ。神谷先輩はおそらく心に傷を負ったはずだ。
小門先輩を助けようとして、でも助けられなかった。先輩はどれだけ傷付いただろう。
そのことを想像すると、僕は胸の奥がピリッとした。
「皐月先生には止めるように言われたけれど、わたしは止めないわ」
その宣誓は、スッと僕の耳に入ってきた。脳みそ全体に染み渡るようだ。
当然だ、と僕の中の何かが頷く。僕はそれを受けて、不思議な感じがした。
「……そう、ですよね。その通りだ」
ここで投げ出していては、先輩のことを知るなんてできない。
霧崎先輩の誤解を解く。そして神谷先輩には学校に出て来てもらおう。
そうしてようやく、全てが丸く収まったと言えるのだろう。僕はそう思うから。
「僕も続けます。神谷先輩の無実を証明してみせる」
「その意気よ」
霧崎先輩はニッと口の端を釣り上げ、笑っていた。
何を考えているのか、いまいち掴みどころのない人だが、悪い人ではないことは確かだ。
思い込みは激しいが、親友のために行動を起こせるくらいだから。
「……ここからは、別行動にしませんか?」
僕の提案に、霧崎先輩は驚いたようにその大きな瞳をぱちくりさせていた。
「え、ええ。別に構わないけれど、いいの?」
「というと?」
「別行動ということは、君はわたしを見張っている、なんてことはできなくなるけれど」
「問題ないでしょ」
この人はただ、自分の衝動のままに動いているだけだ。
自らの内から聞こえてくる声を頼りに、自分の中の正義を信じて。
「例えどんな結末でも、先輩はちゃんと事実を受け止められる。そういう人です」
「おお……」
先輩はまたもや目を見開くと、顔を逸らした。
「それは……褒められていると思っていいのかしら?」
「もちろん。僕は先輩を尊敬します」
「……では、その気持ちはありがたく受け取っておくわ」
霧崎先輩はなぜか、顔を逸らしたままそう言って、僕に背を受ける。
そのまま、スタスタと足早にどこかへと言ってしまった。どうしてだろう?
ま、いいか。
僕はふっと胸の中のもやもやがなくなったことを実感していた。
自分がどんな指針を持って行動していけばいいのか、それがなんとなく分かった気がしたからだろう。
僕は霧崎先輩に感謝の意を抱いていた。
最初の印象とは裏腹に、今はそれなりに色んな面を知ることができている。
人は第一印象だけでは測れない、というのが今の僕の考えだ。
「……それは、神谷先輩も同様か」
先輩の正体。皐月先生から聞いたそれは、僕にとってにわかに信じられないことだった。
目を閉じる。先輩とともに過ごしたのはほんの短い間だけだった。
その間だけでも、僕は先輩の人となりを知ることができた。
そして、先輩のすごさの秘密を知った。
――未来を見通す能力。果たして本当のことだろうか。
皐月先生は、僕に対して嘘を言ったのではないだろうか。そんなことをするメリットが先生にあるとは到底思えないけれど。
しかし、あまりに非現実的だ。
「……先輩に直接確かめてみるのがいいのだろうな、こういうのは」
確かめて、本当のことを知りたいと思う。
もし、先輩が自分のことを魔法使いだと言ったとしたら、信じよう。
「……とはいえ、どうやって?」
僕は改めて、途方に暮れていた。
先輩の家に直接乗り込むのがいいのだろうが、いかんせん僕は先輩の家の住所を知らない。自宅を訪問しようにも、どこへ行けばいいか分からないのだ。
先生の内の誰かに聞けば分かるだろうか? その場合、まず間違いなく皐月先生に伝わることになるだろう。
そうなったら、止められるかもしれない。その時に、僕は自分の信念を貫き通せるだろうか。不安しかない。
それでも、やるしかないわけだが。
「しっかしなあ……」
「どうしたの? 悩みごと?」
僕が頭を抱えていると、突然頭上からそんな声が聞こえてくる。
顔を上げ、声のした方を見るとそこには春日井さんの顔があった。
にっこりと微笑みながら、僕を見下ろしている。その距離のあまりの近さに、僕は内心でドキリとした。
「あっ……ええと、悩みごとというか……その」
僕はしどろもどろになりつつ、立ち上がる。と、春日井さんとぶつかりそうになってしまったが、ぎりぎりのところで回避に成功した。
「神谷先輩のこと……なんだけれど」
「神谷先輩……そうなんだ。そういえば、最近学校に来ていないらしいね」
「そうなんだ。色々あって先輩は来てないらしいんだけれど、僕としてそれをどうにかしたいと思ってるんだ」
春日井さんの瞳が、不思議そうに見開かれた。
んん? 何かまずいこと言ったかな?
「……病気とかじゃないの?」
「え? まあうん。……先輩も色々あるみたいで」
先輩がなぜ学校に来ていないのか、春日井さんは知らない。
理由を、言ってしまっていいのだろうか。それとも、おいそれとは口にしない方がいいのだろうか。その判断が難しかった。
「まあ……色々あるみたいだよ、色々」
「そう……なんだ」
数瞬悩んだ末、僕は言わないことにした。
色々ある、と連呼している僕を、果たして春日井さんはなんと思っただろうか。
でも、考えてもみて欲しい。先輩は魔法使いだなんて話、普通は信じない。
信じられないことを話されても、困惑するだけだ。春日井さんを困らせるつもりなんて、僕にはさらさらなかった。
「でも、病気とかじゃなくてよかったよ」
春日井さんは目許を綻ばせて、微笑んでいた。
本当に、心の底から先輩のことを心配している。そんなふうに思えた。
だから、僕もつられたように笑顔になる。ありがたいと思う。
「で、どうするの? お見舞い、行くの?」
「あー……ええと」
どうするべきか、僕はきめあぐねていた。
それというのも、皐月先生に再三に渡って警告されたということもある。それに、先輩の自宅を僕は知らないということもある。
だから、お見舞いに行くべきか否か迷っていた。行ったところで、何ができるというわけでもないだろうし。
「そういえば、二年生の先輩にもう一人、学校に来てない人がいるらしいね」
「そう……小門先輩」
「へえ……知ってるんだ」
一瞬、ぞくりと背筋に悪寒が走った、ような気がした。
バッと、慌てて春日井さんを見やる。が、彼女は何でもないようにすまし顔だった。
僕の、気のせいだったのだろうか?
「知ってる、というよりは話を聞いただけだけれどね」
会ったこともない先輩だ。
危うく、性犯罪に巻き込まれそうになった人。けれど、それを神谷先輩が助けた。
そして、現在入院中。……端々だけ切り取ってみると、ちょっと意味が分からない。
「……お見舞い、行ってみようかな」
「え? ……本気?」
僕の呟きに、春日井さんは困惑気味に顔を引きつらせていた。
何はともあれ、僕はお見舞いに行くことに決めたのだった。
入院中の小門先輩の、お見舞いに、だ。
1
小門先輩へのお見舞いには、なぜか春日井さんが同行することになった。
それは、僕としてはありがたいことなのだけれど、やはり疑問は拭えない。
どうして、春日井さんは僕と一緒に来るつもりになったのだろうか。わからない。
それはそれとして、お見舞いに行くにあたってどうやって行こうかという話になったのだった。僕は小門先輩とは面識がない。春日井さんは言わずもがな。
入院している病院も分からないし、誰か小門先輩の知り合いと一緒に行けばいいのだろうけれど。
となると、やはり霧崎先輩を頼るしかなくなるわけで。
「……なるほど。それでわたしのところへ生きたわけね」
先輩はじとっと目許を細め、口をへの字にする。
ずいぶんと態度が悪かった。これまでの活動から、それなりに信頼関係は築けていたものだと思っていたので、この反応には素直に傷付く。
「ええと、ダメ……ですか?」
僕が訊ねると、先輩は眉間の皺を更に深くして、考え込んでいた。
「……ダメ、ではないとは思うけれど、そこの君も一緒に行くのよね?」
「はい。彼女は僕と同じ一年生で」
「春日井姫っていいます」
春日井さんは自己紹介をして、ぺこりと頭を下げた。
先輩に対しての態度は申し分ないと思う。少なくとも僕よりは。
「……霧崎アユよ。ちょっと訊きたいのだけれど、いいかしら?」
「な、なんでしょうか?」
春日井さんは若干緊張した様子で、ピッと背筋を伸ばしていた。
「君は神谷雫とは知り合い?」
「えっと、知り合い……です」
「そう。でも、それほど親しくはないのよね?」
「まあそうですね」
春日井さんは一瞬だけ視線を彷徨わせると、すぐに頷いた。
「じゃあなんで、こんなことに協力する気になったのか、教えてくれる?」
「こんなことって……」
春日井さんは困ったようにまゆ根を寄せ、僕を振り返った。
えっと、何が言いたいのだろう? なぜ僕を見るのか。
春日井さんが何を求めているのかは分からなかったが、とりあえず頷いておいた。
そう、意味深に。
「……彼が、困っていたので」
「なるほど、好いた男のため、ということか」
ボンッと春日井さんの顔が耳まで真っ赤になった。ああ、そういうことか。
春日井さんはこの会話の流れを警戒していたのだ。恥ずかしいから。
そしてそんな反応を見せられると、僕も恥ずかしい。全身の血が沸騰しそうになる。
「ええと……まあ大体そんなところです」
以前、春日井さんからは好きだと言われたことがあった。
霧崎先輩の言葉を否定しないあたり、そこは変わっていないらしい。むむう。
「……ダメよ」
「なっ――どうしてですか!」
あれだけ恥ずかしい思いをさせられて、拒絶されてしまった。
そのことが原因なのだろう。声を荒げる春日井さんというのも珍しく思う。
「君が彼に対して好意を抱いているのは勝手だけれど、今回の件に関してはかかわって欲しくはないわ。感情は、冷静な判断を鈍らせるのよ」
激しくブーメランな気がしないでもなかったけれど、先輩の言うことは一理ある。
今回のことは、事態が事態なだけに、冷静に進めなければならないだろう。
何せ、神谷先輩の今後にひどく影響を与えることになるかもしれないのだから。
「なるほど。それは分かりました」
春日井さんは納得した、という様子ではなかったけれど、一先ず飲み込んでくれたようだ。
そのタイミングを見て、僕は口を開いた。
「では、春日井さんには退出してもらいます。ので、僕だけに教えて下さい」
「教える……何を?」
霧崎先輩は眉間に皺を寄せ、訝しげに呟いた。
僕はすぅっと深く、息を吸い込む。なんだか緊張していた。
春日井さんに目配せする。春日井さんは浅く頷くと、僕の言葉通りにしてくれた。
これで、今この教室の中には僕と霧崎先輩だけだ。これなら、聞きたいことも聞き出せるだろう。
春日井さんの背中がドアの向こうに消えたことを確認して、霧崎先輩は机に頬杖を突いた。苛立たしげに、僕を睨み付ける。
「それで? 君は一体わたしに何を聞きたいのかしら?」
「小門さんの入院されている病院の場所と部屋の場所。それから、小門先輩にアポを取って欲しいんです」
「……そんなこと、わたしが協力するとでも思っているの?」
「それは……まあ難しいんじゃないかとは思っていますよ」
僕は先輩の視線に耐えられなくなって、目を逸らした。
「でも、ここまで何の成果も得られなかった。なら、後は小門先輩の証言が頼りです」
「……いいえ。無理ね」
「なぜか訊いても?」
無理矢理、霧崎先輩と視線を合わせる。
先輩の湿り気を帯びた視線が、僕をこの場から遁走することを促す。が、それをすれば、もう二度と今回の一件に関わることはできないだろう。
何となく、そんな予感がしていた。
霧崎先輩は真っ直ぐ僕を見据える。
その視線を受けて、僕は胃の底に何かが沈殿していくような感覚を得た。
すごく、嫌な感覚だ。今すぐこの場から逃げ出してしまいたいと思ってしまう。
けれども、それは許されないことだった。それをしてしまえば、僕は二度と神谷先輩に顔を合わせることができなくなってしまう。
だからこそ、ぐっと踏み止まる。ここまでの、僕の歩みを無駄にしないためにも。
「わたしは今でも、あの子の怪我は神谷雫のせいだと思っている。彼女が何かをしたから、あの子は大怪我を負うことになった。その考えに変わりはないわ」
「でも、それは間違っていて」
「それを決めるのはわたしよ」
はっきりと、霧崎先輩はそう言った。そう言って、憚らない。
警察の結論は出ている。しかし、それはこの人にとって真実足りえないのだろう。
もし、真実足りえるのだとしたら、それはこの先輩自身が出した結論だけなのだ。
思い込みの、激しい人だから。
「あなたとここまで一緒に行動してきたのは、人手は多い方がいいという判断からよ」
そして、霧崎先輩が考える神谷雫という人間を僕に知らしめるため。
けれど、その二つの理由はここに来て破綻している。いくら僕が一緒に調査をしたところで、所詮素人の行為。何らかの成果を得ることはできなかった。
「けれども、君の言う通り何の成果も得られなかった」
霧崎先輩は意気消沈した様子で、溜息を吐いた。
椅子に座り、机に突っ伏した。落ち込んでいるようだ。
「何をすれば、これ以上のことができるのか分からないのよ。ただひとつ……」
「ひとつ?」
「あの子にだけは、これ以上の心労はかけられない。何せここまで色々と苦労を負ってきたのだから」
「何……を?」
何を言っているのだろう、この人は。
苦労は確かにあったのかもしれない。入院するほどの大怪我を負ったのだ。苦労して当然という気もする。
なのに、先輩の口振りだと今回の一件とは別の何かを指しているようにしか聞こえなかった。
それは……一体何だというのだろう。僕の知り得る日は来るのだろうか。
きっと、来ない方が幸せなのだろうけれど。
「とにかく、この話はこれでお終い」
パンッと机を叩いて立ち上がる先輩。
ツカツカと出口へと進み、教室から出て行く。春日井さんが驚いた様子で目を丸くしていたが、霧崎先輩はちらりと見やっただけで何も言わず立ち去ってしまった。
交渉は決裂した。僕はそう思った。
思うと同時に、言いようのない絶望感が胸の内に漂い始める。
「……大丈夫だった?」
春日井さんの労わるような声が耳に心地いい。それだけに、余計に今回の失態はズシンと肩に重く伸し掛かってくる。
僕は春日井さんへと視線を向ける。にへら、と出来るだけ笑顔を作った。
おそらく、かなり歪な笑顔だったことだろう。そうでなければ、春日井さんがこれほど不安そうな顔をすることもないように思う。
「はは……ダメ、だったよ」
果たして、僕はどれくらいみじめな顔をしていたことだろう。
2
さて、どうしたものだろうか。
僕は今だ、学校にいた。屋上へと続く階段。人気のないそこには、僕と春日井さんしかいなかった。
立ち入り禁止の立て札の前の階段に座り込み、頭を抱える。
断られてしまった。その事実は、僕を憂鬱にさせる。
さすがに、見ず知らずの僕たちがいきなり病室を訪ねたところで、素直に会ってもらえるとは思えなかった。
霧崎先輩の知り合いと言えば会ってもらえるだろうか? しかし、それも望みが薄い。
僕としては、何としても小門先輩に会いたいところだ。会って、話を聞きたい。
事件(実際には事故として処理された)の日に、一体何があったのか。
「……霧崎先輩は、神谷先輩が犯人だという証拠を手に入れて、何を伝えたいのかな?」
春日井さんがぽつりと呟いた。僕は顔を上げ、隣に座る彼女を振り返る。
確かに。神谷先輩と小門先輩の一件は警察が結論を出している。
それを、いくら気に入らないからといってほじくり返すだろうか。
そこが分からないところだ。実際、霧崎先輩は何を考えて行動をしているのだろう?
警察の出した結論がどうのという問題だろうか。
事態は、とっくにそんなこととは別の次元に移っているのではないだろうか。
「例えば、これは既に霧崎先輩の中のプライドに関わる問題にすり替わっている、とか」
春日井さんはありそういにもない仮定を述べる。
僕は「まさか」と首を振って見せた。いくら何でもそれはないだろう。
と、口では否定して見せたが、実際のところは分からなかった。霧崎先輩は何を考えているのか。
きっと、それが分かる人物とはこの世で一人だけだ。
小門鏡花先輩。やはり、彼女に話を聞かないことには進展はないと思われた。
「それができれば苦労はないんだけれど」
春日井さんの仮説はあまりに荒唐無稽に思えた。ありていに言って現実味がない。
確かに、霧崎先輩は正確に少々難ありな人物ではあるが、この同級生が言うほどの愚物とは思えなかった。
そのあたりも、小門先輩に話を聞ければ氷解するのだろうけれど。
件の小門先輩にコンタクトを取ることが、目下非常に困難にミッションだった。
「……どうしたらいいんだろうね」
答えを求めていたわけではないが、僕は春日井さんへと視線をやった。
春日井さんは考え込むようにして、あごに手を添えている。その様は普段の天真爛漫な様子とは打って変わって、かっこいい。
「えっ……ああ、ごめん、何だった?」
「いや、何ってほどのことはないんだけれどね」
春日井さんの思案を遮ってしまったことに、申し訳なさを覚える。
彼女には全くと言っていいほど関係ないことのはずなのに、これほど真剣に考えてくれているのだ。だというのに、僕ときたら。
霧崎先輩にも言っていたけれど、僕のためにやってくれているのだろうことは分かっている。彼女が、僕のことを好きだということも。
しかし、好きとは一体どういうことだろう? 何を持って、好きだと言えるのだろうか?
僕にはまだ、そのあたりが分からなかった。分からないものに、性急に答えを求めるのは危ないことだと思う。
だから、僕としては春日井さんのことに関しては先送りというか、結論を出せずにいる。
漫画の主人公とかなら、もっとスッパリと決断できるんだろうけれど。
それは置いておいて。
「……これは、ちょっと強引な手段を取るしかないね」
「強引な手段……とは?」
「んー……そうだなあ」
春日井さんはニッと口の端を釣り上げ、天井を見上げる。
その仕草と表情から、僕は何となく悪い予感を覚えた。
おそらく、ろくでもないことを考えているであろうことは、明白だ。
「あの……ちょっとその強引な手段の内容を訊いても?」
「まあ、わたしに任せてよ」
トンッと春日井さんが胸を叩いた。すごく、自信たっぷりの笑顔で。
なんだか、嫌な予感しかしないんだけれど。
3
強引な手段と言ったところで、実際に強引な手段に出ることは早々ない。
実際には、ある程度社会規範に乗っ取ったからめ手を使うものだからだ。
春日井さんにしても、そうだろうと思っていた僕は甘かったのかもしれない。
僕たちが今いるのは、市内にある総合病院の前。
「えっと、春日井さん……僕たちは一体何を?」
面会時間は過ぎているはずだが、消灯の時間までは間があるのだろう。ポツポツと個室の電気が点いていた。
そもそも、看護師や医師が何人か常駐しているはずだから、完全に真っ暗闇になることはないのだろうけれど。
「もちろん、不法侵入」
ニコッとすごくいい笑顔でとんでもないことを言われた気がする。
「不法侵入って、どうやって……」
僕は私立病院の建物を見上げ、首を傾げる。
僕たちは何の変哲もない、ただの中学生だ。もちろん、法律を犯したことなんてない。
そりゃあ、多少のいたずらをしたことはあったかもしれないけれど、それらとはスケールが段違いだ。
何せ、不法侵入。今から法律を犯そうとしているわけだから。
警備は……まあ普通といったところだと思う。けれど、それはそれだ。
ドクンドクンと心臓がうるさく鳴り響く。沈まれ、沈まれと念じるが、僕の願いは届かない。意識すればするほど、より鼓動が強くはやくなっているような気がする。
こんなことはだめだ。止めなければ。そう思うのに、体が言うことを利かなかった。
これからやろうとしていることに対する非日常感が、僕を更に興奮させているのだろうか?
いやいや、僕はそれほど悪い人間ではなかったはずだ。
僕は首を振り、その考えを追い出す。そして、やはりこんなことは止めようと言うことにした。
「あ、あのさ……」
春日井さんを止めようと、手を伸ばす。が、スカッと空を掴むだけで、彼女の腕を捉えることはできなかった。
なんで? と顔を上げる。すると、既に春日井さんは塀を乗り越え、病院の敷地内に侵入していた。
ちょっと目を離した隙に……なんて行動力だ。
「ほら、真壁君もはやく」
春日井さんが手招きをしてくる。僕としては、こんなことに加担するのはごめん被りたいのだけれど。
「神谷先輩の疑いを晴らすんでしょ」
「うー……分かったよ」
ここは、諦めて彼女の作戦に従っておこう。これを作戦というのなら、だけれど。
春日井さんに続いて、塀を乗り越える。かなり苦労したが、なんとか侵入に成功した。
「それで、これからどうするの?」
春日井さんに顔を寄せ、小声で訊ねる。ちょっと気恥しかったけれど、僕たちの立場を考えるとあまり大きな声も出せないので仕方がない。
「うっ……ちか」
「ん?」
「ううん、なんでも。そうだね……このまま消灯時間を待ってよ」
「まじか」
実際、何時に消灯時間を迎えるのだろう?
「事前に調べたけれど、消灯は九時半だって」
「九時半……」
ということは、後十分足らずで消灯ということだ。
その時間を待って、春日井さんは侵入しようという心づもりらしい。
「本当にうまくいくだろうか」
不安で仕方がなかったが、他に方法もない。
何より、これ以上の成果を期待するのなら、こういった行動も不可欠になってくるのだろう。……そう、信じている。
半ば自分を正当化するための理由付けにしているようだったが、それも仕方のないことだろう。
なぜなら、僕たちは今から……というか既に犯罪を犯しているのだから。
大丈夫かな? 怒られるのは絶対だとしても、それほど悪いことにはならないといいんだけれど。
などと考えていると、春日井さんが歩いていく。
僕は慌てて、その背中を追い駆けた。
もはや、肝が据わっているとか、そんなレベルの話ではないような気もするけれど、それでも何も言わなかった。
さて、一体全体どうなるのだろう。
4
病院内には、思いの他すんなりと侵入ることができた。
夜。人影はまばらだ。とはいえ、そこで働く大人たちはみんな忙しそうにしていた。
当然だ。ここには、たくさんの人が入院している。昼も夜も関係ない。
見付かる可能性は大きい。どうするつもりなのだろう。
「……わたしに付いて来てね」
春日井さんは小声で、指示を出してくる。僕は素直に頷いた。
この場は春日井さんに従うのだと決めた。なら、腹を括るしかない。
じっと、春日井さんは様子を窺う。
僕たちがいるのは、病院の裏手にある庭だった。
昼間はおそらく、入院患者を連れてきたり、散歩をしたりするためにあるのだろう。
「……よし」
春日井さんが動く。僕も、彼女の後に続いた。
向かった先には、扉があった。ここは、庭と院内を繋ぐ扉なのだろう。
その扉の隣に張り付く。と、再び様子を確認する。
僕と春日井さんを照らすのは、病院の証明と月明りだけ。
薄暗がりの中でのスニーキングミッション。映画のワンシーンのようで、どきどきする。
「それで、次は何を?」
僕はたまらず、春日井さんに訊ねる。すると、春日井さんはあごに手を添え、考えていた。
んん? まさか、ここまでたまたまうまくいっていただけ、なんてことはないだろう。
この道中は、おそらく春日井さんの作戦通りだったはずだ。運よくここまでこれた、なんたことはない……と信じたい。
次なる妙案が彼女の中にあるはずだ。それを教えてくれればいいのだけれど。
「まあ後は様子を見ながら流れ……かな?」
にへら、と笑う春日井さん。僕は言葉を失ってしまっていた。
いや……だって、ねえ。
何の代替案も出さない僕が言うのも何だけれど、ここまで来てそれは、あまりにも。
「……仕方ないね」
とはいえ、ここまで来てしまった以上は僕も男だ。腹を括ろう。
扉に耳を当て、中の様子を窺う。ここから入るとすぐにエントランスになっているようだ。
そこで面会等の受付を済ませたり、待合室になっていたりするのだろう。
けれど、今は夜の九時を過ぎている。当然、人の気配はあまりない。
あまりない、ということは、全くないというわけではない。
やはり、人の話し声や足音は聞こえてくる。ナースのお姉さんたちがお仕事中というわけだ。これはちょっと突撃できないな。
「たぶんもうちょっとしたら、静かになると思うよ」
「どうして……」
どうしてそんなことが分かるんだ? そう訊こうとしたが、止めた。
バタバタバタッと足音がしたからだ。慌ただしく、駆けていく足音。
何人も、そうして急いでいた。一体、何かあったのだろうか。
「何があったんだろう?」
「分からないけれど、チャンスじゃない?」
春日井さんが扉を開ける。下手をすれば見付かるのでは、と思ったが、幸いにして誰も僕たちを見付けることはなかった。
「急変かな? ……都合のいいことで」
その人には悪いけれど、今は運がよかったのだと思っておこう。
何事もないことを祈りつつ、僕たちはナースのお姉さんたちが走って行った方とは逆へと向かう。
小門先輩の病室を事前に調べることはできなかった。けれど、おおよそのあたりは付けられる。
この病院は二階建てだ。
そして大体の設備は一階に集中している。
重病患者も一階に集めているから、即時に対応するためだろう。
なら、大怪我を負っているとはいえ、小門先輩の病室は二階にあると見るのが妥当だろうと思われた。軽傷ではないが、一階に入院させるほどの重傷でもないのは、皐月先生や霧崎先輩の口振りから何となく察することができた。
そして、二階に小門先輩がいるというあたりが付いたのなら、後はしらみつぶしに探していくだけだった。
そんなこんなで、病室の前のネームプレートを確認しながら、僕たちは二階の病室を回っていた。
今は一階の急変した患者の対応に追われているのだろう。二階にはほとんど人影はなかった。
こちらにとっては好都合だったが、病院という場所の性質上、暗くて静かなのは不気味だった。何か話題を探したいところだ。
「……何かあったのかな?」
僕はたまらず、小声で春日井さんに話しかけていた。
春日井さんはちらりと僕を振り返ると、考えるように視線を泳がせてから口を開いた。
「たぶん、誰か具合が悪い人が出たんだと思う。それでバタバタしているんじゃないかな?」
先ほど、僕が思っていたのと同じことを言ってくれた。
そのことが、僕の中に安心感を与えてくれる。何より、会話をすると恐怖が和らぐようだった。
「それにしても、見付からないね」
「そうだね。一体……あっ」
「え? 何、どうしたの?」
春日井さんが立ち止まる。思わず、その背中にぶつかりそうになった。
何とかぶつからずにすんだ。彼女の視線の先を見やる。
小門鏡花の文字があった。つまり、ここが小門先輩の病室だ。
「個室なんだあ……」
感心したように呟く春日井さんに、僕は首を捻った。
個室、だったらどうしたというのだろう? なぜ、彼女はこれほど感嘆しているのか、この時の僕には分からなかった。
とはいえ、小門先輩の病室は見付かった。
僕は早速入ろうと、扉の取っ手に手をかけた。
が、無遠慮に開け放とうとした僕の手を、春日井さんは制してくる。
「え? どうしたの?」
「どうしたのって、ここは女子の部屋なんだよ? なんでそんなに躊躇がないの?」
「女子の部屋って……でもここは病室で」
「それでも、今は女子が使ってるから」
むうっと睨まれてしまっては、返答に窮してしまう。
確かに、ここは僕がデリカシーがなかった……のだろうか?
ちょっと腑に落ちない部分はあるが、言い合いをするようなことでもない。
僕は両手を合わせ、ごめんとジェスチャーをする。伝わったらしく、春日井さんはこくんと頷いた。
すうっと息を吸い、春日井さんは病室の扉をノックする。
コンコンッと。少しの間があって「はい」と中から声が聞こえてきた。
どこかしっとりとした声だった。ちょっと大人っぽい感じがする。
春日井さんは僕を振り返った。小刻みに体が震えているようだ。
「……入りすますよ」
春日井さんは若干声を震わせながら、扉を開けた。
病室に足を踏み入れる。僕も、続いて入る。
病室の中は、静かだった。一階の騒ぎが嘘のようだ。
「……あなたたちは、誰?」
ベッドの上から、そう問いを投げてくるのは、一人の女子。
肩口まであるやや茶色がかった栗色の髪。不思議そうに僕たちを見詰める大きな瞳。
ちょっとした不安と、多大な好奇心をまとった表情。
この人が、小門鏡花先輩。神谷先輩を除けば、一連の騒動の唯一の当事者。
「えと……わたしたちは、その」
さすがに、春日井さんは慌てふためいてた。そりゃあそうだ。
それに、ここは僕の口から説明するべきだろう。
僕は春日井さんの肩に軽く振れ、前へと出た。
「僕は真壁陸といいます。こっちは春日井さん。小門、鏡花先輩ですね?」
「先輩……君たちは私の後輩なの?」
小門先輩が身を固くしているのが分かった。まあ、さすがに警戒もするか。
何せこんな夜中に突然現れたのだから。
「霧崎先輩から、入院していると聞いて来ました」
「アユちゃんから?」
小門先輩の全身から、強張りが多少取れたような気がした。
嘘は言ってないから。嘘は言っていないから。
僕は罪悪感に胸がちくちくと痛ませながら、自分に対して言い訳をする。
「こほん……実は、僕たちはあの日の出来事について調べています」
「あの日……」
あの日、というがどの日のことを言っているのか、ピンと来た様子だった。
第一印象的には、あまり察しがよくないだろうとも思ったけれど、そんなこともなさそうだ。これは、話が速いかもしれない。
「あの日のことは……」
あまり話したくないのかもしれない。
考えてみれば、それも当然の話だ。小門先輩からしたら、怖い思いをしたわけだから。
でも、話してもらわなければ困る。そうでなくては、神谷先輩が疑われたままだ。
「話たくないことかもしれません。でも、僕たちに話てください」
「お願いします、小門先輩」
僕たちは出来るだけ真摯に訴えた。小門先輩は困っていた様子だった。
窓の外、たぶん月を見ているのだと思う。あるいは、考え込んでいるのか。
いずれにせよ、このままでは埒が明かない。
「……話をする前に、わたしから質問があるんだけれど」
「質問? えと……何ですか?」
「神谷さんは……元気?」
少し言いにくそうに、その質問を口にする小門先輩。
その表情からは、どこか罪悪感が読み取れるようだった。
なんだか、霧崎先輩の話と噛み合っていないような気がする。まああの人の言うことはあまり信用ならないわけだけれど。
「元気、かどうかは分かりません。学校、来てないですから」
僕は正直に、そう答えた。その瞬間、小門先輩の眉間に皺が寄る。
後悔か、それとも何か別の要因か。
ともかく、小門先輩の表情は、曇っていた。悲しんでもいた。
心を痛めている、と言えばいいのか。いずれにせよ、僕には推し量ることしかできなかった。
それに、今は先輩の心情を予測している場合ではない。
「アユちゃんが、何かしてるんでしょう?」
「……どうしてそう思うんですか?」
素直に「はい」とは言えず、僕はそう返答してしまっていた。
場に漂う異様な緊張感。それとともに、居心地の悪さも感じていた。
何より、この人の前で霧崎先輩の話をすると冷や汗が止まらない。
「アユちゃんは昔から、なんというか思い込みの激しい人だったから」
小門先輩はニコッと微笑んだ。けれど、その笑顔はどこか張り付かせたものだった。
くっ……胸が苦しい。なぜ僕がこんな気持ちにならないといけないんだ。
僕は鳴り響く心臓の鼓動を抑えようと深呼吸をした。
「でもね、アユちゃんってあれであんまり頭がよくないの」
「……んんん?」
今、さらりと変なことを言わなかっただろうか、この人は。
「あの……ええと、僕がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、今何と?」
「アユちゃん、馬鹿だから。大目に見てあげて欲しいの」
「馬鹿……」
いくら親友とはいえ、あまりにばっさりと言い過ぎではないだろうか。
ほら、隣の春日井さんも絶句している。いやこれは驚くって。
僕たちは立場的には霧崎先輩とは逆の立場を取っている。
言ってしまえば、敵対者に当たるわけだ。言い過ぎだろうけれど。
「わたしはね、アユちゃんにも言ったんだけれど、あまり無茶をして欲しくないの」
「無茶……ですか」
「うん」
小門先輩は笑顔のまま、頷く。今度の笑顔は、きっと心からのものだ。
確証はない。ただ、何となくそう感じただけ。
「不思議なことなんだけれど、わたしは怪我のことで神谷さんに何かを思ったりしていない。むしろ、感謝したいと思っているよ」
「感謝……ですか」
「そう、感謝」
「それは……どういう意味ですか?」
「……分からないよ」
小門先輩は俯き加減で呟いた。
僕は思わず、春日井さんと視線を合わせる。分からないと言われても困るのだけれど。
「ただ、何となくそうするべきだっていう予感があるんだよ。……助けてもらったんだっていう予感がね」
変だね、と小門先輩は笑った。
神谷先輩は未来を予知する。そのことを知っているのはこの場では僕だけだ。
それが事実なのかどうかは今だ半信半疑な部分があった。
何せ、ことがことだ。適当なことを言われていたとしても不思議ではない。
それと同時に、そんなことを皐月先生が言い出すのか、ということも思うわけで。
僕としては、どちらを信用するべきか判断に迷っているところだ。
「……どうして、小門先輩は感謝をしたいんですか?」
春日井さんが訊ねる。小門先輩は困ったように、まゆをハの字にしていた。
「えー……さっきも言ったけれど、何となくだよ。どうしてかは分からないけれど、そうするべきだって思うってだけ」
これ以上、会話は先に進まないように思われた。
小門先輩も、自分の中に生じたその考えに、戸惑っているようだったから。
自らに大怪我を負わせた人間に対して感謝の念を抱く。言葉だけを聞くと、まるで意味不明なことのように思われる。
実際、そこだけを切り取ってみるなら、意味不明もいいところだけれど。
「ま、わたしからはこのくらいかな? 君たちは?」
「え? わたしたち?」
水を向けられて、春日井さんは戸惑ったように僕を見た。
元々、彼女には関係のはないことだ。ここは僕が、率先して話をするべきところだろう。
「実は、あの日のことを聞かせて欲しいと思いまして」
「あの日のこと……っていうと、わたしが怪我をした日のこと?」
「はい。あの日、何があったのか。どうして、小門先輩は入院することになったのか」
本題を切り出す。タイミング的に今かどうか怪しかったけれど、仕方がない。
小門先輩は考え込むように、僕、春日井さん、それから窓の外へと向ける。
「あの日は、塾の帰りだった。……そう、こんな月の出た夜だったかな」
先輩に言われて、僕たちは窓の外へと視線をやった。
確かに、月が出ていた。ちょっとだけ欠けていたが、ほぼ丸い月が。
「その日はなんだかすごく疲れていて、早く帰りたかったの。だから、まあ近道しようとして裏道に入ったんだ」
「裏道……」
とは、霧崎先輩と一緒に行ったあの路地のことだろうか。
話の流れからして、おそらくは正解と思われた。
「その時に、誰かから腕を掴まれたの。それが」
「それが、神谷先輩だった、ということですね」
僕が言うと、小門先輩はこくんと頷いた。
先輩は、僕たちへと視線を戻す。それから、ほうっと小さく息を吐いた。
「その時だった。わたしは自転車に引かれそうになったんだけれど」
「じ、自転車に……」
それは大事だ。
自転車に引かれそうになった。字面だけを見ると、一件大したことじゃないように思える。
けれど、実際には大怪我や下手をすれば死亡事故につながりかねないほどのことだ。
確かに、霧崎先輩があれほど怒るのも無理はない。もし、それで小門先輩が死んでしまった日には、神谷先輩は世間からどんなバッシングを受けるか想像するだけで恐ろしい。
あの気弱な先輩が、正気を保てるとは到底思えなかった。
「それは……何と言いますか、先輩が」
先輩が悪いですね、と言いかけて、しかし止められてしまった。
小門先輩は首を振り、小さく微笑む。
「後から聞いた話なんだけれど、あの場所って婦女暴行の現場になりやすい場所なんだって」
「……それって」
「もしかしたら、あのままあそこを通っていたらわたし……なんて考えちゃう」
考えるだけで恐ろしいことだ。自転車に引かれるのとどちらがマシかは議論の余地があるだろうけれど、今の小門先輩的には前者の方がより嫌なことだったのだろう。
それは、先輩の顔を見るだけで分かる。そして、先の発言と合わせるとなおのこと。
「これはわたしの妄想……なんだけれど、もしかすると神谷さんはわたしを助けてくれたのかなってずっと思ってた」
「それは……」
妄想、なんかじゃないですよ。どれほどそう言いたかっただろう。
けれど、僕はそれを言わなかった。口にしたところで、意味がないと思ったからだ。
それに、これは神谷先輩を取り巻く問題だ。赤の他人の僕が下手に口添えしていいものか、分からなかったというのも大きい。
「そのことを、霧崎先輩は知ってるんですか?」
春日井さんの問いに、小門先輩は静かに首を振った。
「さっきも言ったけれど、アユちゃんはちょっと強情なところがあるから。……それに、わたしの言い方も下手くそだったし」
先輩は僕たちを振り返る。
眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「うまく、伝わらないね、こういうのって」
僕は、僕たちは……何となくではあるが、小門先輩の真意を理解した気がした。
もちろん、全部ではない。もしかしたら、ほんの一部だけなのかもしれない。
それでも、彼女が望んでいること。その一端を知ることができた。そう、思った。
強く、思った。
「……霧崎先輩はお見舞いに来てくれたんですか?」
「うん。入院して、すぐに。でも、それからは一度だって来てくれないんだ」
「たぶん、先輩は」
「分かってるよ。アユちゃんが考えていることは」
先輩はけらけらと笑い、手を振る。
「真実を全てさらけ出して、神谷さんを断罪できた時に、とでも思ってるんだよ、絶対に」
「断罪……」
その言葉は、僕の胸に重く伸しかかる。
話を聞く限り、神谷先輩は悪くはない。それどころか、悪人は誰もいない。
なのに、一体どんな罪を裁こうというのだろう。小門先輩も、こうして言っている。
にもかかわらず、だ。
5
病院の中は静かだった。きっと、例の患者さんが落ち着きを取り戻したのだろう。
僕と春日井さんは、来た時と同様に見付からないことを祈りつつ、病院を後にした。
幸いにして、誰からも発見されることはなかった。先生も看護師さんも、みんな疲れたような顔をしていた。大変だったのだろう。
僕も、すごく疲れていた。どっと、全身が重く感じる。
「……なんだか、難しい話になってきたね」
隣を歩く春日井さんの言葉に、僕は頷くだけだった。
「霧崎先輩は神谷先輩を糾弾しようとしている。そうできるだけの証拠を集めようとしている。でも、当の小門先輩はそんなことは望んでいない」
考え込むようにあごに手を添え、眉間に皺を刻んでいる春日井さん。
場違いなようだが、僕は月明りに照らされた春日井さんのその姿を、奇麗だと思った。
「……何を考えているの?」
「大したことじゃないの。ただ、気になったことがあって」
「気になったこと?」
「……ううん、何でもない」
春日井さんは肩をすくめ、首を振る。
「ただ……なかなか伝わらないものなんだなぁって」
しみじみと呟かれるその一言に、僕は同意するより他になかった。
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