第三話 先輩は魔法使い①

 朝、目が覚めると体調が回復したことを実感する。

 昨日まであった気怠さがなくなり、加えて清々しい気分だった。

 僕はベッドの上で体を伸ばした。ああ、いい気分だ。

 昨日は一日の大半を寝て過ごしたから、全身が強張っているようだ。

「……まさか、学校へ行くのが楽しみになる日が来るとは」

 僕は自分の今の心境に、正直戸惑っている。

 これまで、僕にとっての学校というのは別段楽しみな場所ではなかった。

 ただ何となく行って、何となく授業を受け、何となく帰る。それだけの場だ。

 けれど、今朝は違う。今朝は学校へ行くのが楽しみだった。

 理由はあった。東野さんと小早川さんのことだ。

 結局、あの二人の問題は解決を見なかった。しかし、それはそれとして僕は二人のことを多少は助けてあげることができたのだと思う。

 これから先、あの二人が疎遠になることはあるだろう。でも、少なくとも苦い思い出だけが残る、ということはないはずだ。

 再会した時に、あの時はああいうことがあったのだと、笑い合える日が来る。

 ……と、僕は信じている。

 だからまあ、僕は僕ができることを精一杯やって、まずまずの結果を残せたのではないかという自負があった。

 だから、楽しみなのだろう。学校へ行くのが。

 信じられないことだが。

「結局、問題は解決していないわけだけれど」

 まあそれも、時間がおいおい解決していくだろう。

 僕には、出来ることと出来ないことがあるのだ。

 そう自分に言い訳をして、もやっとした気持ちを切り替える。

 今日は学校へ行って、授業を受ける。

 そして、放課後になったら図書室へと出向いて、東野さんたちのことについて神谷先輩に報告する。

 神谷先輩、どうしていただろう。僕が休んでいた間。

 神谷雫先輩。僕の一つ上の先輩。

 中学二年生。長い黒髪を三つ編みにして、黒縁の眼鏡をかけた読書が好きな文学少女。

 僕は神谷先輩の、優しい笑顔を思い浮かべる。

 思えば、先輩には何かと相談に乗ってもらっている気がする。

 これはあれだ。先輩には足を向けて寝られないということだ。

 先輩の家がどちらの方角にあるのか知らないので、もしかしたら向けているかもしれないけれど。

 ま、いいや。これも僕にはどうしようもないことだ。

 僕はベッドから立ち上がり、着替え始めた。

 今日から再び、学校だ。

 

 

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 学校へ着くと、何やら全体的に雰囲気が物々しかった。

 何だろう、と思いながら下駄箱で上履きに履き替え、教室へと向かう。

 道すがら、廊下の端々でひそひそと噂をする生徒を横目に見ながら、教室へと入る。

 教室には、既にまばらにクラスメイトの姿があった。

 当然、みんな見知った顔だ。病から回復した僕に、声をかけてくれる。

 それに対して二言三言返しながら、僕は自分の席に着いた。すると、足音が近付いてくる。

「よかった、本当に来たね」

 顔を上げ、声の主を見た。この甘やかな声の主は、決まっているのだが。

 すっと通った鼻筋と見る者を魅了する笑顔。

 そう、クラス一……いや、学年一の美少女と名高い、春日井姫さんだった。

「あ、ああ……うん、まあね」

 僕は春日井さんの言葉に、うまく返すことができなかった。

 というのも、先日春日井さんは僕が寝込んでいるところへお見舞いに来てくれたことがあり、そのことを思い出したからだ。

 その時は僕一人しかいなかったので、春日井さんはすぐに帰ってしまった。僕としても、風邪を移すといけなかったのでそれはいいのだが。

 あれはおそらく、春日井さんが自主的にやったことだろう。

 春日井さんは僕のことが好きだから。

 なんてことを意識すると、我知らず体が熱くなる。けれど、その熱が心地よかったりもして、これが複雑な心境なわけだ。

 重ねて言うが、春日井さんは僕のことが好きだ。

 これは僕の妄想でも思い込みでもなく、そうなのだ。

 なぜなら、僕は春日井さんにプロポーズをされているのだから。

 いくら僕が恋愛経験の少ないピーチボーイだろうと、さすがに気が付くというものだ。

 というか、それで気が付かないとか鈍感系を通り越してそれこそ変な病気とかだろう。

 そんなわけで、僕は春日井さんの好意を知ってしまっているが故に、彼女に対してどう接していいのか分からないでいるわけである。

「ん? どうしたの、顔が赤いけれど。まだちょっと具合悪い?」

 僕がもじもじしていると、春日井さんがすっと顔を近付けてくる。

 ついでに僕の額に手を当ててくるものだから、僕は頭が沸騰しそうだった。

「だ、だだ大丈夫だから! もう大丈夫だから!」

「うえ? そうなんだ……」

 僕は反射的に立ち上がり、後ずさる。そんな僕を、春日井さんは驚いたように目を剥いて眺めていた。

 が、すぐにくすりと笑う。

「大丈夫なら、よかった」

 春日井さんは最後にそう言うと、くるりと体を反転させ、女子グループの輪の中に戻っていった。

 僕は安堵にも似た吐息を吐き、椅子に座り直す。ああ、今のでどっと疲れた。

 その後も、春日井さんはちょくちょく僕のところに来るようになった。

 クラスメイトからのにやにやとした顔や羨ましげな視線を浴びながら、僕はその日の授業を受けるのだった。

 うーん……これはまた病気になりそうだ。

 

 

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 放課後。僕は早速図書室へと向かった。

 ドアを開け、ん? と首を捻る。なんだか、いつもと雰囲気が違うような気がしたから。

 けれど、何が違うのだろうか。わからない。いや、わかった。

 貸出カウンター。そこに、人がいたのだ。

 人、それも大人の女の人だ。あの人がきっと、司書の先生なのだろう。

「あら、こんにちは」

「え? あっと、こんにちは」

 挨拶をされたので、返す。と、司書の先生はにっこりと微笑み、座っていた椅子から立ち上がる。

 小柄な人だった。僕より数ミリ背は高いだろうけれど、そんなのは誤差の範囲だ。

 今後の成長を鑑みれば、僕の方が実質背丈は高いと言えるだろう。

 けれど、目を引くのはその背の小ささとは対照的な二つのふくらみだった。

 僕は胸部のふくらみを出来る限り視界に入れないようにしながら、それとなく小林先生を眺めた。

 その手には、一冊の本が握られていた。海外の言葉で書かれていたため、僕には読めなかったが。

「なかなか顔を出せなくてごめんなさい。あなたは一年生?」

「えっと、そうです。僕は……」

「真壁陸君ね。私は小林涼子。よろしくね」

 小林先生は僕の名札を見て、名前を確認する。

 僕は自己紹介のタイミングを失って開きかけていた口をどうしようかと迷った。

「ところで、今日は本を借りに来たの? それとも返却?」

「いえ、実はここに……」

 あれ? と僕そこで再び首を傾げることになった。

 なぜかと言って、いつもの席が空席だったからだ。

 僕と神谷先輩がいつも座って話をしている、あの窓際の席が。

「あの、今日は神谷先輩は気てないんですか?」

「……ああ、神谷さんは、今日は来てないわよ」

 小林先生はそれまでとは少し違う、緊張した声音でそう言った。

 ような気がする。

 僕はそのことが気になったが、小林先生は何事もなかったかのように椅子に座り直した。

「ねえ、少しお話していかない?」

「お、お話……ですか?」

「そ。私、あまりここに来れないから、図書室の利用状況とか把握出来ていなくて」

 ああ、なるほど。図書室が現在どんな使われ方をしているのか、知りたいのか。

 借りられた本は、データとして残っているのだろう。だから、先生が知りたいのはおそらく別のこと。

 ここにはどんな生徒が来るのか、ということだろう。

「真壁君は、よく来るの?」

「えっと、最近はそうですね。神谷先輩がいつもいるので」

「……ふーん」

「神谷先輩はいつも本を読んでいます。僕が来ると読書を中断してしまうのですが」

 大抵は時代がかった小説とかが多い気がする。気のせいだろうか。

 京極夏彦とか、司馬遼太郎とか。

 この前は『本当は怖い、アンデルセン童話』とかいうのを読んでいた。

 特定の時代や作者が好き、というよりは歴史を俯瞰してみたいと思っているようだ。

 そのお陰か、日本史世界史を問わず歴史系の科目は成績がいいそうと言っていた。

「そう……彼女にとって、君は特別なんだね」

「特別? 僕が?」

 小林先生の発言に、僕は困惑する。

 だって、神谷先輩は僕にとって尊敬に値する先輩だと思う。

 けれど、先輩の側からしたら僕なんてただの後輩でしかない。

 僕が先輩に特別だと思ってもらえるような人間だとは、どうしても思えなかった。

「先輩……そんなこと思ってなんかないですよ」

「そう?」

「はい。先輩はいい人ですから」

「いい人……ねえ」

 きっと神谷先輩にとって、僕はただの後輩でしかない。

 僕は、特別にはなれないと思う。これからも。

「……では、僕はこれで」

「ええ、またね」

 今度こそ、僕は図書室を後にした。

 またね、と先生は言ったが、僕としてはもう会いたくはなかった。

 今度は、小林先生のいない時に来たいものだ。

 

 

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 今朝感じた物々しい雰囲気というのは、翌日まで残っていた。

 まるでそれは僕だけが全く違う時代にタイムスリップしてしまったかのような、ある種の疎外感を抱かせる。

 何があったのだろう、と疑問には思うのだが、周囲に訊ねても首を傾げるばかりで明確な答えは得られなかった。

 だから、僕は放課後になると図書室を訪れた。あの小林先生がいないことを祈りつつ、扉を開く。

 今日こそ、神谷先輩がいるはずだ。先輩なら、この異様な雰囲気の正体を知っているに違いなかった。

 僕のそんな期待は、あっけなく霧散する。

 なぜなら、いつもの僕たちの席に先輩の姿はなかったから。

 いや、図書室中を見回しても神谷先輩のおさげも、黒縁の眼鏡も見当たらなかった。

 ただ、シンと静まり返った図書室内に二つの人影があったきりだ。

 一つは昨日、ちょっと話をした小林先生。今日もいた。

 そしてもう一つは、絵画の分厚い本を開いている東野さんだった。

 小林先生と目が合うと、あからさまに嫌そうな顔になってしまったのだろう。

 先生は目を吊り上げて、カウンターから出て来て僕に詰め寄ってきた。

「なあに? 私がここにいてはいけないのかな?」

「ええと……いえ、そういうわけでは」

「じゃあなんで、そんな顔をするのかな? さては、私のことを……」

 小林先生はバッと胸元を掻き抱くようにして、背を丸め、上目遣いになる。

 ちょっと高い声で、こんなことを言うのだった。

「私のこと、好きになっちゃったのかな?」

「それだけはあり得ません」

「ふーん……なあんだ」

 先生は面白くなさそうに呟くと、嘆息した。なあんだってなんだ。

 というか、自分でも自覚するほど嫌そうな顔をしたのだから、好きになんてなっているはずがない。そして僕はこの先生のことが苦手なのだ。

「今日はどうしたの?」

「……昨日から、みんなの様子がおかしくって」

「おかしい? へえ、どういうこと?」

「ええと……」

 僕は昨日から感じていたことを先生に話してみた。

 本当の先生ではないとはいえ、仮にも大人だ。何かしらのアドバイスをくれるかもしれないという期待があった。

 僕のざっくばらんとした話を聞き終えて、先生はむうと唸る。

「……わからないね」

 小林先生はニコッと笑むと、一言そう言った。

 まあダメで元々というつもりだったし、いいのだけれど。

「じゃあなんで話してみろなんて言ったんですか?」

「いやあ、何か力になれるかなーって思ったんだけれど」

 ダメでした、と小林先生は悪びれる様子もなかった。

 いや、悪びれる必要はないのだけれど。なんだろう、このもやもやした感じは。

「まあとはいえ、原因はわからないのだけれど、たぶんあれと関係があるかも」

「あれ……あれとは?」

「えっとね」

 先生は目を閉じて、くるくると人差し指を回す。

「確かね、二年生の子が大怪我をしちゃって、今入院中なんだって」

「え? それは大事じゃないですか!」

「いやほんと、びっくりだよね」

「びっくりだよねって……それだけ?」

「ま、私がここで気を揉んだって何も解決しないから」

「それはそうかも知れないけれど」

 この人の言い分はわからないくもない。その二年生の大怪我が僕には関係がないように、先生にも直接関係はないのだから。

「私は別に正式な教師というわけでもないから、対応に追われたわけでもないし、まあ残念だったねとは思うけれど」

「残念だったって……」

 だからもうちょっと言い方というものがあるだろう。

 僕はやはり、小林先生のことが苦手だ。

 段々わかってきた。先生のどういうところが苦手なのか。

少々ドライなのだ。……少々で片付けてしまっていいのかわからないけれど。

 ま、先生のことはどうだっていい。

「そのことが、先輩がいないことと関係あるんですか?」

「さあ? もしかしたら、関係あるかもしれない的な?」

「そんなテキトーな」

 とすれば、これ以上小林先生と話をしていても仕方がないな。

 二年生の階に行った方が手っ取り早いかもしれない。

 僕は先生に頭を下げ、図書室を後にした。

 この時の僕はまだわかっていなかった。まさか神谷先輩があんな状況に置かれているなんて。

 

 

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 我が校は学年によって階が隔てられている。

 一年生は三階、二年生は二階、三年生は三階に各々教室が割り振られていた。

 なぜそんなことになっているのかはわからない。たぶん昔からの伝統という奴だ。

 僕はそれについて、特に思うことはなかった。そんなものなんだろう、と漠然と受け入れている。別に教室がどこだろうと、大差ないというのもある。

 そして僕は今、二階にいる。すなわち、二年生の階だ。

「……うわあ」

 僕は何となく、溜息を吐いた。同じ建物の中のはずなのだけれど、二年生の階というだけでなぜかえらく緊張した。

 か、固まっている場合じゃないな。

 僕は意を決して、二年生フロアへと足を踏み入れた。

 やはり、一年生の階とは雰囲気が違う。少しだけ、大人びいているというか、何だか異界に迷い込んだようだ。

 きょろきょろとあたりを見回す。

 そういえば、神谷先輩って何組なのだろう? そんなことも知らずに、僕は先輩の教室に赴こうとしていたというわけだ。

 果たして、どうしたものか。

「君、一年生? どうしたの?」

 などと悩んでいると、声をかけられた。

 僕は咄嗟に振り返る。と、微笑みとともに一人の女子生徒が立っていた。

 二年生……だよね? ここは二年生のフロアだし、先輩に違いない。

「え、ええと……」

「あ、もしかして誰か探してるの?」

「へ? まあそんな感じ、です」

「そうなんだね。誰を探しているの?」

「はあ……神谷雫先輩の教室を」

「神谷……さん」

 僕が神谷先輩の名前を出した途端、その先輩の表情が強張った。

 笑顔は笑顔だったのだけれど、どこか無理をしている感じがひしひしと伝わってくる。

「あの……」

「ああ、ごめんね。わたし、急用ができたんだ」

「え? そうですか……」

「うん、ごめんね」

 その先輩は両手を合わせ、何度も謝ってきた。

 いや、そんなに謝られると逆にこっちが恐縮してしまうから止めて欲しいのだけれど。

 僕は去って行く先輩を見送りつつ、 先輩のクラスを探すのを再開した。

 二年生のフロアに一年生がいるという図が何とも不思議だったのだろう。何度か声をかけてくる人もいたが、みんな神谷先輩の名前を出した途端、姿を消してしまう。

 なぜ? 僕の前では黒縁の眼鏡のおさげだけれど、実際は物凄い不良とかだろうか。

 僕が困惑していると、またもや声をかけられた。

「ねえ、そこの一年生」

「ああ、はい」

 僕は振り返る。と、そこにはやはり先輩がいた。

 背丈は僕より頭一つ分高いだろうか。切れ長な目許と温和は笑みを浮かべる口許から、面倒見のいい姉貴分といった印象を受ける。

 背中の中ほどまであるだろうか。少し薄い黒髪をなびかせ彼女は僕を見下ろしていた。

「君、神谷雫の関係者?」

「関係者? ……ええと、まあ一応」

 そんな言い方をしたのは初めてだ。

 本当はただの先輩と後輩の間柄なのだけれど。そのあたりは言わなくてもいいだろう。

「神谷雫は今日は休みだよ」

「それは聞きました」

「じゃあ何をしに来たんだろう?」

「何って……」

 確かに、僕は何をしに来たのだろう。

 二年生の知り合いは神谷先輩だけだ。その先輩がいないというのに、なぜ来たのだろう。

「え、ええと……先輩はなんで今日はお休みなんですか?」

「……さあて。わたしも詳しいところはわからない。大方あのことが原因だと思う」

「あのこと?」

 とはなんだろう。やはり、大怪我をしたということと何か関係があるのだろうか。

「わたしの名前は霧崎アユ。君は?」

「僕は真壁です。真壁陸」

「ふむ……真壁君だね」

 霧崎アユ先輩は僕を品定めするように、頭のてっぺんからつま先まで見詰めてくる。

「さて真壁君。君はあの女についてどれほど知っているのかな?」

「どれほど知っている、とは?」

「彼女が犯した罪の数々だよ」

 霧崎先輩は腕を組み、僕を睥睨する。

 その責めるような視線は僕を見てはいなかった。

 神谷先輩のことを見ている、そんなふうに思えてなからなかった。

 見ている、というと少し違う。憎悪している、と言った方が正しいのかもしれない。

「なぜ、それほど神谷先輩のことを嫌うんですか?」

「もちろん、彼女が周囲に不幸を撒き散らすからだよ」

 彼女は嘆息して、言う。

「そして、あの女はわたしの親友に大怪我を負わせたんだ」

「…………は?」

 何を言っているんだ、この人は。

 僕は霧崎先輩の言っていることの意味が分からなかった。

 否、意味は分かる。分からないのは、なぜそのことで彼女が神谷先輩を恨んでいるのか、ということだ。

 先輩がそんなことをするはずがないじゃないか。

「神谷先輩がそんなことをするはずがないじゃないですか!」

「……ああ、わたしも最初はそう思っていたよ」

 霧崎先輩は目を伏せ、微かに息を吐いた。

「けれど、事実だ。わたしの親友は彼女のせいで大怪我を負った」

「そんははずは……」

 脳裏に浮かぶのは、おさけで黒縁眼鏡の先輩の姿。

 本を開き、ページをめくる姿勢と視線の動き。

 僕が図書室を訪れると読書を中断し、本を閉じる。その仕草。

 最初に出会った時、僕は先輩を同級生だと思っていた。そんな失礼極まりない僕を、先輩は笑って許してくれた。

 そして、僕のクラスメイトが困っていた時、先輩はそっと助言をくれた。

 気弱で人見知りな先輩だ。それが、何をまかり間違えば他人に大怪我を負わせるのか。

 残念ながら、僕にはわからなかった。

「……詳しく聞いてもいいですか?」

「ああ、いいよ。……ちょっと場所を変えよう」

 霧崎先輩は頭上を指差す。

 とはいえ、三年生の階を示しているのではないのだろう。だとすると、屋上ということになる。

 ただし、屋上は普段は立ち入りが禁止されているはずだ。どうするのだろう。

 僕は霧崎先輩の後に続いて、三階を目指した。

 

 

            5

 

 

 霧崎先輩から聞いた話は、僕にはにわかに信じられないものだった。

 神谷先輩は霧崎先輩の親友とやらに以前から付き纏っていたらしい。そして霧崎先輩はその親友と行動をともにすることが多かったため、その付き纏いに気が付いた。

 何度も口頭で注意したという。そりゃあそうだ。誰だってそうする。

 それでも、神谷先輩は付き纏うことを止めなかったそうだ。

「どうしてそんなことを……?」

「わからない。警察も事件性はなく、中学生同士のケンカが原因だろうって」

「だったらそれが全てなんじゃ……」

「いいえ」

 霧崎先輩は首を振る。僕の言葉を否定し、自らの考えを曲げようとはしなかった。

「神谷雫はわたしの親友、知花とは仲が良いわけではなかった。何だったら、面識すらなかったと言ってもいい」

 有坂知花。それが、霧崎先輩の親友の名前だった。

 神谷先輩と有坂先輩は別のクラスで、神谷先輩はあの性格だから二人はそれほど接点を持ってはいなかったらしい。

 それが、ある日突然有坂先輩に対して付き纏い出したのだ。それは疑いも抱くというものだろう。

 けれど、やはり話は不自然過ぎる。そんなことがありえるのだろうか

 全部、霧崎先輩の作り話、とまでは言わないけれども思い込みという線もある。

「……それで、霧崎先輩はどうするつもりなんですか?」

「もちろん、神谷雫が全て仕組んだこと、という証拠を見付け出して、そして告発する」

 僕は先輩と睨み合う。彼女の瞳に映る意思は固く、煌々と燃え上がっていた。

 とても、僕なんかでは説得できそうにない。

 ならば、と僕は一つの提案をする。

「僕もその捜査に同行してもいいですか?」

「……どういう意味?」

「そのままの意味ですよ。僕も神谷先輩を告発するための証拠集め、手伝いますよ」

 出来るだけ警戒心を抱かせないよう、朗らかに言った……つもりだった。

 実際には、霧崎先輩を手伝うつもりなんてさらさらなかった。ただ、この人に任せていると、どんなでっち上げをされるかわからない。

 あまり融通の利くタイプではなさそうだし、ここは批判的な人間が側にいた方がいいだろうと、まあそういう判断だ。

 とはいえ、それはあくまで僕の都合であって、先輩には関係のないことだった。

 だから、了承してくれるものか、不安だったのだが。

「いいよ、一緒にやろう」

 存外と、あっさりと了承してくれた。もしダメだと言われたら、独自で動くつもりだったのだけれど。

 拍子抜け、というか肩透かしというか。何にしろ、僕にとっては好都合だ。

 しかし不可解なものは不可解なわけで。それをそのまま放置しておくことはできなかった。

「僕から頼んでおいてなんですが、なんでいいんですか?」

「もちろん、それは君が神谷雫の知り合いだからさ」

「それはどういう……?」

「君は神谷雫に対して勘違いをしている。彼女は悪魔のような女だ。今度の調査で、君にもそれを実感してもらう」

「それは……」

 反論しかけて、止めた。

 ここで先輩と言い争いをすることは僕にとってなんら有益なことではなかった。

「……わかりました」

 僕はそれ以上、反駁することなく、頭を下げた。

 何はともあれ、これで僕は霧崎先輩の調査に同行する運びと相成った。

 

 

            6

 

 

 それから二日間、僕たちは聞き込みを中心に調査を行った。

 とはいえ、そこは素人の調査だ。何らせいかが得られなかったとしても当然である。

 そう割り切るのがいいのだが、そんなに簡単に割り切れないから調査をしているわけだ。

「……はあ、なかなか集まらないなあ」

「そうですね……というか」

 神谷先輩の悪い噂はたくさんあった。例えば悪い予言をすることが多く、そして大体の場合、その予言は当たるのだとか。

 それによって、神谷先輩は同級生から気味悪がられているらしい。

 そんなことがあったりして、後先輩のあの性格も手伝って、不登校になってしまったのだとか。……図書室に来ているだけ、今は改善しているということだ。

「先輩はなぜ、そんなことを?」

「わからない。ただ、神谷雫は陰湿な女だということがこれで分かっただろう?」

「……まだそんなことを」

 この二日間の調査で、僕はこの霧崎先輩とかいう人のことがますます嫌いになっていた。

 まず、神谷先輩をフルネームで呼ぶのが気に入らない。同級生だろうに。

 そして、例の親友とやらの大怪我も、頭から神谷先輩の仕業だと決め付けてかかっている。

「確かに先輩には悪い噂があります。それもたくさん。でも、どれもただの憶測です」

「何を言っているんだ? 君は今までの話を聞いていなかったのか?」

 聞いていたさ。その上で言っている。

 神谷先輩が予言をして、その予言が当たる。ただそれだけのことだ。

 そこには、先輩が何らかの工作なりをした、という証拠はない。今度の霧崎先輩の親友のことだって、ただ先輩が側にいたというだけだ。

「そもそも、考えてみれば僕は先輩の親友がどんな経緯で大怪我をしたのか聞いてませんでした」

「それを知らないで、今までずっと調査に同行していたのか?」

 霧崎先輩は呆れた、というように溜息を吐く。そう言われてしまえば、返す言葉もない。

 先輩は僕を連れ立って階段を降りる。体育館へと続く渡り廊下は、昼休みには意外と他人の気配がなく、学校の中ではどちらかというと静かな方だった。

「わたしの親友の名前は小門鏡花。幼稚園の頃からの仲だ」

「それは、またずいぶんと古くから知り合いなんですね」

 いわゆる幼なじみという奴か。そういえば、小早川さんと東野さんも幼なじみと言っていたな。

 僕には幼なじみの親友や世話焼きの異性の幼なじみなどいないから、羨ましい部分もあると言えばある。

 霧崎先輩の親友とやらが世話焼き幼なじみだったかはわからないけれど。

 ともかく、僕はこの人の考え違いを正さなくてはならない。神谷先輩のためにも。

 どうやればいいのか、皆目見当も付かないけれど。

「……ちなみに、先輩は神谷先輩がどうやってその小門先輩を傷付けたと考えているんですか?」

「君は本当に何も知らないんだな」

「はあ……まあそうですね」

 僕は多少苛立ち、反論しそうになったが、ぐっと堪える。

「僕はその件の問題が起こった日、風邪を引いて寝込んでしましたから」

「……それでも、何も知らないということはないだろう。わたしとここまで一緒に行動してきたのだから」

「だから、それを今聞いてるんですよ」

 思い返せば、僕は神谷先輩が何をやらかしてしまったのかを知らない。

 ぼんやりと、ろくでもないことに巻き込まれたのだろうな、とは思う。けれど、所詮はその程度だ。

 先輩の抱えているもの、悩みや問題を何も、知らないのだ。

「別に最初は悪い奴だとは思っていなかったよ。ただ、ちょっとした問題児というか、虚言壁のある寂しがり屋というか」

 一年生の頃から、神谷先輩はちょくちょく問題行動を起こしていたという。

 その大半は、同級生に対する不可解な言動が発端だった。

 誰それが怪我をする、この道を行くと不審者と出会う、自転車とぶつかる、などなど。

 そして、その言動が先輩のただの妄言だったならまだよかったのかもしれない。

 けれど、妄言では済まなかった。神谷先輩の言葉は真実となり、同級生たちを襲った。

 神谷雫の言葉を聞くと、不幸に見舞われる。いつしかそんなふうに言われることが多くなったという。それでも、先輩は不吉な予言を止めなかったという。

 関連性は不明だが、神谷先輩の忠言によって不幸を回避した例もちらほらあったという。

 いずれにせよ、結果的に先輩は孤立を深めていくことにあなり、次第に教室に姿を現すこともなくなってしまった。

 僕にはそれまでの過程はわからなかった。何せ一年も前のことだ。僕が知る由のないことも多数含まれている。

 何より、先輩を嫌っている人間の言葉だ。どこまで信用できるか分かったものではない。

「……なるほど」

 とはいえ、僕としては他に情報源もなく、霧崎先輩の言葉を信じるより他にないのだけれど。それにしてもひどい言いようだった。ここがYouTubeなら、炎上ものだろう。

 元々先輩に対してあまりいい印象を抱いていなかったのが、今回のことで爆発してしまった、という印象だろうか。

 僕としては、あまり先輩を悪く言わないで欲しいのだけれど、それは無理な話だろうな。

 何と言っても、この人は神谷先輩を嫌っているわけだし。

 それにこれまでの聞き込みで、確かに神谷先輩はあまりいい印象を持たれていないようだった。まあこの人ほど嫌っている人も珍しいけれど。

「さて、君もそろそろ神谷雫がどんな人間か分かっただろう?」

「……はい」

 反論してもいいのだけれど、今はまだ霧崎先輩を納得させる材料はなかった。

 そんな状態で説得を試みても、暖簾に腕押し。あまり意味はないだろう。

 ここはもう少し、様子を見ようと思う。まだ、情報も集めたいところだ。

「ところで、さっきから気になっていたんですけれど」

「なんだろう。わたしに応えられることだろうか?」

「どうして、神谷先輩は学校に来られるようになったのでしょう?」

「……さてね。あの女の考えていることなどわたしにはわからないよ」

 霧崎先輩は肩を竦め、吐息する。まるで、そんなくだらんを訊くな、とでも言うように。

「わたしに分かるのは、あの女がとんでもなく性悪だ、ということくらいさ」

「性悪……ですか」

 僕の中の霧崎先輩は、ますます悪者になっていく。

 彼女は彼女なりの、何かしらの信念にもとづいて行動していることだろう。

 僕は僕の信念にもとづいて、行動紗あせてもらうが。

「真壁君、君もその内分かる時がくるさ」

「来ますかねえ、そんな時」

 来なくていいけれど。と、内心で思ったが、口にはしなかった。

「さて、再会しようか、真壁君」

「そうですね」

 霧崎先輩が歩を踏み出すのを見て、僕も後に続いた。

 そして、一人の女生徒に声をかける。

「ああ、ちょっといいだろうか」

「ん? どうしたの、霧崎さん。……と、えーと」

 声をかけられたその女生徒は、先輩と僕を交互に見やり、首を傾げた。

 まあそうなるのも無理はない。霧崎先輩はともかくとして、僕がこの場にいるのは不可解だろうから。

「今、神谷雫のことを調べているんだ」

「ああ……そうなんだ。神谷、さんのことをね。小門さんのことで?」

「もちろんだ。鏡花の仇を打つ。これは弔い合戦だ」

「いや、死んだわけじゃないでしょ、小門さん」

 女生徒は苦笑いをしていた。笑っていい場面なのだろうか?

「……確かにな。失言だった」

 霧崎先輩も苦笑いを浮かべて返す。僕はといえば、二人のやりとりに若干困惑していた。

 これほど朗らかな雰囲気は、想定外だ。

 これまでの聞き込みでは、神谷先輩の名前を出すと大抵嫌な顔をして、刺々しい態度になった。特に僕に対しては。

 けれど、この人はそんなこともなく、僕のことは気にしているようだけれど、まあ普通に接してくれていた。

「最近、神谷雫の様子で変わったことはなかっただろうか」

「変わったこと。……神谷さん、あまり教室に来ないからなあ。うーん」

「どんな些細なことでもいい。神谷雫が鏡花の後を尾行しているのを目撃したとか」

「そう言われても……」

 困っている様子だ。そりゃあそうだ。

 これほど必死に詰められたら、誰だって困惑する。きっと、僕なら逃げだしているだろう。

「……あっ」

「なんだ、何か思い出したのか!」

「ちょっと落ち着いて」

 何かを思い出した様子を見せると、霧崎先輩はガッとその人の肩を掴んだ。

 彼女は霧崎先輩の手を振り解くと、ひと睨みしてから咳払いをする。

「霧崎さんたちの役に立てるか分からないけれど」

 そう前置きをして、彼女は語り出した。

 彼女が知る、神谷先輩と小門先輩の一部始終を。

 

 

            7

 

 

 私、実は塾に通っているんだ。成績は真ん中くらいなんだけれど、親がもっと勉強しなさいって言ってね。

 塾自体はまあ割と楽しいかな。友達もできたし、先生も教えるの上手だし。格好いい他校の男子とも会えるし。

 まあそんな話は聞きたくないよね。

 それで、熟の帰りだから……大体八時くらいだったかな。親が迎えに来るのを塾の前で待っていたんだけれど、その時に見ちゃったんだよね。何をって? もちろん、小門さんと神谷さんだよ。

 小門さんは道を歩いていたんだ。声をかけようかとも思ったけれど、そのすぐ後ろを神谷さんが付いて行っていたから止めたんだ。

 私も、ええと……神谷さんのことはあんまり得意じゃないから。

 そんなわけで、しばらく二人の様子を見ていたの。思った通り、神谷さんは小門さんの後を付け回しているような感じだったんだ。

 さて、どうしたものだろうって思っていたんだけれど、小門さんは路地裏にスッと入って行っちゃったんだ。そしたら、神谷さんは小門さんがいなくなった場所でどうしようか迷っているふうだったんだけれど、しばらくして自分も入って行っちゃったんだよね。

 なぜ二人が夜にそんなところに行っていたのかって? 

いやあ、私には分からないかな。



          8



「さて、どう思う?」

「どう思う、とは?」

「ふざけるな。これまでの話を聞いてどう思うか、ということだ」

「どうと言われましても」

 対した話は聞けなかった。

ほとんどの人は、神谷先輩のことを話すことを躊躇っている様子だったし、話してくれたとしても有益な情報が得られたとは言い難い。

それでも、ここまで出てきたことを総合すると、こうなるだろう。


① 神谷先輩はほとんどの人から嫌われているか苦手とされている。

② 先輩はなぜか、小門鏡花の後を付け回していた。

③ そして霧崎先輩の親友の小門とかいう人の大怪我にはどうやら神谷先輩が関わっているらしい。


 以上のことから、更に神谷先輩の疑惑が深まったと言えるだろう。

 僕としても、話を聞く限り、神谷先輩が何らかの形で関与しているというのはありそうだなと思った。

 だからといって、先輩が犯人だと性急に決め付けたりはしないけれど。

「それにしても、疑問は多く残りますね」

「ああ……なぜ、神谷雫は鏡花を襲ったのか。付け狙っていたにしろ、その理由は何だったのか」

 付け狙っていたわけではないだろうけれど、その辺を指摘し出すと話が前に進まなくなりそうなのでここは我慢することにした。

「理由……理由が分からない。なぜ先輩はこんなことをしていたのか」

 小門鏡花の後を付け回して、大怪我を負わせる。そんなことをする動機もメリットもないように思われる。

第一、 神谷先輩のあの性格でこんなことができるとは到底思えなかった。

「……先輩、神谷先輩についてどれくらい知ってるんですか?」

「何を突然……実はほとんど知らないんだ」

「……は?」

 僕は思わず、ぽかんとしてしまった。

 何を言っているんだ、この人は。神谷先輩のことを知らない?

 嫌っているとはいえ、同じクラスなのではなかったのか。

 そういう僕の疑問が通じたのか、霧崎先輩はバツの悪そうに視線を逸らした。

「聞き込みの時にも誰かが言っていたように、神谷雫は教室には顔を出さないんだ」

「はあ……それで?」

「だから、あまり話す機会もなくて。わたしも、鏡花も、おそらく同じクラスの半分くらいは神谷雫のことをろくに知らないと思う」

「……それなのに」

 それなのに、先輩のことを悪者だと決め付けたのか。

 思わずぽろりとそう言ってしまいそうになった。霧崎先輩を責め立てる言葉を吐いてしまいそうになる。

 けれど、それこそぐっと我慢しなくてはならない。そんなこと、きっと神谷先輩なら望まないだろうから。

「……六時か」

 霧崎先輩は壁にかけられていた時計を見て、呟く。

「そろそろ帰ろうか。また明日、調査を続けよう」

 先輩に言われ、僕も帰り支度を始めた。

 霧崎先輩は僕を待っていてくれていたが、僕としては先輩と一緒に帰るのはあまり気乗りがしなかった。

 なので、先輩には先に帰ってくれるように言ってみた。

 霧崎先輩としても、僕と一緒に帰る、なんてのはあまりいい気分ではないだろうし。

「僕はまだちょっと用事があるので、お先にどうぞ」

「そう? それじゃあ、また明日ね」

 先輩は真顔で、ひらひらと手を振る。僕はどうしたものかと迷ったが、振り返すことはしなかった。

 ただじっと、先輩が出て行くのを待つ。

 霧崎先輩の姿が見えなくなると、すとんと椅子に座った。ふーっと息を吐く。

 なんだかひどく疲れていた。なぜだろうか。

 ここ数日、僕は二年生の教室の前をうろうろしている。

 それは神谷先輩にかけられた嫌疑を晴らすためなのだけれど、一向に進展がなかった。

 そのことが、この疲労感の根底にある。そう思えて仕方がない。

「あー……疲れた」

 放課後、誰もいない時間。

 遠くからは運動部の声が聞こえる。けれど、それ以外は誰の声も聞こえない。

 すごく、不思議な感覚だった。普段なら、もっと大勢の人の声が入り混じっているのに。

 誰もいない……おかしくないか?

 いくら放課後とはいえ、まだそれほど遅い時間というわけでもない。何か特別なイベントが近くで開催されているということもない。

 だというのに、これほど人気がないとはどういうことなのだろう。

 僕はその違和感に、首を捻った。けれど、当然答えなど出てくるはずもなく。

 ただただ、呆然とするだけだった。

 これはただの偶然なのか、それとも何かの超自然的な力が働いているのか。

 などというくだらない思考は、すぐに霧散した。

 教室に、皐月先生が現れたのだ。

「先生? ……どうしたんですか、こんなところに」

 皐月先生には、別にこの教室にいることは告げていなかった。それどころか、僕が霧崎先輩とともに神谷先輩について調べているなどと、この人は知らないはずだ。

 とはいえ、それも口止めしているわけではないから、聞き込みを行った先輩方に訊ねて回ればすぐに分かることだ。驚くには値しない。

 値しない。……けれど、一体皐月先生は僕に何の用なんだろう?

「……お前、最近妙なことを嗅ぎ回っているらしいな」

「妙なことって……別に何でもないですよ」

「何でもないということはないはずだ」

 僕は皐月先生から目を逸らして、考えた。

 先生は知っているはずだ。僕が何をしているのか。

 正確には、僕たちが何をしているのかを。

「別に私は生徒を縛り付けようというつもりはない。ただな」

「……ただ?」

 皐月先生は僕の前に立つと、とんとんと机の天板を叩き始めた。

「貴様はまだ若い。だから知らないだろうが、この世には知らなくていいこともあるものだ」

「……それは、どういう意味ですか?」

 先生の言っていることは、僕にはわからなかった。

 ただ、彼女の放つ威圧感はこの上もなく僕に降り注ぎ、じりじりと僕を焼く。

「分からないか? まあそうだろうな」

 皐月先生は膝を折り、僕と視線を合わせた。

「だが、知る必要のないことだ。……身の破滅を招くだけだからな」

「破滅……」

 先生が何を言っているのか、僕には分からなかった。

 おそらく、分かる人間なんていないのだろう。

 破滅、という言葉が、頭の中で反駁する。

 先生は立ち上がり、足音を響かせてその場を去って行くのだった。

 残された僕はというと、ただじっと先生が出て行った扉を見ているだけだった。

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