第二話  友情と愛情の裏返し

 東野祈さんは絵がうまい。

 それも、素人が描いてまあうまいね、くらいのレベルではない。

 練習を積み重ねた人間だけが持つ、努力の末のうまさだ。

 彼女の細い指先から描き出される線は、柔らかくてゆったりとしている。

 だというのに、人としての輪郭を失わず、儚さの中に凛とした印象が同居しているのはさすがだな、と思う。

 それはおよそ、魔法と呼んで差し支えのないレベルであろう。

 彼女の絵を見て、僕だけではなく同じクラスの誰もが感嘆の吐息を漏らす。

 その流麗なタッチから生み出される線は、まさしく芸術と言っていいほどだ。

「……すげーだろ」

 そう小声で声をかけてきたのは、小早川樹里さんだった。

 ちらりと彼女を振り返る。

 東野さんが一見すると大人しい、という印象なのに対して、小早川さんは粗野というか少々荒っぽい感じがするのだった。

 実際、彼女は荒っぽい。小早川さんの噂は、枚挙に暇がない。

 それこそ、他校の生徒と殴り合いの喧嘩をしたとか、万引きをしたとか。

 その手の噂だ。言ってしまえば不良、ということになる。

 僕の苦手な人だった。

 けれど、実際に話をしてみるとこれがイメージとは掛け離れていた。

 いや、荒っぽいという評価は同じなのだが、気さくというか気安いというか。

 そんなに悪いことをする人とは、思えないのだ。

 僕は小早川さんの言葉に同意する。頷きを返すと、彼女は満足そうに笑った。

 なぜそんな彼女が全く関係のない東野さんの絵に対して、これほど自慢気なのかと言えば、二人は幼馴染らしい。

 それも、幼稚園入園以前からの腐れ縁だとか。

 これがすごく仲がよさそうだから傍から見ていて不思議な感じがする。

「祈は昔から絵を描くのが好きで、めちゃくちゃ練習してたからな」

 小早川さんが得意そうに鼻を鳴らす。

 なぜ彼女がこれほど嬉しそうなのか、僕にはわからなかった。

 わからないけれど、まあいいかと思う。

 それほど、東野さんの絵はすごいと思えるから。

 

 

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 ガンッと机が叩かれる。バンッではなく、ガンッだ。

 つまりは拳で。教室の僕の席の机が、だ。

 誰が叩いたのかと言えば、小早川さんだった。

「なあ、ちょっといいか?」

 小早川さんは美術の時間の得意げな雰囲気を引っ込め、殺意の波動を放っていた。

 僕はと言えば、血の気が引くほど恐ろしかった。何かしただろうか?

「え、ええと……何の用?」

「……ちょっと来てくれ」

「へ? うああ」

 小早川さんは僕の首根っこを掴むと、ずるずるとどこかへと連れて行く。

 拉致されている僕を助けてくれるクラスメイトは、いなかった。

 僕はすぐさま諦め、大人しく付いて行くことにする。僕の殊勝な態度を感じ取ったのか、小早川さんは首根っこから手を離してくれた。

「よし、この辺でいいだろ」

 と、着いたのは階段の踊り場だった。

 ただし、僕たちがいた教室とは真反対の。

 つまり人気はなく、ここでいくらぼこぼこにされても僕は助からないということだ。

 ああ、短かった我が人生。なんと残念なことだろう。

「……なんつう顔してんだ、お前」

「僕は今から、君に半殺しにされるんだろう?」

「し、しねえよ、そんなこと!」

 小早川さんは拳を握り締め、怒気を孕んで叫んだ。

 その様子がまた恐ろしいこと。

「ええと、じゃあ何の用?」

「お前の中じゃ半殺しは用事なのか? まあいい」

 小早川さんはひらひらと手を振った。

「実はお前に……ちょっとした相談があるんだ」

「相談? 僕に?」

 有名不良少女から一体何を相談されるのだろう? きっと相手の殴り方とかなら小早川さんの方が詳しいと思うのだけれど。

「……れ、恋愛相談、だ」

「…………なんて?」

 一瞬、頭が追い付かなかった。

 恋愛? 恋愛相談って言ったか、この不良娘は。

 恋愛、相談。これほど小早川さんに似合わない四字熟語もないだろうな。

 などと考えていると、小早川さんが拳を握る。

 うっ……これはまずいか?

「わ、悪いか?」

「いえ、そんなことはありません」

 顔を真っ赤にして拳を握り、ぷるぷると震える小早川さん。

 今にも殴りかかって来そうな彼女に、僕は可能な限り友好的に語りかける。

「それで、ええと……小早川さんの恋愛相談ってことでいいんだよね?」

「……いや、あたしじゃねえんだけれど」

「じゃあ一体誰の?」

 恋愛相談って普通自分のことを相談するものじゃないのだろうか。

 それともあれか。いわゆる「友達の話なんだけれど」の亜種パターンだろうか、これは。

「……えっとな」

 小早川さんは言いにくそうに、視線を彷徨わせる。

 ことここに至って、悩んでいるようだ。相談内容を打ち明けることに。

 何をそれほど悩むことがあるのあろう。早く言ってしまえばいいのに。

 そして僕をこの場から解放してくれ。

「実は……祈のことなんだ」

「東野さん?」

 ここでようやく、冒頭と繋がった。

 僕はほっと安堵する。美術の時間に東野さんの話題が出たのは伏線だったようだ。

 けれども、これで全ての疑問が氷解したわけではない。

 パッと思い浮かぶ疑問は、なぜ東野さんの恋愛相談を小早川さんが持ちかけているのかということだ。

「どうして小早川さんが東野さんのことを相談するの?」

「んと……いろいろとあるんだが、一番の理由は祈があの性格だからだな」

 小早川さんは困ったと言ったふうにまゆを寄せ、背後を振り返った。

 きっとその視線の先には、教室にいるであろう東野さんがいるのだろう。

「祈は昔っから引っ込み思案な奴で、ぼーっとしてることが多かったんだ」

「そう言えば二人は幼なじみだって話だったね」

「ああ、幼稚園入園よりもあたしと祈はつるんでる」

「へえ……そう」

 幼稚園入園前の幼児が二人、仲良くしていることをつるんでいる、と言い表わすのは小早川さんくらいだろうね。

「何考えているのかわからないような奴だが、あれで割と肝の据わった奴でな」

 何か、そういう思い出が二人の中であるのだろう。幼馴染ならではの思い出が。

「そんな祈から言われたんだ。好きな人ができたって」

 おっと。小早川さんの様子が。

 小早川さんのは俯き、はあと溜息のようなものを吐いた。

「初めてだった。祈から何かを相談されたのは」

「初めてだったんだ」

「ああ。祈はぼーっとしている奴だったが、反対にあたしはやんちゃな方だったから」

 親とか教師とかから怒られるられることが多かったのだろう、きっと。

「祈も何度かあたしに付き合って怒られたことがある。でも、あたしも祈も別にそれで何か反省したり、ということもなかったな」

「反省は、した方がいいんじゃない? 怒られたんだし」

「いいんだよ」

 小早川さんは首を振り、僕の進言を軽くいなした。

 そういう忠告なりを聞く耳は持ち合わせていないようだ。

「中学に上がって、祈は美術部に入ったんだ。昔から絵、好きだったしな」

 そこで、運命の相手と巡り合ったわけだ。

「相手は三年生。美術の部長だそうだ」

「へえ、そう」

「名前は忍野。忍野須原というらしい」

「忍野先輩、か」

 んー、この流れ、ちょっと面倒臭いか?

 これで「祈を忍野先輩から引き離してくれ」などと言われたあかつきには、僕は脱兎のごとくこの場を走り去るのがいいんだろうな。

 なんてことを考えていたわけではあるが、当然小早川さんの考え違っていた。

「その忍野須原のことを調べてくれ。どんな奴なのかを」

「あー……なるほどね」

 僕は天井を仰ぎ、目を細めた。

 やっと、話が見えてきた。要するに、小早川さんは心配なんだ。

 幼馴染の初めての恋の相手。それが年上の三年生の部長。

 忍野先輩は果たして東野さんに相応しい男子であるか否か。それを確かめたい。

 ぼーっとして、何を考えているのかわからない東野さんのために。

「も、もちろんあたしの方でもできるだけ調べてみるけれど」

「……ちょっと質問いいかな?」

「な、なんだよ」

 キッと、小早川さんは不満そうに僕を睨んだ。

 いや、睨まれても。

「どうして僕? 他に適任な人はたくさんいるのでは?」

「……姫に聞いたんだ」

「……姫」

 姫、姫、姫……姫って春日井さんのことか。

 彼女の名前は春日井姫だから。

「姫が困っているところを、お前が助けてくれたって」

「いや、あれはたまたまというかなんというか、第一僕は特に何もしていないというか」

 僕にも頼れる先輩がいて、その人のお陰で何とかなったようなものだ。

 僕が春日井さんを助けた、なんて事実と異なる言われ方をしているのはどうなんだ?

「何だっていい。頼むよ」

 小早川さんは拝み倒すように、両手を擦り合わせた。

 むっ……こういうの、弱いんだよなあ。そろそろ教室に戻らないといけないし。

「……わかったよ。できる限りのことはやるから」

「本当か!」

「うん。でも、限界なんてあっという間にくるよ。できないことの方が多いんだから」

「ああ、頼む」

 すごくいい笑顔だった。

 小早川さんは白い歯を覗かせ、笑ったいた。

 対して僕は、少々気分が沈み始めていたのだった。

 

 

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「という次第です」

 放課後。図書室の陽光の差す窓際の席で、僕は神谷先輩と向かい合っていた。

 小早川さんとの会話の内容を話した。包み隠さず、オブラートにすらくるまず。

 ありのままを、あのりままに。

「……ふむ」

 先輩は吐息すると、目を閉じた。

 黒縁眼鏡の奥のまぶたが閉じられ、数秒、静止する。

 先輩のおさげが、わずかに揺れていた。呼吸に合わせて、肩が上下する。

 今日読んでいる本は『ライ麦畑で捕まえて』サリンジャー著。

 その様子を眺めながら、僕はじっと、先輩の次の言葉を待った。

「……正直なところを言うと、この手の話には変に関わらない方がいいと思うんだよね」

「まあ、そうでしょうね」

 僕もそう思う。何せ、今回は春日井さんの時とは違うのだから。

 被害者なんてものはどこにもいない。ストーキングされている、という話でもない。

 ただ、幼馴染の想い人の人となりが知りたい、というだけ。

 言ってしまえば、小早川さんのエゴである。

 だから、この話は無視を決め込むのが一番いい。忍野先輩だって、痛くも痒くもない腹を探られるのは嫌だろう。

 僕だったら、非常に怒ると思う。忍野先輩がどんな人かはわからないので、あくまで僕だったら、という話。

「でも、引き受けちゃったんでしょ?」

「できる限りはやる、と言っただけです」

「それってつまり、引き受けたということだと思うけれど」

「……まあ、そういう言い方もできますね」

 というか、客観的に見てそういう言い方しかできないだろうな。

 僕は今更ながら、自分の軽率さというか、押しの弱さ的なものに項垂れる。

 はあ……春日井さんの時もそうだったけれど、どうして僕はこう頼まれると断れないのだろう。

 ずーん、と頭を垂れ、落ち込んでいる僕を、しかし神谷先輩は笑っていた。

 くすくすと、笑いを噛み殺していた。

「どうして笑っているんですか?」

「わ、笑ってないよ、笑ってないから」

 と言いつつ、先輩は笑うのを止めようとしない。まあいいけれど。

 問題は小早川さんだ。てきとーな報告をすると、殴られそう。

 たぶん殴ってはこないと思うけれど。

「まあ、頑張ってね。わたしは応援しているよ、陰ながら」

 神谷先輩はにこっと笑いながら、頭を傾ける。

 幼い、ともすれば小学生のような見た目とは反対に、その仕草は妙に大人びて見えた。

 奇麗で、頼りになりそうな雰囲気を醸し出している。

 何だかんだで先輩なんだよなあと改めて認識した。

「先輩は……なんていうか、こういう時どうしますか?」

「そうだねー」

 神谷先輩はあごに人差し指を添え、天井を見上げる。

 考える時の癖、なのだろうか。先輩の視線は天井を見ているようで、けれどどこも見ていないような印象を受けた。

 強いて言うなら、ずっと先の未来を視ている、とでも言おうか。

「あんまりわたしがあれこれ言うのも違う気がするんだけれど」

 先輩はそう前置きして、口を開く。

「心配はしなくていいんじゃないかな。結局は元の木阿弥というか、元鞘というか、あるべきところにきちんと収まってくれるから」

「はあ……そういうものですか」

「うん、そういうものだよ」

 神谷先輩の妙に自信満々な言い方に、僕は小首を傾げた。

 普段はもっとおどおどしているという印象が強いだけに、こうしてはっきりと何かを断言するような言動は新鮮だった。

 やはりたった一年しか違わなくても、どれだけ見た目が年下のようでも。人生経験という奴はしっかりとあるのだろう。

 一年は三百六十五日。ということは、三百六十五日分、先輩の方が経験値としては上、という認識も成り立つ……のか?

 僕は立ち上がると、先輩に頭を下げた。

「ありがとうございました。いろいろと相談に乗っていただいて」

「わたしは別に何もしていないよ。ただ、そうだねえ」

 先輩はそれまでにこにことしていた笑顔を引っ込めて、まじめな顔付きになった。

 声音も、それまでの優しげなそれから少しだけ、厳しさを滲ませる。

「あまり自分を過大評価しないことだね。……人は、何もできないのだということを肝に銘じておくことは大事」

「はあ、そんなものですか」

 変に実感の籠った言い方だった。まるで、つい最近もそうした出来事に遭遇してしまったかのようだ。

「かといって、変に過小評価するのも問題だけれど」

 そう言い添えて、先輩は笑った。

 にこっと。僕を安心させる、あの笑顔で。

 

 

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 さりとて、恋愛相談と言ったところで僕に恋愛の経験などない。

 だから、僕にできることと言えば一方的に話を聞くことくらいだ。

 まあ今のところ、それだけで小早川さんは満足している様子だけれど。

 先輩から(ありがたいのかありがたくないのかよくわからない)アドバイスをもらった翌々日。僕はその日も小早川さんの話を聞いていた。

 小早川さんが語る、東野さんの恋愛事情を。

 正直なところ、僕が東野さんの恋愛模様を聞いていていいのかという疑問はあるが、気にしても仕方がないだろう。

 それに、小早川さんが僕以外の人間に東野さん語りをしているとも思えない。

 なら、僕さえ他言しなければ問題ないということになる。

 僕は別に誰かに触れて回るつもりはないので、つまり大丈夫ということだ。

「……悪い。あたし、今日は帰るわ」

「何か用事?」

 珍しいこともあるものだ。ここ三日ほどは、連日ずっと語り続けていたのに。

 お陰で東野さんのことには多少詳しくなってしまった。使いどころのない知識が増える一方だ。

「ああ、バイト入っててさ」

「……は?」

 僕は小早川さんの言葉の意味を理解できなかった。

 ばいと……あるばいと。つまり働いている。

 ええ!

「あの、えと……僕らまだ中学生」

 と言うかこの間まで小学生だっただろう。ランドセル背負っていただろう。

 僕が驚いて目を剥いていると、小早川さんはけらけらと笑っていた。

 大阪のおばちゃんよろしく、ひらひらと手を振っている。

「バイトって言っても親戚の手伝いだよ。それでちょっと小遣いもらったり、買い食いさせてもらってるだけだから。ただまあ、一応はこれで」

 しーっと、小早川さんは人差し指を口許に当てる。

 親戚の手伝い……じゃあまあ問題ないのか?

「えっと、ちなみに何をしているの?」

「親戚の兄ちゃんが古本屋をやってるんだけれど、たまに家まで本を取りに行くんだ。そういう時に人手が欲しいんだと」

「へえ……大変そうだね」

「ああ。本ってあんなのでも集まると結構重いからな」

 小早川さんは鞄を肩にかけ、やれやれといった様子で戸口へと視線をやる。

「ところで、小早川さんは読書は?」

「しないしない。すげー眠くなるし」

「あっ……そうなんだね」

 親戚のお兄さんが古本屋ということで、ちょっと期待したのだけれど。

 そのあたりは、イメージ通りらしい。

「んじゃな。また明日よろしく頼む」

「あ、うん。また明日」

 お互いに挨拶を交わし、小早川さんは素早い身のこなしで教室を出て行った。

 さてと。

「……僕も帰るか」

 小早川さんが去った教室には、僕以外には誰もいなかった。

 遠くで運動部の声が聞こえてくる。あれは野球部のかけ声だろうか。

 そう言えば、僕は結局部活に入らなかったな。今から探すのも面倒だし。

 あまりやりたい部活もないので、このままでいいか。

 そう思い、僕も立ち上がる。

 小早川さんがいなくなったら、もう明日までは教室には用はない。

 図書室に顔を出して帰ろうかな。きっとこの時間なら、まだ先輩は残っているはずだ。

 そう思い、教室を出る。と、隣のクラスにはまだ人が残っていたようだ。

 誰もいないと思っているのだろう。結構な声量で何かを話していた。

「聞いた、例の噂」

「うん。また出たって」

「また出たって。……魔女が」

 魔女……または魔法使い。

 不幸な予言を与え、予言された人は高確率で不幸に遭う。

 そう言う噂。

 ……いや、大したことはないとはいえ、実際に被害に遭っている人がいる。

 なら、これは不審者の仕業と考えるのが妥当だ。

 では、不審者とは誰か。高確率でその魔女だか魔法使いだかだ。

 彼女が予言をした後に、不幸は起こっているのだから。

「物騒なことだね」

 僕は呟き、階段を昇る。図書室の前までやって来た。

 扉を開ける。がらりと音がする。

 中に入る。相変わらず、司書の先生らしき人はいなかった。

 そして今日は、神谷先輩の姿もなかった。

「おや?」

 僕は思わず時計を見る。時刻はそろそろ六時に差し掛かりつつあった。

 確かに、文化部ならぼちぼち下校の準備を始める時間だ。

 とはいえ、先輩なら今の時間、まだ何かしら読んでいても不思議ではなかった。

 まあ、そんな日もあるさ。先輩だって二十四時間ずっと本を読んでいるわけでないだろう。

 何か用事があったのかもしれない。どうしても観たい番組があったとか。

 僕はそう考え、踵を返す。先輩がいないというのであれば、ここにいる意味はない。

「本当に帰ろう」

 そう独り言ちる。

 と、視界の端にとある人物の姿が止まった。

 僕は振り返った。

 別段大層な理由があったわけではない。ただ、何となく。

 言ってしまえば、条件反射のようなものだ。

 が、振り返った瞬間に、僕は後悔した。

 後悔、と言うと少々大袈裟かもしれない。ただ、どう声をかけたものか困っただけだ。

 何せ、そこにいたのは先ほどまで教室にて話題に上っていた人物だったからだ。

 東野祈さん。美術部所属の一年生。クラスメイト。

 小早川さんの幼馴染。

 そんな基本的な情報が頭に浮かんでくる。けれど、どれもこれも出会い頭の話題としては相応しくない気がする。

 ではどんな話題なら相応しいんだという話だが、そんなものは見当も付かない。

「…………」

「…………」

 僕たちは見詰め合ったまま、じっとしていた。

 おおよそ、一分くらいだろうか。時計の秒数を刻む音がだけが響いていた。

 じーっと、東野さんは僕を見ていた。まるで何かを見透かすように。

 僕は何となく無言が辛くなり、声をかけることにした。

 一歩、前に出る。

「えっと、こんにちは、東野さん」

「こんにちは、真壁君」

 東野さんは小首を傾げ、挨拶を返してくれた。

 とりあえず、ほっとする。なぜかはわからない。

「あっと……東野さんはこここで何をしているの?」

「……これを見てたの」

 言って、東野さんは持っていた物を掲げる。

 それは、画集のようだった。それもかなり大きい。そして分厚い。

 すっぽりと、東野さんの首から上が隠れてしまっていた。

「へえ……何、それ?」

 画集だということ以外には、何もわからなかった。

 だって表紙が英語なのだもの。本当に英語かどうかもわからない。

 真っ黒な装丁に金文字で本のタイトルらしきものが書かれている。

 非常に格好いいのだが、僕の英語力ではそこから何も読み取れなかった。

「……画集」

「へえ……」

 何となく雰囲気でそれはわかる。

 というか、この図書室あんなのまであったんだ。知らなかった。

「何の画集なの?」

 東野さんは数秒押し黙り、それから手招きをしてくる。

 僕は迷うことなく、東野さんの手招きに応じた。

「世界の宗教画を集めた画集なの」

 言いながら、東野さんが画集を広げてくれる。

 僕は彼女の手許を覗き込んだ。

 そこには、裸の男性の絵が描かれていた。

 筋肉の躍動感や希望を抱いた明るい表情。そしてとある一点に描かれたナニ。

 僕にも存在するそれに、何だかいたたまれない気持ちになる。

 その隣には、翼を持った女の人の姿があった。こちらは服を着ている。

 服といっても、単に体に布を巻き付けただけのようにも見えた。

 こちらも、下は隠しているが乳房が露出しているため、非常に刺激的だ。

 そんな刺激的な絵を、同級生女子と一緒に見ている。その事実だけで、僕は恥ずかしさのあまりここから逃げ出したかった。

 いや、この絵にも東野さんにも何らかの意図があるわけではないというのはわかっている。わかってはいるが、理屈ではない何かが僕を追い詰めていた。

 沈黙が降り立つ。ああ、気まずいったらないなあ。

「え、ええと、東野さんはキリスト教の人?」

 この気まずさを打破するため、思い付きの話題を振ってみる。

 と、東野さんは小さく首を振った。否、ということらしい。

「じゃあどうしてこの絵を?」

「……奇麗なものを見たいと思うのは、おかしなこと?」

 東野さんは振り返り、僕を見てくる。

 そこには、純粋な疑問があった。僕は自分の邪な感情がなおのこと恥ずかしくなる。

「ええと……実はさっきまで、小早川さんと一緒だったんだけれど」

「樹里ちゃんと……そうなんだ」

 東野さんは少しだけ悲しそうに、目を伏せた。

 なんだ? 何か、妙だぞ。

 僕は東野さんの反応に違和感、というか妙な感覚を覚えた。

 けれど、それが何であるのか、僕自身わからない。

 むむう……何なのだろう、このもやもやとした感じは。

「……この絵は、奇麗なものなの?」

「うん。すごく奇麗」

 小早川さんのことを訊ねようかとも思ったが、止めた。

 藪を突くような真似はすまい。それに、小早川さんと東野さんの間に何があったのだとしても、それは二人だけの問題だ。

 僕が首を突っ込むことはできない。

 頼まれれば突っ込むかもしれないが、頼まれもしない内からずかずか踏み込むのも違うだろう。

 そう言えば、神谷先輩が変なことを言っていたな。

 元の木阿弥がどうとか、元鞘がなんだとか。

 二人は、喧嘩中ということだろうか。どうして神谷先輩はそのことを知っているのだろうか?

 わからない。わからないことだらけだ。

「……興味あるの? こういうの」

 こういうの……果たしてこういう時、どう返答するのが正解なのだろう。

 裸の女性が描かれているものに興味がある、という意味なのか。

 それとも宗教画が好きなのか、という意味なのか。

 何とも答えづらい質問だ。困ったものだと思う。

「どう……だろうね。今までこういうのには触れて来なかったから」

「ふーん」

 東野さんは僕の返答をどう思っただろう。

 一見すると、さしたる興味もなさそうに見える。けれど、その心の内はこう思っているのかもしれない。

 ――真壁君って、すけべだね。

「うっ……」

 想像するだけで、ダメージが入る。

(想像の中の)東野さんの見下したような、蔑んだような視線が痛かった。

「ところで、真壁君」

「え? 何?」

「樹里ちゃんは、なんか言ってた?」

「えっと」

 なんか言ってた。そのあまりに抽象的な言い方に、僕は返答に窮した。

 なんと答えればいいのかわからない。ああもう、自分の脳みそのお粗末さに辟易する。

「なんか……って何を?」

「なんでもいい。わたしのこと」

「まあ、言っていた、かな」

 全力で脳みそを回転させる。次に返すべき言葉を探して。

 どんな質問がきても返せるように、返事を容易しようと躍起になる。

 考えていると、くるりと東野さんは振り返った。

「……なんて?」

 東野さんの表情を見た瞬間、僕はそれまで必死に考えていたことを全て忘れていた。

 奇麗さっぱりと。

「あ、あの……」

 きゅっと引き結ばれた口許。不安そうに寄せられたまゆ。

 彼女の、東野さんの表情は、あまりにも鎮痛だった。

 必死だった。……きっと、だからだろう。

 嘘を、吐けなかったのは。

「……言っていたよ。『祈はすげーんだ』って」

「……そう」

 一瞬だけ、東野さんの目が見開かれたような気がした。

 けれど、それも一瞬だけで、すぐに元に戻ってしまう。

 驚いたような嬉しいそうな、その表情を見ることは、おそらく二度とないのだろう。

 僕はそのことを少し寂しく思いつつ、続ける。

「小早川さんと話していると、東野さんが本当にすごいんだなってわかるよ」

「すごくなんかないよ、わたし」

 だって、と東野さんは言いかけた。続けようとして、けれど言葉を見付けられずに視線を彷徨わせるだけだった。

 顔を伏せる。と、僕の位置からでは東野さんの表情は読み取れなくなってしまう。

 ふと東野さんの開いていたぺージが目に入る。

 大きな翼と慈しみ深い表情。

 けれど、二人の間には大きな悲しみがたゆたっているように、僕には思えた。

 

 

                 4

 

 

 早朝、登校すると、教室の中がにわかにざわついていた。

 何かあったのだろうか。僕はクラスメイトの一人に声をかけ、問いかける。

「黒板に変な張り紙があったんだ」

 ということだった。

 見てみると、言われた通り黒板には張り紙があった。

 そこに書かれていた文言に、僕はハッと息を飲んだ。


 

『東野祈は売女である』

 

 

 書かれていたのは、その一言。けれど、それが一体どんな意味を持つのか、おそらく誰もが理解しただろう。

 売女。何年前の言葉だ? そんな場違いな疑問が頭の中に去来する。

 僕は咄嗟に、東野さんの姿を探した。

 すると、東野さんはいた。教室の隅。鞄を自分の机に置いた状態で、固まっていた。

 表情はそれほど変わらないように見える。よかった。あんな張り紙を真に受けてはいないようだ。

 僕はすぐさま、黒板まで行き、張り紙を剥がした。目立つのはゴメンだったが、これ以上こんな胸糞悪いものをここに張り付かせておくのも忍びない。

 ぐしゃぐしゃに丸める。しかし、教室のゴミ箱に捨てるのは止めておこう。

 僕は張り紙を制服のポケットにねじ込んだ。

 それから、東野さんの許へと歩み寄る。

「大丈夫?」

「……うん、大丈夫」

 東野さんの返答に、僕は尚更ほっとした。

 よかった。昨日話をした時とはあまり差がないように思える。

 これなら、まあ僕が気を揉む必要はないだろう。

 僕はバッと、背後を振り返った。張り紙の犯人はこの中にいるのだろうか。

 それとも、別のクラスの奴か? 上級生か?

 わからない。ああ、僕は昨日からわからないことだらけだ。

 誰の力にもなれない。思えば、先日のストーカーの件だってそうだ。

 僕は結局、大したこと何もしていないのだ。事件は勝手に解決した。

 今回だってそうなるだろう。僕はただ、右往左往するばかりで、大した成果も得られず。

 事件は勝手に解決する。僕の意思や行動とは関係なく。

「なんだなんだ、何の騒ぎだ、こりゃあ」

 僕が考えていると、人垣の奥からそんな声が聞こえてくる。

 人の群れを割って現れたのは、小早川さんだった。

「……ったく、こんなところでたむろってるんじゃねえよ。邪魔だ邪魔だ」

 小早川さんは教室の中に体を捻り込むと、しっしっと犬でも追い払う仕草で人垣を散らそうとする。それでもだめとわかると、声を張り上げて威嚇を始めた。

「あたしの言ってることが聞こえなかったのか、ああん?」

 小早川さんがひと睨みする。と、渋々と言った様子で人の群れは散っていった。

 大半は同じクラスの人間だったようで、おそるおそる教室に入ってくる。

 ビクビクと、怯えながら。しかし東野さんに好奇の視線を向けながら。

 ああくそ、なんだこの居心地の悪さは。

 僕は彼らとはそれなりに仲がいいという自負がある。悪い奴らではない。

 ただ、普通なのだ。あまりにも、大勢に流されやすいという意味で、普通なのだ。

 きっと、小早川さんや東野さん、それに神谷先輩のような人が、異端なのだろう。

 そして今、僕の姿も彼らには異端に見えているのかもしれない。

「おい、真壁」

 小早川さんが僕の名前を呼ぶ。その声は少し、苛立っているようだった。

「ちょっとツラ貸せや」

 低く、圧迫感のある声音が僕を呼ぶ。

 僕は小早川さんに言われるまま、教室を出た。

 そして、この前と同じ階段の踊り場までやってくる。

「あれは一体どういうことだ、ああん?」

「いや、僕に聞かれても困るのだけれど」

 小早川さんに睨まれて、僕は視線を逸らした。

 なぜ、僕は詰め寄られているのだろう。そう思ったが、その疑問は口にしないことにした。

 代わりに、僕の方からも疑問を投げかける。

「小早川さんこそ、あれがどういう意味なのかわからない?」

 二人は幼馴染であり、小さい頃からずっと一緒にいた仲のはずだ。

 なら、現在も仲よしであり、あの張り紙のことも何かしら知っているはず。

 と、思ったのだが、今度は小早川さんがぽりぽりと頭を掻いて、視線を泳がせ始めた。

「……いや、あたしはよく知らないんだ。第一、最近はあんまり祈とも遊べてないしな」

「そうなんだ」

「ああ。祈も部活が忙しくて。それに」

 それに、と言葉を切り、小早川さんは黙ってしまった。

 まあ彼女の言いたいことは何となくわかる。

 小学校までの東野さんはどうだったかわからない。

 けれど、今の東野さんのことなら、それなりに理解できるつもりだ。

 今の東野さんは部活に恋にと大忙しなのだから。それこそ、遊んでいる暇なんてないのだろう。

 けれど、そんな今の東野さんを貶める張り紙がされていたのだ。怒るのも当然という気もする。

 だからといって僕に八つ当たりをするのは止めて欲しいけれど。

「……祈とな、喧嘩しちまったんだ」

「…………」

 唐突とも思えるその言に、僕は言葉を返すことができなかった。

 喧嘩。小早川さんと東野さんが喧嘩か。

 小早川さんはこんなあれだけれど、東野さんはあまり喧嘩なんてしなさそうだけれども。

 殴る蹴るとなったらなおさらだ。だからまあ、きっと喧嘩といっても大したことはないのだろう。

 というか、なぜ今このタイミングでそんな告白を? 僕にどうしろと。

「……喧嘩の原因を訊いても?」

「あたしは祈の恋が成って欲しいと思っている」

 それは知っている。はっきりと言葉にしたことはないけれど、態度やら言動やらでその心の内は推し量れた。

「だから、思い切って告白するようにって言ったんだ。そしたら」

「東野さんに拒否されたわけだ」

「ああ、その通りだ」

 なるほど。それで告白をしろしないの喧嘩になってしまったわけか。

 それはわかった。けれど、そのことが今の状況とは繋がらない気がするのだけれど。

「違うな。こんな話をしたいわけじゃあないんだ、あたしは」

 小早川さんは自分で自分の頭を叩く。眉間に皺を寄せ、不安げな表情を作る。

 これまで接してきた彼女とは全く違うその一面に、僕は困惑した。

 小早川さんと言えば粗野で野卑。言動は乱暴だが友達を大切にする一本筋を通すのが好きな昔のヤクザ映画の登場人物のような印象だった。

 けれど、今の小早川さんは違う。

 幼馴染の親友と喧嘩をしてしまい、あんな張り紙まで見てしまった。

 東野さんももちろん傷付いただろう。だが、小早川さんも内心ではやり切れない思いなのだろうか。

 僕は、俯く彼女を見ていた。それから、すっと手を伸ばす。

 ポンと小早川さんの頭に、手を乗せた。それから、ゆっくりと撫でる。

「……んだあ、こりゃあ?」

 それまで弱気だった小早川さんの表情がみるみる怒気を孕んだものになる。

 んー、選択を間違えたようだ。

「いや、落ち込んだ時にはこうするのが一番だと思って」

 妹にもよくやるしな。

「小さい子供じゃねえんだから、いらんわ」

 パシンッと小早川さんは僕の手を払い除ける。若干頬が赤い気がするが、怒りによるものだろうな、あれは。

 余計なことをしてしまったようだ。反省しなくては。

「全く……お前はあたしの従兄かってんだ」

「従兄……ああ、例の古本屋をやってるっていう」

「ああ。あいつがお前と同じようなことをしやがる」

 がるるる、と小早川さんは威嚇してくる。

 しかしそうか。確かに考えてみれば失敗だったかもしれない。

 二、三歳の子供にやる分にはいいかもしれないが、同級生相手にやることではなかった。

 これは反省が必要だ。いやほんと。

「まあそれでだけれど、どうしよう。犯人探しをするべきかな?」

「いや、止めとこう」

 小早川さんが首を振る。否。

 意外だった。小早川さんなら、張り紙の犯人を探し出してボッコボコにする、と言い出すと思ったのに。

「お前、あたしが犯人探しをしないのを意外に思ってるだろ」

「え? ええと」

「……ま、その気持ちもわかるがな」

 小早川さんは肩を竦め、ニヒルに笑んだ。

「本当はさ、犯人を見付け出してボコボコにしてやりたい」

 あ、やっぱりそう思ってたんだ。

「でも、そんなことには意味がないからな」

「……まあ、そうだね」

 例え犯人を見付け出せたとしても、そしてボコボコにしたとしても何の意味もない。

 時間は戻らないのだから。過去へ遡る術は、ないのだから。

 罪を憎んで人を憎まず、と誰かが言った。その誰かとは、こういう気持ちだったのだろうか。いわんや、諦観にも似た感情を抱いていたのだろうか。

「何はともあれ、東野さんのことだよ。きっと傷付いている」

「ん……まあそうだろうな」

「だったら、慰めてあげないと」

「ああ……」

 僕がそう言うと、小早川さんは首の後ろ側を抑え、歯切れ悪く言い淀む。

「ま、まあここはあたしの出る幕じゃねえ」

「は? 何を言って……」

 あんなものを見て、まともな精神状態でいられるはずがない。

 誰かが一緒にいてあげた方がいいのではないだろうか。

 そしてその誰かは、やはり小早川さんがいいのではと僕は思う。

 幼馴染で親友の彼女が、東野さんの側にいてあげた方がいいのでは、と。

「あたしもそれを考えた。んだけれど、ちょっと待って欲しい」

 小早川さんは視線を右往左往させ、最終的に天井を仰いだ。

「これは捉えようによってはいい機会だと思うんだよ」

「いい機会って、そんな」

 そんなこと、あるはずがない。だって、東野さんは傷付いているのだから。

「考えてもみろ。祈は今、片思い中だ。そして相手の男は同じ部活」

「う、うん」

「なら、傷付いた祈をそのまま部活に出席させた方がいいってことにならないか?」

「え? うーん……そう、なのか?」

 確かに、弱っている生き物を見ると手を差し伸べたくなる。

 ましてや相手が同年代の女の子ともなればどうだろう。……どうだろう?

「どうだろう?」

「その相手の男は沈んでいる祈を見て、か弱いと思うはずだ。そして男はか弱い女が好き」

 えらく自信満々に断定されてしまった。

 か弱い、と聞いて、最初に思い浮かぶのは神谷先輩だった。

 なぜだろう? おさげだったり眼鏡だったりがそういう印象を持たせるのだろうか?

「だから、これをいい機会だと捉えて、祈をその男に任せよう」

「な、なるほど」

 わかったような、わからないような。

 ともかく、今は遠くから見守っていようと、そういうわけだ。

 僕は頷いた。そうと決まれば、何もしないさ。

「ところで、小早川さんはそれでいいのだろうか?」

「は? どういう意味だよ?」

「いや……だから、東野さんの側にいたいのではないかと思って」

 言った途端、僕は後悔した。

 僕の言葉を受けた小早川さんの表情が、硬いものへと変化したから。

 それこそ、まるで鬼のような形相という形容詞がぴったりくるような、そんな表情だった。

「……いいんだよ。あたしが関わるとろくなことにならない」

「でも……」

「いいんだ」

 小早川さんは有無を言わせぬ口調で、首を振る。

 僕はそれ以上、何も言えなかった。

 本人がいいと言うものを、赤の他人である僕が云々する道理はない。

「そう……でも、もしも僕にできることがあったら言ってくれ」

「ああ……サンキュ」

 小早川さんは頷き、深く息を吐いた。

 

 

                   5

 

 

 三日が経過した。あの張り紙のことが、まだ尾を引いていた。

 ひそひそと、クラス中が囁き合っている声が聞こえてくる。

 その大半が、東野さんに向けられたものだった。

 悪意。好奇心。憶測。

 そういった不確かで形の定まらない何かが、教室を満たしているようだ。

 居心地が悪かった。

 休み時間になるごとに、僕は教室を出た。

 どこへ行くというアテもないが、学校中をうろつき回る。

 そうして、時間を潰して。

 何とか放課後までやり過ごすことができた。

 放課後。僕は図書室を訪れていた。もちろん、本を読むためではない。

 神谷先輩に会うためだ。先輩なら、僕に何らかの言葉をくれるかもしれない。

 それは、淡い期待なのかもしれない。もしかしたら、先輩だって困るかもしれない。

 しかし、先輩は言った。元の鞘に収まると。

 その先輩なら、きっと。

「…………」

 けれど、図書室にはまたしても、先輩の姿はなかった。

 僕は呆然と進む。いつもの、先輩と向かう会う席へと。

 ぐるりと図書室内を見回してみた。今日は東野さんの姿もない。

 どうしたものだろう。僕は、どうしたらいいのだろう。

 相変わらず、司書の先生はいない。

 仕方なく、僕は図書室を辞した。とても本を読む気分ではなかったから。

 階段を降りる。学校にはもうあまり生徒は残っていないのか、比較的静かだった。

「東野さん……大丈夫だろうか?」

 思い返してみると、東野さんはあまりショックを受けた様子はなかった。

 あの時は呆然自失になっているのかとも思った。が、違うのではないかとも思えてくる。

 東野さんは絵がすごくうまい。小早川さんが自慢げに語るほどだ。

 ずっと昔から、夢中になって描いてきたのだろう。だからこそ、あれほどの腕だ。

 つまり東野さんは絵を描くことに夢中になっている。

 夢中になれる何かがある人は、すごい人だ。

 そのすごい人である東野さんが、これくらいで心折れるとも思えなかった。

 大丈夫だろう。きっと僕が心配するなんて、それこそ失礼だ。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか一階へと降りていた。

 目の前には、美術室がある。何度か授業で来たことある教室だ。

 今は美術部が部活中なのだろう。中から人の気配がする。

 話し声。大半は絵のこの部分を直した方がいいとか、そんなことだ。

 部活中なのだから、当然か。

 僕は中に入ろうかと思案する。部外者の僕が、突然入ってもいいものだろうか。

 わからない。どうしよう。

 迷っていると、図らずも美術室の扉が開いてしまった。

 中から出てきたのは、一人の男子生徒。

 線の細い、気弱だが優しそうな印象を受ける。

 彼は細いフレームの眼鏡の奥から、不思議そうな視線を向けてきた。

「んん? ええと、確か真壁君……だったね」

「僕のことを?」

「はははは、何を言っているんだい。同級生じゃないか。クラスは違うけれど」

 男子生徒は愉快そうに笑って、ポンと僕の肩を叩いた。

 同級生か。けれど僕はここのところ忙しくて、別のクラスの人間の名前や顔まで覚えることができずにいた。

「えっと、ごめん……実は君のことを知らなくて」

「まあまだ入学して日も浅い。僕たちは接点もほとんどないから当然さ」

 たはははははは、とその男子生徒は快活に笑った。

 見た目の貧弱さとは裏腹に、よく通る、お腹の底に響くような声だった。

「ところで、今日は一体どんなご用かな?」

 彼はくっと眼鏡を押し上げる。

 用か。あるといえばあるし、ないといえばない。

「えーと……そうだ、東野さんはいる?」

「東野さん? はて、そう言えば今日は来ていないな」

 男子生徒は小首を傾げ、背後を振り返る。

 僕は彼の肩越しに、美術室の中を見た。

 部員らしき人影は全部で五人。今、目の前にいる彼を合わせると六人か。

 けれど、彼の言う通り遠野さんの姿はなかった。

「部長、東野さんに用事だそうですが、何か聞いていますか?」

 男子生徒は室内に向かって声をかける。すると、一人の五人の内の一人が振り返った。

 彼が部長ということらしい。

「いや、珍しいねってみんなで言っていたところだよ」

 こちらに向き直った部長は微笑みを浮かべつつ、そう返答した。

 色白の肌。すっと通った鼻筋。背丈は、高くもなく低くもなくといったところか。

 全体的に、儚い印象を与える、そういう人物だった。

 部長……とすると、この人が東野さんの想い人。

「やあ、申し訳ない。今日は東野さんはお休みなんだよ」

 部長はそう言って、やはり頬笑んだ。

「そうですか……ちなみに理由って」

「わからない。何かあったのかな?」

 部長は不安そうに、眉間に皺を寄せていた。

 心配、なのだろう。まだ入学してそれほど経っていないとはいえ、東野さんほどの人が無断欠席をしたのだから。

「そうですか……ありがとうございました」

 僕はお礼を言って、美術室を辞した。

 これ以上、ここにいても仕方がない。そう思ったから。

「ああ、君」

 呼び止められ、僕は振り返る。

 何だろう? と部長の言葉を待つ。と、部長は少し言いにくそうに視線を泳がせて、それから口を開いた。

「東野さんに伝えてくれないだろうか。無理に部活に来なくてもいいよって」

「……はい」

 僕は再度、頭を下げた。

 そして今度こそ、美術室を後にする。

 部長の最後の一言に、どこかもやもやとしたものを抱きつつ。

 

 

                6

 

 

 帰路を歩いていると、背後から僕を呼ぶ声が聞こえてきた。

 僕は立ち止まり、振り返る。すると、目の前にいたのは神谷先輩だった。

「何をしていたの?」

 神谷先輩は優しく微笑むと、僕の側まで小走りに近寄って来た。

「何をって……まあ色々と」

 色々あった、というには物足りないだろうか。

「先輩こそ、何をしていたんですか?」

「わたしは……わたしも色々と」

 訊かれたくないことだったのだろうか。なら、これ以上は聞くまい。

 お互いに探られて痛い腹はないだろうけれど、世の中それだけとは限らないから。

「ちょっと疲れちゃったね」

 にこにこと笑いながら、先輩はそんなことを言う。

 確かに、言われてみれば疲れているように見える。制服も若干汚れているだろうか。

 本当に、何をしていたんだろう。訊かないのだと決めたけれど、気になる。

 気にはなるが、ここはぐっと我慢する。

「……実は、先輩に相談したいことがありまして」

「東野さんのこと? 例の張り紙のこと? それとも小早川さんのこと?」

 僕は思わず、足を止めた。

 なぜ、先輩がそんなことを知っているのだろう。

 僕はまだ、相談事がそれらに関係しているとは一言だって言っていない。

 なのに、どうしてわかったのか。不思議でならなかった。

 僕が黙っていると、先輩はくすくすと笑みを溢していた。

「おかしな顔をしているよ、真壁君」

「……だって、言い当てられてしまったから」

 悩んでいることと言えば、目下それくらいだ。

 僕はどうしたらいいのか、さっぱり見当も付かない。

「先輩は言いましたよね。元の鞘に収まると」

「うん、言ったね」

 神谷先輩は小さく頷いた。それは肯定を示しているというより、ただの動作だった。

 それくらい、僕が抱えている問題は先輩にとって些末なことなのだろうか。

 そう考えると、ちくりと胸が痛んだ。

「……どうしたらいいか、先輩は知っているんですか?」

 先輩はすーっと視線を横に流した。言葉を選ぶように、その視線が虚空をたゆたう。

「知っている、というのとはちょっと違うけれど、まあ君よりはね」

「……だったら、教えてください」

「でも、今君が抱えている問題は別に君とは関わりのないもののはずだよ?」

「それでも、です」

 僕は先輩に、懇願する。心から、お願いする。

 確かに、あの二人のことや東野さんの恋のことは僕には関係のないことだ。

 けれど、だからといって今、東野さんや小早川さんを見捨てることはできない。

 放って置くことはできない。それだけは、やってはいけないのだと思う。

 だからこそ、僕は頭を下げなければならない。できることは、全てやらなければ。

 そうしなければ、東野さんと小早川さんの関係に決定的な亀裂が走ることになる。

 二度と、修復不可能な、傷が。

 それは根拠のない、憶測とも呼べないただの悪い予感めいたものだ。

 けれど、僕はその不安と憶測を取り除くために、できる限りのことはするつもりだ。

「……んー、そうだねえ」

 神谷先輩はふわふわと視線を彷徨わせたまま、考えていた。

 眼鏡が、少しだけずれる。位置を正し、再び思案する。

 その姿はまさに堂に入っていると思えた。普段の弱々しい先輩とは決定的に違う。

 凛々しく、頼もしさすら感じる。

「……例えばこの先、この問題をどうにかできたとしても」

 先輩は言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。

「短期的に見て、二人の関係は一度途切れてしまう」

「え……それは」

 それは、だめだ。それでは意味がない。

「まあ最期まで聞いて。関係は一度途切れる。けれど、時間が解決してくれるから」

「時間が解決してくれる……?」

 僕は先輩が何を言っているのか、わからなかった。

 人間関係というものは、一度ひびが入ってしまったら、修復は困難なものだと思う。

 それまで築いてきた関係性を失ってしまう、ということなのだから。

 だからこそ、今の関係性を保ったまま、守っていかなくてはならない。

 そのために、僕は先輩のアドバイスが欲しかった。なのに、時間が解決する?

 どういうことだろう。よくわからない。

「えっと……それで僕はどうしたら?」

「真壁君は真壁君の思った通りのことを全力でやればいいと思うよ?」

「でも、それじゃあ」

 わからないのだ。何をすればいいのか。

 僕は自分がそれほど頭がよくないことを自覚している。

 もし僕が優秀な奴だったら、これほど困ってはいないだろう。

「んーと……じゃあさしあたり、小早川さんの昔の話を聞き出してみるとかどうかな?」

 先輩はにこっと微笑んで、そう言ってくれた。

 本当にそれでいいのか、疑問は残る。けれど、行動の指針がなかったのも事実だ。

 せっかく先輩は示してくれたのだから、ここは従っておこう。

 それに、そうしなければいけないような気もするから。

 

 

                 7

 

 

 僕は帰宅すると、すぐさま自分の部屋へと戻った。

 両親は共働きで、この時間は誰もいない。ベッドの上に寝転がり、ごろんと仰向けになる。

 見慣れた天井だった。いつもの、僕の部屋の僕の天井。

「小早川さんの昔の話……か」

 あの張り紙を見て、僕はすぐに東野さんの姿を探した。

 きっと、すごく嫌な気持ちになっていただろうから。

 けれど、同時に頭の片隅には小早川さんのことが過ぎった。

 もし、あの場で東野さんに声をかけるべきだったのは、僕ではなく彼女だったのでは?

 そんな考えが浮かんでは消える。僕は部外者で他人。

 対して、小早川さんと東野さんは幼馴染なのだから。

 しかし、小早川さんはそれをしなかった。それはなぜか。

 そこに、二人の抱える何かがあるのだろう。そしてそれを、僕は聞き出すわけだ。

 果たして、それは僕が聞いても問題のない話なのだろうか。

 東野さんと小早川さんの過去。仮に聞き出したとして、僕の手に負えるのか?

 僕ははあと溜息を吐いた。思考が堂々巡りだ。

 無理、無茶と言う単語が頭の中を飛び交う。

 きっと、僕が聞き出そうとしていることは、二人にとってデリケートなことだ。

 つまり、話手なんてくれないだろう、ということは容易に想像が付く。

「どうしたらいいんだ……」

 両手で顔を覆う。何度も溜息が漏れ、その度に頭の中から何かが抜けていく。

 僕はきっと、役立たずのままこの問題は収束するだろう。

 何も解決しないまま、あの幼馴染二人は互いに分かれるだろう。

 時間が解決してくれる。五年後か十年後かはわからないが、遠い未来に。

 あの二人が再会し、仲良く談笑する。そういう結末もあるのかもしれない。

 今という時間を犠牲にして「あの時ああいうこともあったね」という思い出話にする。

 そういうことも、きっとあるのだろう。僕には理解し難いが。

 それでもきっと、先輩は理解できていたのだろう。そういうこともあると。

 神谷先輩は僕より多少な長く生きている。なら、そうしたことにも理解がある、のか?

 わからないが、とにかく僕は悩んでいた。

 小早川さんに話を聞くべきか、否かを。

「……誰だ?」

 ブーッとスマホが震える。僕はのっそりと起き上がり、部屋の中を見回した。

 ベッドの隅に、スマホは落ちていた。寝転んだ拍子にポケットから落ちたようだ。

 僕はスマホを取ると、画面を見た。

 発信者は春日井さんだった。

「…………なんだろう、こんな時に」

 僕は通話ボタンを押すことをためらった。誰かと話をしたい気分ではなかったから。

 けれど、そのまま無視をすることも忍びない。

 少しの間、考える。時間にして一分も満たなかっただろう。

 その間、スマホはずっと震えていた。

「……もしもし」

『あっ、やっと出た』

 ためらった末、通話ボタンを押した。春日井さんの元気な声が僕の耳朶をくすぐる。

「どうしたの?」

『んー、ちょっとね。真壁君、なんだか元気がなかったみだいだから』

「ちょっと……ね」

『もしかして真壁君が元気ないのってわたしのせいだったりするのかなって思って』

 春日井さんのせい? それはどういう意味だろう?

 僕は首を捻り、記憶を探る。今回の一件のどこに、春日井さんの責任があるのか。

 ああ、確か春日井さんが小早川さんに僕のことを話たことがきっかけだった。

 けれど、それは他愛のない世間話の延長上のことだ。責任を問うのは間違っている。

 そう、僕は思う。だから、僕は春日井さんの言葉を否定した。

「違うよ。それとこれとは全く別問題だから」

『そう、なんだ……何だか最近、樹里も祈も元気がないから、わたしのせいかなって』

 ははは、と電話口で乾いた笑い声が聞こえてくる。

 無理をしている、とすぐにわかった。わかったが、こういう時何を言えばいいのか、相変わらず僕にはわからない。

「まあ……とにかく春日井さんは関係のないことだよ」

 僕は元気付けるつもりでそう言った。

 正直、僕もつらい。他人を気遣っている余裕なんてなかった。

 だけれど、それを言い出したらきりがない。誰だって、自分のことで精一杯だ。

 春日井さんも小早川さんも東野さんも。もしかしたら、神谷先輩だってそうなのかも。

 それでも、だとしても、他人の傷に鈍感になれるかどうかは別問題だ。

 そして、そこに適切な言葉を投げれるかどうかも別問題だ。

「……まあでも、わかったよ」

『真壁君?』

「僕がなんとかするよ。なんとか、二人を元気付けてみる」

『……ありがとう』

 電話口でそう言う春日井さんは、少し泣いていたのだろうか。

 僕は何かを言おうとした。それが何だったのか、わからない。

 元気を出して? 安心して? しっくりこないが、まあそんな感じの言葉だったと思う。

 けれど、僕はそれを言わなかった。否、言えなかった。

『真壁君、ねえ真壁君』

 二度、名前を呼ばれた。なぜ?

 三度目は、そう時間置かずまた呼ばれた。

『真壁陸君。前にわたしが言ったこと、覚えてる?』

「え?」

『ほら。以前に君がわたしのことを助けてくれた時に』

「ああ、いや……あれは僕じゃなくて先輩と皐月先生が」

『そんなことは大切なことじゃないの』

 春日井さんは僕の言葉を遮って、短く断じた。

『陸君がどう思っていたとしても、わたしは陸君に助けられたと思ってるよ』

 いつの間にか、呼び方が「陸君」に変わっていた。

 けれど、春日井さんにそう呼ばれるのは悪い気がしなかった。

『あれから少し時間が経ったけれど。ちょっと冷静になれたけれど』

 すぅーっと、春日井さんが息を吸い込む。大きく吐く。

 その様子が容易に想像できるほど、その音は僕の鼓膜を震わせた。

 ぞくぞくと、背筋に得体の知れない感覚が這い回る。もっと、彼女の息使いを聞いていたい。そう思った。

『わたしは今でも、君が好き。だから陸君。わたしと結婚してください』

「あ、あの……えっと」

 だらだらと額から汗が流れる。背筋が冷たいのに、全身が熱くなる。

 これが、冷や汗という奴なのだろうか。字面の上では何度も見たことがあったが実際に体験するのは初めてだった。

 結婚。その言葉の辞書的な意味は知っている。

 男女が――近年は男女に限らないけれど――法律上結ばれること。

「……その話は、また今度」

 僕たちはまだ、中学生だ。中学生になりたての分際で、何を結婚などと言っているのか。

 それに、東野さんと小早川さんの問題もある。

 それらが片付かない内は、浮付いたことを言っている場合ではないのだ。

 と、そんな感じのことを早口にまくしたてて、僕はそのプロポーズを保留にしてもらった。

 何とも情けない話のように聞こえるかもしれない。でも仕方がないだろう。

 白状すれば、怖気付いたのだ。

 女子は男子より精神的に成長が速い、なんて伝説を聞いたことがある。

 でも、いくら何でもこれは早熟過ぎるというものではないだろうか。

 僕はなんとか平静を保った。挨拶をして、ぷるぷると震える指で通話を切る。

 スマホを放り投げ、大の字なりにベッドに横たわる。

 右の耳に手を当てた。目を閉じれば、ついさっきまでの春日井さんとの会話が蘇る。

 彼女の声。言葉。

 結婚してください、という一言。それが、僕の脳裏にこびり付いていた。

 小早川さんたちのこともあるのに、結婚などという単語が頭の中を何度も旋回している。

「ああもう!」

 僕はぐしゃぐしゃと頭を掻き回した。

 考えが纏まらない。元よりそれほど頭の回転が速い方ではないので、いつものことだが。

 それにしたって、あの二人のことを思案しようとすると、結婚という二文字が横槍を入れてくる。そうして、思考は中断される。

 僕はバッと立ち上がると、とりあえず着替えることにした。

 そして今日は、もう何も考えず、いつも通り過ごすことにした。

 

 

                 8

 

 

 考えないようにとは言ったものの、当然そんなことは不可能だ。

 なので僕はその日、走ることにした。

 運動はそれほど得意というわけではない。が、体を動かすことはそこそこ好きだった。

 スポーツウエアに着替え、気ままにぶらりと走ってくる。

 我が家へと戻ってくる頃には、頭の中がすっきりして心地良い疲労感に包まれていた。

 シャワーを浴び、リビングのソファに座る。

「ふー」

 一息吐くと結婚のことは一先ず脇に置いておける。そんな気持ちになった。

 とりあえず、今は小早川さんと東野さんのことだ。二人の問題が片付かないことにはどうにもならなかった。

 言ってしまえば、僕には関係のないことだった。東野さんと小早川さん。あの二人の問題なのだから。

 けれど、ここまで関わってしまった以上は知らん顔はできない。せめて、最後まで見届けるのが責任というものだろう。

 しかし、どうしたものだろうか。

 小早川さんのあの態度。あれはどう見ても、過去に何かしらあったと考えるべきだ。

 そうでなかったら、きっと小早川さんのことだ。あの張り紙の犯人を見付けるために東奔西走していたに違いない。

 あるいは、今頃は殴り倒していたかもしれない。

「ただいまー」

 思考は纏まらないまま、時間だけが過ぎてしまっていたらしい。

 玄関の戸を開ける音とともに、帰宅した者があった。

 あの声は……、

「お帰り」

「……何をしているの、お兄ちゃん?」

 案の定、リビングに姿を現したのは、妹だった。

 真壁知枝。小学五年生。

 同学年の子と比べると幾分小柄だが、目付きと口の悪さから獰猛な肉食獣を連想させる。

 同級生からは、タイガー知枝と呼ばれているとか。

 何でも、仲良しの友人を小馬鹿にしたクラスメイトと大立ち回りの殴り合いを演じたとか。普段はあまり口数も多い方ではなく、切れやすいタイプでもないのだが、一旦スイッチが入ると手が付けられないほど暴れん坊になるのだから困ったものだ。

 そんな我が妹、知枝はソファに寝転がっている僕を睥睨していた。

 それはもう、虫けらでも見ているかのように睨んでくる。

「……なんだよ」

「別に。ただ、邪魔だなーっと思って」

「兄に向って邪魔とはずいぶんな言いようだな」

「フッ……兄って」

 知枝は僕を小馬鹿にするように、小さく笑う。

 その笑みが、これまた腹が立つのだから始末に負えない。どうして妹という存在はこうも腹が立って仕方がないのだろう。

 僕は起き上がり、座り直す。と、妹がランドセルを僕の隣に置く。

 そのまま、つかつかと台所へと向かった。冷蔵庫を開け、ジュースを取り出す。

 りんごジュースだった。座るんじゃないのかよ。

 僕は内心で突っ込みを入れつつ、知枝の様子を観察する。

 コップに注ぎ、冷蔵庫に戻す。その一連の動作が年相応にデジャヴを覚えた。

 要するに、同じくらいの年齢の時に同じような行動を取った人間がいたということだ。

 まあ僕のことなのだけれど。

「……何? そんなにじっと見て」

 知枝はジュースを喉に流し込みながら、殺意の感じられる瞳で睨み付けてくる。

 僕は視線を逸らした。別に怖かったから、とかじゃない。

「何でもない」

「……はあ」

 妹はジュースを飲み干すと、戻って来てランドセルを手に取った。

 それを床に置き、今度は自分の体をランドセルがあった場所に収める。

「何かあったんでしょ、お兄ちゃん」

「……別に、何もないさ。どうして?」

「あたし、お兄ちゃんのことはどちらかと言えば嫌いだけれど」

「はっきり言うな……案外傷付くから」

 まあ何となくわかってはいた。理由はわからないが、兄妹なんてそんなものだろう。

「これでもそこそこ妹やってる年月は長い自覚があるからさ。何となくわかる」

 兄が悩みを抱えているということは、妹には筒抜けらしい。

 僕は知枝の頭を見た。つむじのあたり。

 丸っこくて、小さくて、昔はこの頭を可愛らしいと思ったこともあった。

 今は憎たらしい小生意気な小娘だがな。

「お兄ちゃん、悩んでるみたいだから。まあ暇と言えば暇だし、聞いてあげなくもないよ」

「……ふむ」

 さて、どうしたものだろうか。

 はっきり言って、この妹に相談したところで解決できるとは到底思えない。

 とはいえ、何かヒントくらいは得られるだろうか。どうだろう?

「実は……な」

 僕は妹に相談することにした。

 相談、というよりは、愚痴を聞いてもらうと言った方が正確かもしれない。

 小早川さんのこと、東野さんのこと、神谷先輩のこと。

 もちろん、各人のプライバシーに配慮して言葉を選んだりはした。ので、幾分たどたどしい感じになってしまったがいいだろう。

 別に知枝に解決してもらおうなどとは少しも思ってはないのだから。

「……と、まあ現在はこんな状況だ」

 僕の説明とも呼べない説明を聞き終えると、知枝はふうむ、と唸った。

「まあ大体はわかったよ。つまりあれだね。あたしの手には負えない」

「あ、ああ……まあそうだな」

 わかっていたことだ。この小学生女子に助けを請おうなどとは最初から思ってない。

 ただ、今話したことでいくらか頭の中がすっきりしたことは確かだった。

 これなら、きっと何かいい妙案が思い付けるかもしれない。

 僕は内心でそう思ったが、それを知枝に言うことはなかった。教える義理もなし。

「もういいぞ」

「何それ、偉そうに!」

 しっし、と僕は妹を追い払った。すると、知枝は不満そうに口を膨らませ、憤慨する。

 そのまま立ち上がり、僕を睨み付ける。が、妹の睨みなど怖くない。

 すぐに効果がないと悟ったのだろう。知枝はランドセルを掴むと、どしんどしんと足音を響かせ、リビングを出て行った。

 バタンッと勢いよく扉が締められる。

 再び静寂が訪れる。静かだ。

 僕はもう一度、ゴロンとソファに寝転がった。

 天井を見上げる。LEDの光が眩しかった。

 思い付いたことはある。けれど、果たしてそううまくいくものだろうか。

 もしかしたら、余計にあの二人を傷付ける結果になりはしないだろうかという不安もあった。しかし、そんなことばかりを言っていてもしょうがない。

 確かに僕には関係のないことだ。けれど、ここに首を突っ込むと決めた以上は何らかのアクションを起こさなければならないのだと思う。

 それが、例え誰かを傷付ける結果となるのだとしても、だ。。

 

 

              9

 

 

 そして翌々日。僕は今だに小早川さんたちに話を聞けずにいた。

 覚悟はできていたつもりだった。が、いざ二人の前に出ると怖気付いてしまう。なんとも情けない話だ。

 教室の窓際。そこが小早川さんの席だった。

 小早川さんは例の一件以来、近寄り難くなってしまっていた。元々どこか粗雑な印象を受ける彼女は、不機嫌さを隠そうともしないために孤立気味になってしまっている。

 それは、東野さんも同じだった。いや、直接的に名指しされただけ、東野さんの方がより深刻であるとさえ言える。

 僕は二人に対してなんと声をかけていいのかわからなかった。

 ああ、本当に情けない話だ。

「ずいぶんと悩んでいるようだね、真壁君」

 放課後、図書室での一幕。

 僕は机に突っ伏して、溜息を吐いていた。そして僕の目の前には神谷先輩がいる。

 神谷先輩は困ったように笑っていた。それはそうだろう。僕のこんな醜態を見せられたら、誰だって反応に困ってしまうものではないだろうか。

「……まあね。なんたって、あの二人に話を聞かないといけませんから」

「難しい問題だよね。でも、一ついいかな?」

「何です?」

「それってさ、真壁君が解決しなくちゃいけないこと?」

「……えっと」

 僕は思わず顔を上げていた。突然何を言い出すんだ、この人は。

「確かに、僕は赤の他人で、言ってしまえば無関係です。でも」

 でも、このまま見過ごすことはできなかった。

 もしもここで知らぬ顔をしてしまえば、あの二人はずっとあのままだ。

 そう、思うから。

「前にも言ったと思うけれど、これは時間が解決する類いの問題だから」

 神谷先輩は読んでいる本のページをめくる。今日は京極夏彦『ヒトごろし』を読んでいた。

「確かに今はあの二人は大変だと思う。けれど、大人になった時には一つの思い出だよ」

 先輩の言葉は、妙な説得力を持っていた。

 大人になった時にはって、先輩だって僕たちより一つしか年が違わないくせに、何を言っているんだ。

 僕は神谷先輩の言い方が気に入らなかった。確信しているというか、断定的というか。

 それに、時間が解決するとは言うけれど。

「東野さんたちが苦しんでいるのは今なんですよ。なのに知らん顔するなんて」

 時間が解決するからと言って、放って置いていいということにはならない。

「それに、先輩の言う時間が解決するって言うのは、ただ単に忘れるってことじゃないですか。それは……」

 それは、よくないことだ。時の流れに任せて、記憶から消してしまって。

 それではるか未来に思い出して「あの時は大変だったね」で済ませてしまおうということだ。

 悪いことではないのかもしれない。しかし、よくないことだ。

 仮に笑い話に出来たとしても、二人の間には今回のことは苦い思い出として残る。

 友達だった二人が、互いを遠ざけるきっかけになるかもしれない。

 何年後に再会するすることになるのかわからないが、その時になってやっと笑い話に昇華できるようになるなんて、そんなことがあっていいはずがない。

「僕は……二人が今笑い話に出来るようにしたいです」

「それは……難しい問題だね」

「難しい、ですか」

 難しいね、と先輩は言う。いつもの笑顔で、でもどこか悲しげに。

「出来ることなら、今の段階でどうにかしたいところだね。でも、人には限界がある」

 先輩はパタンと本を閉じ、次いで目を閉じる。

 何かを思い出しているかのように、背筋を伸ばしてじっとしていた。

「未来を変える、というのは、並大抵のことではないから」

「未来を変える……?」

 先輩が本の表紙を撫でる。帯に土方歳三という名前があった。

 土方歳三。名前くらいなら聞いたことのある、その元薬売り。

 武士に憧れて、時代の波に抗った男。でも結局は死んでしまう。

 時代の波に逆らえずに、散ってしまうのだ。

 彼のようなすごい人物ですらそうなのだから、僕のごとき人間が何事かを成そうとしても無駄なのかもしれない。

「それでも、僕は二人を放っては置けない」

「そう……だったら、もう一つ、わたしからアドバイス」

 先輩はこほんと咳払いをすると、すっと瞳を細めた。

 今から彼女が言うことは、しっかと胸に刻んでおかなければならない。そう、直感した。

「中途半端はよくないから。もし二人の間に割って入るのなら、覚悟を持って臨むこと」

 先輩の声音は、いつもの優しさに満ちていた。

 けれど、どこか虚ろというか、薄ら寒いものを感じてしまう。

「……わかっていますよ」

 と、口では言ってみたものの。

 僕は先輩の言い様に、恐れを覚えていた。

 神谷雫の言葉には、一定の何かがあった。僕が恐怖を抱く何か。

 僕が僕の望む結果へと至るために行動する。しかし、僕の行いは必ずしもよい結果を招くとは限らない。

 失敗するかもしれない。いや、僕のことだ。必ず失敗する。

 失敗すれば、きっと今度こそ取り返しの付かないことになるかもしれない。

 時間では解決できないような、何か致命的な欠陥が生じるかもしれない。

 僕のせいで。僕が余計なことをしてしまったせいで。

 まだ起こってすらいない出来事を想像して、僕は背中に嫌な汗を掻いていた。

「怖い?」

 首を傾けて、先輩は問うてくる。

 僕は、怖がっているのだろうか。たぶん、そうなのだろう。

 なぜなら、僕の軽率な行動のせいで、人生を捻じ曲げられる人間が出てくるかもしれないのだから。それを考えると、怖くないわけがない。

 何を大袈裟な、と思われるかもしれないが、僕にとってはこれは一大事であり、きっと僕だけがそのことを本当に理解している。

 他の誰だって、僕ほど深刻にとらえている人間はいないだろう。

 当の、彼女たちでさえ。

「…………」

 僕は結局、先輩の問いには答えなかった。

 答えないまま、そっと席を立つ。図書室を後にする。

 今日も、司書の先生はいなかった。

 

 

           10

 

 

 どうするべきか、踏ん切りが付かないまま、更に二日が経過してしまった。

 校内は、例の張り紙のことなど忘れてしまったかのようにその話題が出なかった。

 僕の耳に届かなかっただけかもしれない。何にせよ、いいことだと思った。

 一時間目は体育だった。朝から面倒臭い。

 体を動かす、という気分でもなかったが、授業なのだから仕方がない。

 僕は他の男子に混じって、のろのろと着替えを始めた。

 着替え終えて、廊下に出る。友人が何人か話しかけてくるが、全て曖昧にしか返答できなかった。

 僕は、このままどうすることも出来ないのだろうか。できないのだろう。

 今回の件で、僕に事態をどうこうできるだけの力はなかった。

 ただ、それだけなのかもしれない。

「……はあ、どうしたらいいんだろう」

 四時間目までの授業を消化して、僕は独り言ちた。

 場所は図書室。目の前には、当然のごとく神谷先輩がいる。

 先輩はちらりと僕を見た後、何事もなかったかのように読書に戻った。

 先日、先輩からもらったアドバイス。あれ以上のことを言うつもりはないようだ。

 あれだって、別に大したことは言っていない。誰にだって言えることだ。

 だから、僕は気にするべきではないのだろう。だけれど。

 だけれど、それでは無責任に思える。お節介に、仲直りをするべきだと説くのは。

 それは強弁というものだ。強制と言い換えてもいいかもしれない。

「……ねえ、真壁君」

 先輩に呼ばわれ、僕は彼女へと視線を向けた。

 先輩は本を閉じ、僕を正面から見据える。

「何ですか。僕は今思索に耽っているのです」

 僕は若干、不機嫌な声を出していたと思う。けれど、先輩は例の笑顔のまま、諭すような調子で続ける。

「ねえ知ってる? 学校の裏手に道があるのを」

「道? はあ……それは知りませんでした。一体何の道ですか?」

「何でも、昔戦争があってた時期に作られた道で、今は草木に覆われて知ってる人のいない道なんだけれど」

「はあ……それが?」

 一体、突然何を言い出すのだろう、この人は。

 僕は訝しく思い、眉根を寄せた。話の筋が見えない。

「道って言っても、その昔に生徒が作った道らしくってね」

 先輩はどこか楽しそうに、その話を続けた。うきうきとした様子がちょっと鬱陶しい。

 僕はこれほど思い悩んでいるというのに。

「補装もされていない、ほとんど獣道みたいな道なんだって」

「……へえ」

「なんでそんな道を作ったか、わかる?」

「いえ、わかりません」

 戦争時に作られた、という話なのだから、きっと避難するために作られたのだろう。

 僕としては、それだけの理解しかなかった。

 先輩に僕の意見を言うと、先輩は小さく首を振った。

 否だ。僕の出した答えは違ったらしい。

「この学校、お嬢様学校と隣り合わせでしょう。だからだよ」

 だからだよ、と言われても、僕にはさっぱりわからなかった。

 何が、だからなのか。

 僕が首を傾げていると、先輩はじれったそうにしていた。

 今度は先輩が眉間に皺を寄せ、頬を膨らませる。

「わからない? 本当に?」

「はあ……すみません、僕には何の話をしているのかさっぱりで」

 先輩は肩を竦め、やれやれと首を振る。むっ、ちょっとむかつく。

「道の真ん中に協会があってね。協会って言っても、これもただマリア様が描かれているだけのものなんだけれど。その絵も過去に生徒の内の誰かが描いた物らしいんだよね」

 そこで先輩は一度言葉を切り、すうっと息を吸う。

 心なしか、少し頬が紅潮しているように見える。

「その絵は生徒たちの逢瀬を見守っていたそうだなんだよね」

 うっとりと、先輩は言った。

 逢瀬……つまり、会っていた。恋人たちが、そこで密会をしていた。

 まだ僕とそう年の変わらない少年少女たちが。

「詳しいですね」

「頑張って調べたから。わたし、この手の話結構好きなんだ」

「けれど、一体どうやって? 要するに非公式の建物でしょう?」

 学校関連の資料にあるはずもない、そんな場所。

 どうやって調べたのだろう。その方法が気になるところだ。

「んー……何となくかな?」

 先輩は天井を見上げ、それからにっこりと笑った。

 不思議な人だと思った。いや、前から変わった人だとは思っていたけれど。

 それでも、この時ほど神谷雫という人間を不思議に思ったことはなかった。

「ええと、それでなぜそんな話を今僕に?」

「ふふん、なぜでしょう?」

 いやほんと、摩訶不思議な人だ。

 

 

            11

 

 

 その翌日、僕は神谷先輩が言っていた場所に足を延ばしてみた。

 協会、と先輩は言っていたけれど、見るからに廃屋だった。

 まあ非公式な協会らしいし、建物自体の年代もかなり古いという話だったからボロボロでも仕方がないのかもしれない。

 ここでかつて、恋人たちが秘密裏に会っていたのか。

 僕は当時のことなんてまるでわからない。けれど、きっと辛かったのだろうと思われる。

 周囲から認められず、ただ悲しむことしかできなかった彼ら。そこには、一体どれほどの気持ちが秘められていたのだろう。

 それを思うと、悲しくなる。しかし、僕は僕で悲しんでいる場合ではない。

 扉を開ける。キィィッと頭の奥を突き刺すような異音が鳴り響く。不快だ。

 扉を開け放したまま、僕は建物の中へと足を踏み入れる。

「これは……」

 僕は目前の一枚の絵画に見惚れていた。

 粗末な額縁に入れられたそれは、教科書や歴史資料なんかでよく見る聖母マリアだった。

 生まれたばかりの赤ん坊のキリストを抱き、優しく微笑むその姿は慈愛に満ち、幸せそうだ。

 ところどころ古びた印象を受けるが、それが時代の流れを経てできたものだということは十分に理解できる。それでいてなお、いやだからこそ、あの聖母マリアは僕の心に触れてくるのだろう。

 僕は自分のことをキリスト教徒だとは思っていない。それでも、長い歴史を経たその絵には、ある種の重みが感じられた。

 宗教観を超えた、包み込まれるような感覚。

 静謐さの中に優しさがある、そんな空間だった。

 ここで、かつての恋人たちが語らったという話にも、納得できる。

 彼女の前でなら、自分の心の内をさらけ出せそうな、そんな気分にさせてくれる場所だ。

「ここなら」

 ここなら、きっとあの二人の本音が聞けるかもしれない。いや、聞けずともいい。

 ただ、こんな形で小早川さんと東野さんの間に亀裂が入るのはよくないと、僕は思っている。それを何とかしたいとも。

 だからこそ、僕は決意した。東野さんと小早川さん。二人を連れて来ようと。

 きっとあの二人もキリスト教徒ではないけれど、そんなことは些細な問題だ。

第一、 ここを使っていた当時もどれほどキリスト教徒がいただろう。

神様というのは、その程度のことでいちいち腹を立てたりしないはずだ。

 だから、きっと大丈夫。

 僕はそんな、何の根拠にもならない根拠を持って、二人と対峙しようと決意した。

 

 

            12

 

 

 静謐で厳かな雰囲気が漂っていた。

 僕はあの絵画の前で佇み、じっとしている。

 待っているのだ。小早川さんと東野さんの二人がやって来るのを。

「おい、何の用なんだ」

 例の耳障りな音とともに、小早川さんの声が聞こえる。

 僕は振り返り、彼女と視線を合わせた。

 小早川さんは苛立ったように、僕を睨み据えていた。呼び出された場所が場所なだけに、不気味さを感じているのかもしれない。

「呼び出しに応じてくれてありがとう」

「だから、一体何の用だと言っているんだ」

「まあもうちょっと待ってて」

 まだ、東野さんは姿を現さない。彼女にも、一応声はかけてあるが、果たして来てくれるかどうか、わからなかった。

 来てくれるといいのだけれど。

「……ったく、なんだってんだ。まさか、やらしい今年ようってんじゃないだろうな?」

「そんなつもりは毛頭ないよ」

 冗談かからかうつもりだったのだろう。小早川さんの軽口に、僕は何気なく返した。

 それが彼女には気に入らなかったらしく、小さく舌打ちする。もっと狼狽えたりしたらよかったのだろうか。

 まあ、何だっていい。おそらく、今日この場で幕引きなのだから。

「ねえ知ってる? この場所の曰く」

「曰くだあ? なんだよ、ユーレイでも出るのかよ」

「……どうだろうね。ありえるかもしれない」

 何せこの建物が出来たのが戦時中という話だ。この場所で人が死んでいても不思議ではなかった。

 けれども、そんなことはまるで実感できず、僕はじっと絵画に見入っていた。

「僕も人づてに聞いた話なのだけれど」

 そう前置きして、僕は語る。僕らが立つ、この場所に込められた曰く。

 曰く、というより気持ち……思いを。

「この場所はその昔、恋人たちの逢瀬の場所だったらしいんだ」

「逢瀬? 逢瀬ってなんだ?」

「まあ簡単に言うと、好きな人同士で密会することだよ」

「ふーん」

 小早川さんはさして興味もなさそうに、僕の隣に立つ。

 絵画を見ていた。少なくとも、視界に入っているだろう。

 この絵を間のあたりにして、彼女はなんと思うだろう。何を考えるのだろう。

 決して上手ではない、けれども見る人を引き付けてやまないこの絵画を。

「……ン? こいびと?」

 小早川さんは小首を傾げ、呟く。それまでの気だるげな目許がみるみる見開かれていく。

「お、おおお前、まさかあたしを……!」

 僕を振り返り、わなわなと手を震わせる。

 僕の鼻頭に、人差し指が突き付けられた。人を指差すんじゃありません。

「別にそういうわけではないよ。ただ、ここなら他人が来ないから」

「いや、だからって……だから何をするつもりだよ!」

 小早川さんは自分の両肩を掻き抱き、後ずさる。何もしないさ、僕は。

 ドンッと扉に背中をぶつける。何をされると思っているのだろう。

 僕はまだ、この年で性犯罪者になるつもりはないので、安心してほしいところだ。

 安心、というか、信用してほしい。

「誓って、僕は君にいやらしいことをしたいわけではない」

「し、信用できるか、こんなところに呼び出しやがって!」

「というか、いざとなったら君の方が腕っぷしは強いだろう?」

「そういう問題じゃねえよ、馬鹿!」

 むっ……馬鹿に馬鹿と言われるとは、心外だ。今のは傷付いた。

 とはいえ、確かに小早川さんの言う通りだ。そういう問題ではない。

 僕が彼女にいやらしいことをするとか、そういうのとは別に、問題はある。

 僕たちが対峙していると、協会の扉が開いた。あの嫌な音を立てて。

 ゆっくりと、重たげに。小早川さんが反射的に振り返る。

 そして、その顔が驚愕に歪められる。

「なっ……んで?」

 その疑問は最もだと思う。なんで、彼女がここにいるのか。

 すなわち、僕が呼び出したからだ。小早川さん同様。

 東野さんも、僕が呼び出した。

 そのことに小早川さんが思い至るまで、数秒を要した。すぐに、僕を睨んでくる。

 今度は先ほどのような乙女を装ったりはしなかった。今すぐに僕の首をへし折って来そうな、恐ろしい形相をしていた。

「……お前、なんで祈を」

「樹里ちゃん? ……どうして?」

 小早川さんが僕を睨み、東野さんが不思議そうに小早川さんと僕を交互に見ていた。

 そういう不思議な構図が生まれる。

 僕は半ばこういう事態を予想……というかこうなるように仕向けた仕掛け人でもあるので、驚きはしない。

 ただ、二人は予想外だったようで、びっくりしていた。

 びっくりして、気まずそう。

 二人は喧嘩をしたわけではない。それでも、あんなことがあったばかりだ。

 顔を合わせづらいのはよくわかる。いや、やはりわからない。

 なぜなら、今回の一件は二人に何の落ち度もないからだ。

「……ここなら誰も来ないから」

「……何のつもりだ?」

 小早川さんに睨み付けられる。それも、今度はかなり怒気を孕んだ視線だった。

 本気で睨まれて、足が震える。それでも、僕はこの場で引くわけにはいかなかった。

「僕は……二人に仲直りをしてもらいたいと思っているんだ」

「仲直りって……」

 僕の発言に毒気を抜かれたのだろう。小早川さんが困ったような顔になった。

 東野さんは何も変わらなかった。けれど、きっと内心では困惑しているはずだ。

「二人は幼馴染何でしょう? 元々は仲がよくて、親友だった」

「……昔の話だ」

「でも、事実だった」

 僕は真正面から、二人を見詰めた。

 睨んだ、と言ってもいいかもしれない。けれどそれは、二人を憎んで、ではなかった。

 どちらかというと、折れそうになる自分の心を立て直すため。

「……お節介のつもりなら、止めてくれ。あたしと祈は別に仲互いをしてるわけじゃないんだからな」

「そうなの?」

 僕は東野さんへと疑問を投げる。

 東野さんは僕の方を見てはいなかった。ただ、じっと例の聖母マリアの絵画を見ていた。

 まあ、この人ならそうだよな、と思う。

「そう言えば、祈はこういうの好きだよな」

「……うん、奇麗」

「あたしにはさっぱりわからねえや」

 小早川さんは肩を竦め、投げ槍に言った。

「一体、こんなののどこかがいいんだろうな」

「……僕も具体的にはわからない。でも、東野さんと同じように奇麗だと思う」

「あたしもな、こういうの嫌いじゃないんだ。ただ、わからないだけで」

「うん」

「昔はな、もうちょっと感動とかしたんだけれど」

 小早川さんは絵画を見詰め、目を細める。

 そこには、目の前の絵画を眺めている、というよりは昔を懐かしんでいるという雰囲気があった。

「……あれはまだ、小学校に上がってすぐの頃だった」

 小早川さんが語り出したのは、二人が出会った当時のこと。

 まだ、東野さんが絵を描き出す前。二人は同じクラスに所属するだけの他人だった。

「昔から、祈は大人しい奴だった。対してあたしはよく言えば活発でさ」

 男子に混じってドッチボールや鬼ごっこをするような子供だったらしい。

 たまに喧嘩もしたという。今とそれほど変わらないことに、なぜかほっとした。

「喧嘩は強かった?」

「まあな。今まで無敗だぜ」

「それは……すごいね」

 相手にしたくないタイプの人間だな、本当に。

 僕は内心でそう思ったが、口にしないことにした。災いをわざわざ自分から招く必要はないのだから、それが正しい判断だろう。

「その頃、祈はいじめられてたんだ」

 という衝撃発言が小早川さんから飛び出した。思わず、東野さんを見やる。

 東野さんはよくわからない、とでも言いたそうに首を傾げていた。

「その時、祈は自分がいじめられてるなんて気付いてなかったんだ。だから、まあ何もしなけりゃよかったんだけれど」

「そういうわけにはいかなかったんだ」

「……そういうことだ」

 何をされていたのだろう。本人が気付かないくらいだ、よほど陰湿なやり方だったのか。

 陰湿過ぎて気が付かない、なんてことが本当のありえるのだろうか?

「祈は気付いてなかったかもしれない。でもだからってあたしは何もしないという選択肢を選べなかった」

「小早川さん……」

「だから、祈をいじめていた奴らを全員見付け出してボコボコにしてやったさ」

「あっ……うん」

 なんだろう、途中までいい話だったのに。

 というかどうやって見付けたんだ? という僕の疑問を差し挟む間もなく、小早川さんは答えを教えてくれた。

「まずあたしは四六時中、起きて学校にいる間はずっと祈の側を離れないようにした。そして周囲を警戒し、不審な行動をしている奴を見付け出して締め上げる」

「……へえ」

 なんか凄腕ボディーガードみたいなこと言い出したな、この人。

「仲間の情報を吐かせてから軽くボコッて、それから次の奴にいった」

「そ、そんなことを……」

 お、恐ろしい。まず敵に回したくない相手だ。

 なんだか、現在の彼女の方がずいぶんと優しく見えるから不思議だ。

 別に優しくなっているわけではないはずなのだけれど。

「それで……どうなったの?」

「そりゃあ男女関係なく殴り飛ばしてやったら、そっからピタッと祈へのいじめはなくなったよな」

「……だよね」

 下手に手を出すと命に関わりかねないとなったら、そりゃあ誰も手を出したりしないさ。

 僕はよほどそう言いたかった。が、ここはぐっと我慢する。

「ま、あたしと一緒に遊ぼうって奴もいなくなっちまったがな」

 小早川さんはさらりとそう言って首を振る。

 やれやれと、困った困った子供を目の前にしているかのように。

「でもま、いっかと思ったよ。祈もいたしな」

 そう言って、小早川さんは東野さんを見やる。小早川さんの方が少しだけ背が高い。

 だから、自然と東野さんを見下ろす形になる。まるで姉妹のようだ。

 支えられていたのは、どっちだったのだろう。

 僕は小学校時代の二人の姿を想像しようとして、止めた。

「……僕は二人のことを良く知らない」

「そりゃあそうだろ。お前は別に昔からのダチってわけじゃねえしな」

「でも、少なくとも小早川さんと東野さんの二人が仲が良いんだってことは知っているよ」「……ふん」

 小早川さんは唇を尖らせ、視線を逸らした。心なしか、頬が少し赤い気がした。

「まあな。あたしらほどの腐れ縁もそうそういないだろ」

「本当に。……そして、だからこそ僕は君たちを呼んだんだ」

「……段々話が見えてきたぜ」

 小早川さんが僕の方へと視線を戻してくる。けれど、彼女が見ているのは僕ではない。

 僕の背後にある、あの聖母マリアの絵画だ。

 僕はその絵画に背を向けているため、見ることはできない。

 でも、覚えている。よく、思い出せる。

 その柔らかな笑顔を。

「……だめだな」

 思考を纏めるように、小早川さんはゆっくりと吐き出した。

 だめだな、その言葉の意味を、僕は何となく察することができた。

「あたしはこれ以上、祈とは仲良くできない」

「どうして」

「まあ元々、あんまり趣味が合わなかったからな。今までつるんでいたのが奇跡だったんだよ、きっと」

「そんなことは」

 ないよ、と言いたかった。けれど、小早川さんに止められてしまう。

「この際だから言うけれど、あたしは実は祈のこと、あんま好きじゃなかったんだ」

 嘘だ、と反射的に思った。今小早川さんが言ったことは、本心ではない。

「どうして、そんなことを……」

「どうしてって、そんなの決まってるさ。これがあたしの本心だから」

 小早川さんの声は、少し、震えていた。

 僕を見据える彼女の瞳は、ここに入って来た時とは全く違っていた。

 弱々しく、揺れている。心の中にある刃物で、自分を傷付けている。

 そんな気が、僕にはした。

 けれど、僕にはそんな彼女をどうすることもできなかった。僕は所詮、ただの赤の他人なのだから。

 僕に、小早川さんを助けることはできない。それができるとしたら、きっと東野さんだけだ。幼馴染である彼女だけが、この状況を打破できる。

 ちらりと東野さんを見る。が、彼女は僕の後ろの絵画に見惚れているのか、じっとたちつくしていた。

「それに、祈には例の美術部の部長がいるだろ。もうあたしのことなんて必要なッ――」

 パンッと小気味のいい音が鳴り響く。

 それが東野さんが小早川さんの頬を叩いた音だと理解するのに、数秒間が必要だった。

 いつの間にか、東野さんは小早川さんの方を剥ていた。そして、油断していたこともあって目にも留まらぬ速さで小早川さんを引っ叩いたのだ。

「なっ……にを?」

 叩かれた本人である小早川さんは今だ状況が理解できなかったのか、目を丸くしていた。

 そんな彼女に向かって、東野さんは更に攻撃を仕掛ける。

 今度は、アッパーカットが小早川さんのあごを捉えた。さほど喧嘩慣れしていない東野さんのことだから、それほどダメージはないだろうが、それでもよろりと体勢を崩す小早川さんだった。

 更に突け様に、今度はみぞおち目掛けて東野さんの拳が唸る。

 が、さすがは小早川さんと言ったところだろうか。東野さんのひ弱なパンチを正面から受け止めた。

 その表情は、今だに事態を把握出来ていないようだったけれど。

「な、何すんだいきなり!」

 拳を止められてた東野さんはただ、小早川さんを睨んでいた。

 そこには、怒りがあった。憤りがあった。

 なぜ東野さんはあれほど怒っているのあろう。

「何だってんだ、あたしがお前に何をしたってんだ!」

「……何も。わたしが困ることは、何もしていない」

 小早川さんが感情に任せて声を張り上げる。と、東野さんは対照的にぽつりと呟いた。

「だったら、いいじゃねえか。あたしはお前とは一緒にいられない。ただそれだけなんだから」

「それだけ……樹里ちゃんにとって、それだけのこと?」

「もうそのくらいに……」

 どちらが殴られているのだろう。それがあやふやになるくらい、事態は目まぐるしく変わっていく。

 さっきまで小早川さんがやられていた。けれど、今度は東野さんが暴力を受けているように見える。

 止めたかった。止めなければならない。

 僕はこんな展開を望んで、二人を呼び出したわけではないのだから。

「もっとさ、話し合いで解決を図るべきだよ」

「……話合い、ねえ」

 東野さんの手から力が抜けたらしい。ゆっくりと、小早川さんが東野さんの手を離す。

 だらりと力なく垂れ下がった腕。そして、二人の顔は見るに堪えないほど痛々しい。

「だめなんだよな、それじゃ」

「だめなんかじゃないよ。樹里ちゃんさえその気があるのなら」

「最初に殴りかかって来ておいて、よく言う」

「……それは」

 東野さんは、目を逸らした。気まずいのだろうか。

 そりゃあそうだ。何せ、殴ったのだから。唐突に。

「樹里ちゃんが悪いんだよ」

「あたしのせい? 嘘でしょ」

「嘘じゃない。これは全部、樹里ちゃんのせい」

 逸らされていた視線が、また交差する。

 小早川さんは驚いたように、身を固くした。また殴られるのだろうか、と僕はひやひやする。止めてくれよ、本当に。

「樹里ちゃんが全部悪い。わたしの問題をなぜか樹里ちゃん全部全部解決しようとするから」

「それは……だってあの時、あたしのせいで祈は孤立してただろ」

「違うよ、違う……全然違う」

 東野さんは何度も首を振る。左右に、何度も。

「わたしは、樹里ちゃんのお陰ですごく安心した。辛かったけれど、ほっとした」

 本音を吐露する東野さんの声に、湿り気が帯び始める。床の上に、ぽつぽつと涙がこぼれ落ちていく。

 僕は途端に、その場から逃げ出したくなった。逃げ出して、見なかったことにしたいと本気で思った。

 でも、それを僕がするわけにはいかなかった。

 二人を呼び出したのは僕で、僕は二人のことをどうにかしたかったから。

「今だってそう。わたしの問題なのに、どうして樹里ちゃんが傷付いてるの?」

「どうしてって……だってあたしは」

「あたしは? 何?」

 ずいっと、東野さんが小早川さんに近付く。

「わたしはね、樹里ちゃん。悲しかったよ、樹里ちゃんがよそよそしくなっちゃって」

「それは……だってあたしといると迷惑だと思って」

「迷惑? わたし、そんなこと言った覚えないけれど」

「……いや、あたしが勝手に思っていただけ」

「だったら」

「でも」

 何だか、場の雰囲気が変わってきたような気がするなあ。

 僕はついさっきとは別の意味で、この場から逃げ出したくなった。

 さっきまでの雰囲気が険悪なものだったとすれば、これは少々甘ったるい雰囲気だ。

 というか、さっきから二人で口論? を続ているけれど、内容的には問題なさそう。

 僕……もしかしてもういらないんじゃね?

 そう判断し、この場から立ち去ることにした。

 二人には気付かれないよう、そーっと。

 僕が協会を出るのを、東野さんも小早川さんも引き留めなかった。というか、完全に二人の世界に入っていたので引き留めるという発想がなかったのだろう。

 まあ、後は若い二人だけでということで。

 

 

           13

 

 

 後日談。僕は学校を欠席していた。

 風邪を引いたのである。熱は大したことはないが、咳が酷かった。

 加えて喉も痛いし、これは大事を取って休むべしという両親の判断が下り、僕は本日学校を休んでいる。

 連日の心労が祟ったのだろうか。あまり体調を崩す方じゃないだけに、たまに病気になると寝込むこともある。

 とはいえ、一日中眠っていたら、多少なりと回復するもので。

 僕は体を起こし、時計を見やった。時刻は四時十七分を回ろうとしていた。

 あの後、東野さんと小早川さんがどうなったのか、僕は知らない。

 その前に熱を出して、こうして寝込んでしまっているから。

「……そろそろお腹空いたな」

 気にならないと言えば嘘になるが、かといってあまり蒸し返すのもいかがなものかと思う。だからまあ、本人たちが言って来ない限りはこちらから訊ねることはすまい。

 僕はそう心に違っていた。だが、すぐにそんな近いは破られることになる。

 ピンポーン、とインターホンが鳴った。家には誰もいないのか、玄関へと向かう足音はなかった。平日だし、両親はともに仕事で妹は学校からまだ帰っていない。

 つまり、今は僕しかないということだ。

 そろそろ熱も引いてきたし、咳もない。

 一応マスクをしてから、玄関へと向かう。

 ドアを開ける。と、そこにいたのは春日井さんだった。

「……えっと、起きてて大丈夫なの?」

 春日井さんは驚いたように目を丸くしていたが、僕だって驚いた。

 なぜ、彼女がここにいるのだろう?

「まあ……熱もだいぶ下がったし、あんまりつらくもないからね」

 僕は答えながら、春日井さんを眺める。

 学校終わりなのだろう。制服だった。

 うちの学校の制服は地味なセーラー服だ。とはいえ、春日井さんクラスの美少女が着ると見栄えがよくなるから、着る人って重要なんだなあと思う。

「ところで、どうしてうちに?」

 手にはスーパーのビニール袋が下げられていた。

 大方の予想は付く。が、あまり期待すると違った時につらいから止めておこう。

「……も、もちろんお見舞いだけれど」

「もちろんなんだ」

 僕はじわりと胸の内が熱くなってきた。

 お見舞いなんて、春日井さんが初めてだ。風邪が移っても困るので来て欲しくはないと思っていたのだが、来てくれたらそれはそれで嬉しかったりする。

 人間の心というのは、なかなか思い通りにはいかないものだ。

「ありがとう。嬉しいよ」

「本当? よかった」

 にこっと微笑む春日井さん。そんな彼女の笑顔が、不覚にも胸にズギュンときた。

「あ、ああうん……本当だよ」

 差し出されたビニール袋を受け取りながら、応える。何だか顔が熱くて、まともに春日井さんの顔が見れなかった。

 まだ、熱があるのだろうか。

「元気そうでよかった。明日は学校来れそう?」

「そうだね。明日は行けるよ」

「そっか。……よかった」

 目を細め、嬉しそうに言ってくれる春日井さんが余計に可愛らしく見えてくる。

 なぜだろう。僕が弱っているからだろうか。

「じゃあ、また明日学校でね」

 ばいばいと僕に手を振って、春日井さんは踵を返して帰っていく。

 僕は彼女の姿が見えなくなるまで、玄関先で立ち尽くしていた。

「……明日は、学校行こ」

 絶対に行こう、と固く心に誓った僕だった。

 まさか、あんな事態に陥っているとは露ほども思わずに。

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