第2話 シロ



 シロはシロと名付けられる前からずっとボンヤリとしてハッキリしない意識を保って生かされていた。凪の海を漂うような中で、シロはそういうモノなのだと思っていた。感じるのは生温かさと薄明かり。世界はそんなもんで、それが世界の全てだった。時々世界が冷たくなるのが「イヤ」だった。シロに生まれた初めての感情だ。

 なにかが自分を包んでいる。たまにぶつかる。チクリとするのは「イヤ」。漂う。なにかがある。なにかが聞こえる。何かが動く。感じることが「イヤ」だった。


「――……――」


 生温かいなにかに包まれているときが刺激が少なくて「イヤじゃない」だった。そこに音が混じるようになった。


「おまえ白いなぁ。よく見たら目も真っ白じゃねぇか。へぇ、白い目なんてあるんだなぁ。へぇ、おもしろいな」


 薄ボンヤリした視界に初めての色が現れた。後に知ることになるスミレ色だが、色というものを初めて見たシロには何が起きているのかわからない。ナニカが動いてナニカが自分に向けて音を出す。


「でさぁ、そいつ手札が全部顔に出てやがんだよ。めちゃくちゃわかりやすくてさぁ。ああなるとおもしろくねぇわ。まぁ。がっぽりチップ奪ってやったけどな」


 音は日に日にハッキリ聞こえるようになった。


「昨日の台は全然ダメだったわ。おとといの儲けがパァ! でも明日、駅前のパチンコ屋に新台だ入るんだよ。休みだから開店待ちできるぜ」


 その音が聞こえる間は意識がハッキリするようになった。


「なぁシロ聴けよ! 新台で大当たり! でも借金返したらほとんどなくなったわ。でもまぁ、返したんだから改めて借りりゃあいいんだよな」


 シロ、と、繰り返される音。「シロ」が自分に向けられているナニカだとわかってくる。


「オーラスで白切ればテンパイだったんだけどさ、そんときおまえを思い出してさ。降りたら逆に白揃ってメンゼンツモ! ありがとな、シロ!」


 シロが自分のことだと気づくともっと呼んでもらいたくなった。少しずつ認識が広がっていく。自分がどうなっているのか見えてくる。シロは自分を理解しようと周りに意識を向けた。

 薄暗い部屋。何かに閉じ込められていて動けない。音も出せない。自分を呼んでくれるナニカはしゃべり続けている。いなくなると意識が低下する。ナニカ以外は「イヤ」なことをする。冷たいところに連れ出されて体をいじり回されてまた閉じ込められる。閉じ込められた部屋にしかナニカは現れない。

 パチンコやジャンソーの話をしているナニカの音が好きだった。


「おまえとしゃべった後にギャンブル行くと結構勝てるんだよなぁ。なぁシロ、一~四、どれが勝つと思う? オレは二番」


 外に出たい。もっとよく色を見たい。自分も音を出したい。


「あ、なんだよシロ、おまえオレの声聞こえてんのか?」


 なにを言われているのかわからないけれどナニカがすごく楽しそうでいい気分になれるからここから出る方法を考えた。たまに部屋から出られるが動けない。沈んでしまいそうになる意識をどうにか保ってナニカじゃないなにかの動きを見る。


「シロぉ! 大当たり! へへっ! おまえってばオレの幸運の神様だな」


 意味はわからなかったがその音は好きになった。


「シロ」

 

 いつもと違う音だった。これは「イヤ」だ。


「オレと一緒に外に出てみねぇか?」


 でたい! でる! シロは初めて手を伸ばした。



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 スミレ、と、連呼してシロはまた眠りに落ちていった。スミレの手を握って眠る顔は笑っているように見えた。


「初めてこいつの声、聞いた」


 呼ばれる名前にいちいち頷いていたスミレは添い寝する形でベッドに完全に乗り上げている。白い髪を褐色の指が優しく撫でる。


「生まれて初めてしゃべったんじゃないかな、たぶん」


 椅子に深く腰掛け足を組み頬杖を突いてスミレとシロの様子を眺めていた静が予想を零す。

 スミレが肘を着いて支えた頭で静を見た。


「やっぱり最強様にはこいつがなんなのかわかっちまうのか?」


「明日夜としては珍しいものじゃないからね。君だって、ここがどこか私が誰か、あの結界がどんなものかわかっていながら全力を使って越えてきたんだ。この子が空っぽだってことは気づいているだろう?」


 生き物は体内に力を持っている。力をより多く持ち、世界を満たす力の流れを感じ取れる者を顕力者けんりょくしゃと呼ぶ。力は生命力と呼ぶこともある。だから生きているものには必ず力がある。

 それがないのがシロだ。術師が力を使いすぎて術式が使えない状態を「空っぽ」と言うのとはわけが違う。力が元からない。殻だけの存在だ。

 スミレはシロの肩に布団をかけ直し頭を撫でる。体温がある。呼吸をしている。脈がある。生物としてのシステムは動いている。


「でもそれだけだ。オレがシロについて知ってんのは。あそこはなんかヤベぇことやってる研究所で、外部の人間にはなにをやってんのか見せなかった。オレがシロの近くにいられたのは金さえもらえれば余計なことを詮索しない奴だったからだ。考えたこともねぇよ。あそこにいたシロがなんだったのかなんて。なぁ、シロはなにかに使われるために作られたのか?」


 スミレ色の瞳に見える純粋な心配を静は鼻で笑った。

 ずいぶんとお気楽で羨ましくなる。


「君が寝ている間に外で起きたことを教えてあげる。地獄塚が二基、小塚も合わせると三十六基、穢された。原因の術式は切り取られた子供の手足に刻まれていて、三十六の部位全て、同じDNAらしいよ」


 自分は寝ていて、さらに報告は受けているのになにもしていないことは棚上げした。

 スミレが体を起こす。シロが離れた温もりを求めてむずがったのでしずかに体勢を戻す。


「そんなことしたら封印のバランスが崩れちまうんじゃねぇのか?」


「崩れるよ、それが目的だろうからね」


 静は軽く言う。実際のところ、興味はない。

 この世には地獄がある。千年以上前に千人の術師が封じ込めて重石を乗せて蓋をしたゴミ捨て場だ。

 世には怪異と呼ばれる事象がある。心霊現象と呼ばれるものや都市伝説、不可思議なことの総称だ。世界を陰と陽で説明したとき、陰から怪異は生まれる。術師とは怪異を解決し陰と陽のバランスを保つために生まれた。その術師が見たくないものを全部集めて詰め込んだのが地獄だ。

 代々術師の筆頭家である明日夜の術師が重石となり門番の役割を担ってきた。地獄の口を覆うように結界を敷き、その上に屋敷を建て、さらに結界で包んで門番が膨らむ力を抑えながら維持してきた。明日夜の地獄屋敷、と言えば術師は誰でも知っている。ビル街の真ん中にある緑地と屋敷だ。十六の地獄塚は結界を補助するために存在している。八の表塚と八の裏塚。表裏の塚にはそれぞれ十七の小塚があり、その数二百七十二基。塚が壊されてもすぐに地獄の蓋が開くわけではないが確実にバランスは崩れる。


「バランスを崩して結界を壊したいのか、地獄を呼び寄せたいのかはわからないけれど、どちらにしてもあふれ出す膨大な力の受け皿としてこの子は作られたんだろうね。深くて大きな空っぽの器だ」


 術師の歴史の中では色々な器が作られてきた。苦労して閉じ込めたはずの地獄の力を自由に操り世界の陰を支配したい存在はどの時代にもいる。


「人一人の形に収まるわけがねぇ」


 天才と狂人は常識を持ち合わせていないのが常識だ。


「普通はそう考えて実行しないんだけどね。定期的に出てくるんだよね、そういう術師」


 静は肩をすくめておどけてみせる。


「あんた、地獄の蓋が開いたらただじゃすまないだろうにずいぶんと他人事なんだな」


 軽薄そうなのにスミレは軽く流されてくれなかった。


「私はね、この世界がどうなろうとあんまり興味がないんだよ。どうなろうと私はこの役目からは離れられない。生きている実感もない。惰眠を貪って緩やかに死んで次の門番に役目を引き継ぐ。そうだ、この子に継いでもらうのもいいかもしれないね」


 自分の配下にだって、ここまで本音を吐露したことはなかった。初めての本音を漏らすのが敵か味方かもわからないさっき出会ったばかりのロクデナシだとはさすがに思わず静は一種の感慨に耽る。

 スミレは静の言葉を飲み下すのに時間がかかっていた。彼が言いたいことを理解したとき、その顔に浮かんだのは蔑みよりも困り顔だった。


「最強術師ってのはどんな高尚な奴かと思ってたけど、案外ロクデナシなんだな」


「ご期待に添えなくて悪かったね」


 ロクデナシだと思っていた相手にロクデナシだと言われる皮肉が案外愉快で静は慣れない笑みを浮かべた、


「まぁ、それならそれでやりやすいってもんだ。どうなろうと知ったこっちゃないって言うならオレたちがここにいてもいいだろ?」


「は?」


 人を食ったニヤけ顔であっけらかんと言われて静は真顔になった。


「オレとシロがここにいるのは研究所にも知られてる。下手に出てけばすぐ蜂の巣だ。力が回復するまで世話になるぜ最強様」


 決定事項かと家主が勘違いしそうになる堂々っぷりだ。なにかで知った、ヒモ男、とは、こういう奴のことか、とひとつ学んでしまった。


「私に君たちの世話をしろって?」


 侵入者の手当てを指示したことも自分の世話を配下に任せっきりなことも棚上げする。


「そんな滅相もない。野良猫が迷い込んできた程度に思っててくれよ。勝手にくつろいでるから」


 すでにベッドに横になった状態で言われるとすごい説得力だった。言っていることはめちゃくちゃだが。

 野良猫すら入れない場所でとんでもないことを言い出すスミレに、静は「こいつすごいな」と思ってしまった。すごくないと入ってこられない場所でもあるのだが、初体験ばかりで「最強」を冠する術師も混乱しようというものだ。静は早々に考えることを諦めた。


「私の睡眠は邪魔しないように」


 実質の許可を貰ったスミレは寝転びながらわざとらしい笑顔を作った。


「あざーっす」


 これが研究所とやらの思い通りならそれでもいい。退屈が終わる気がして、静は自覚なく浮かれていた。

 静が寝室にこもった数時間後、握られた手をそのままにずっとシロの傍にいたスミレは白い睫が震えるのを見た。


「お、起きたか?」


 まぶたが開く。前回は半分ほどしか開かなかった目がしっかりと開いた。

 光を感じる。見たいと思ったものが目の前にある。白い瞳を染め上げるようなその色の名前を、今起きたシロはもう知っている。


「スミレ?」


 ほろほろと崩れる砂糖菓子のような声だった。自分が出す音を聞くのが不思議で、シロは二回三回と瞬いた。


「おう、スミレだぞ~はよ、シロ」


 スミレは静との意味のない会話から生まれた呼び名を訂正しなかった。


「はよ?」


 シロが寝たまま首を傾げる。スミレはゆっくりと抱き起こしてやった。


「起きたらおはようってあいさつするんだよ。縮めて、はよ、だ」


 シロには、起きる、という状況がまだ理解出来なかったが今がその時なのだと察した。


「はよ」


「おう、はよ」


 直接体に浴びる声は耳をヒリヒリとさせる。けれど「イヤ」ではなかった。目尻を下げて笑うスミレをシロは真似してみる。うまくいかず顔中が痛くなった。


「シロ、腹は空かねぇか?」


「??」


 シロには空腹がわからない。アーモンド型の目をまたたかせて首を傾げる。


「あ~、じゃあ水飲めるか?」


 後ろ首を撫でたスミレはベッドサイドを指さした。そこにはグラスとピッチャーに入った水があった。静が立ち去った後、老執事が持ってきたものだ。スミレがグラスに水を注ぐ。


「??」


 スミレがグラスを差し出してもシロはどうしていいかわからず首を傾げるしかできない。「こう飲むんだよ」と、スミレがグラスに口を付けて傾け飲む様子を見せた。

 もう一度差し出されたグラスをシロは両手で受け取る。唇に触れさせ傾けた。顔面を水が流れていった。


「!?」


「だははははっ! 最初にこれだけ気前よく失敗しとけば次はうまくできんだろ」


 スミレを真似したはずなのにスミレと同じにできなかったことだけシロはわかった。しかしスミレが笑っているから大丈夫、という判断をする。


「立てるか?」


 グラス一杯分の水がベッドに染みてしまったのでスミレはシロを抱き上げて床に降ろした。


「わっ」


 両足の感覚に驚いたシロがよろける。抱き留めたスミレが脇に手を入れ持ち上げ小さな体を上から下まで観察した。


「体のつくりはオレたちと同じなんだから立てるはずだよなぁ。慣れか?」


 術師的視点からすると動いていること自体が不思議なのだが、これはこれそれはそれ、と解釈するのがスミレである。勝手に納得したスミレはシロを抱き上げて部屋を出た。

 スミレの腕の中で、全てが初めてのシロの感覚は一気に忙しくなった。


「そのうち動けるようになるだろ。よっしゃ、探検に行こうぜ」


「たんけん?」


 生温かいなにかと冷たさしか感じなかった体にスミレの体温が染み込んでいく。五感が働き出す。


「そ、探検。知らないトコロを歩き回るんだ」


 初めて深く吸い込んだのはスミレの匂いだ。それは消毒薬と血と髪の焦げた匂いが混じったものだったが、幸せの記憶としてシロに刻まれた。


「スミレ、いっしょ?」


「おう、いっしょだ」


 スミレの感情、スミレの表情、呼吸の間隔、瞬きの音、全てがシロの糧になる。


「いっしょ、スミレ、いっしょ」


 急激に流れ込んでくるものをシロは必死に受け止めスミレに抱きついた。

 閉じ込められた薄暗い部屋ではなく、望めば出られる場所にスミレといる。初めて願いが叶った。

 スミレは廊下で出会った使用人らしき女性にシロの着替えを頼んだ。この屋敷には静サイズしかないらしく、シャツ一枚をワンピースのように着せてよしとした。匂いをたどって調理場にたどり着き、膝に抱いたシロにスプーンで水を飲ませる。

 シロは喉を通った水の感触にびっくりした。


「初めての水はうまいか?」


「うまい?」


「もっとほしいか?」


「うん」


 水は飲めることを確認したスミレはじっとこちらを見つめている使用人に蒸した鶏肉をペーストにしてもらい、お湯で溶いたものをシロに与えてみた。

 飲み込んだ瞬間、シロは口を両手で押さえて固まった。この行動にはスミレだけではなく使用人にも緊張が走った。


「うまいか?」


「うまい!」


「はははっ! でも今は少しだけな」


「え~」


 調理場の空気が一気に弛緩した。調理場の端で騒ぐ二人を見る使用人たちの表情がほわほわと緩んでくる。ご主人様は眠ってばかりでろくに食事をしないし食べてもなにも言わない。この屋敷には誰も来ない。初めての光景だった。


「これからもっとうまいモンがいっぱい出てくるんだから慌てんなよ」


 スミレの言葉に調理場が浮き足立った。


「もっと、うまい?」


「そ、少しずつ味にも慣れて量も食えるようになったらパーティーするか」


 パーティーの単語はシロを飛び越え使用人の間を駆け巡る。


「ぱーてぃー?」


 食料庫をチェックしに使用人が走る。使われていない食器を確認しに数人が飛び出した。


「うまいもんがいっぱい食べられる楽しいことだよ」


 食料庫から出てきた使用人が首を横に振る。何冊もの本を抱えた使用人が調理場に飛び込んできた。抱えていたのはレシピだ。調理台を囲んで会議が始まる。


「たのしい? ぼーと? まーじゃん? ぱちんこ?」


「覚えてんのか! 頭いいなシロ! そうそう、パーティーにはカードゲームや麻雀もあったほうがいいな。シロはなにがしてぇ? 楽しそうなもの探しに行こうぜ」


 シロを抱えたスミレが「ごち~」と、声をかけて出て行った。調理場の暴走を止める者はいない。

 静の屋敷は二階建ての洋館だ。広い玄関ホール。二階は客間や寝室。図書館のような書斎。客間にシャワーが備わっているが大浴場もあった。人がいないのに食堂が三つもあり、ピアノだけの部屋もあれば絵画だけの部屋もある。豪華だけれどどこもかしこも使っている気配がない。舞台セットのような家だった。屋敷の端にくっつく形で茶室まであった。


「畳だ!」


 どこでも迷いなく入っていくスミレは茶室だろうと遠慮せずにじり口から転がり込んだ。


「たたみ?」


「下に敷いてあるのが畳だ。和室もいいな」


 寝転がるスミレをまねてシロも転がった。硬い。不思議な匂いに包まれる。腹ばいになっているとまぶたが落ちていった。


「生まれたばっかとかわんねぇもんな」


 静かな寝息を立て始めたシロに寄り添ってスミレも目を閉じた。



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