ミナイ先生は今日も目を閉じる。

砂塔ろうか

ミナイ先生は今日も目を閉じる

 朝10時。僕はマンションの一室へとする。


「おはようございます。薬袋みない先生」

「ああ、おはよう。楠根くすねくん。今日もよろしく頼むよ」


 玄関ドアが開くと、ぼさぼさの髪のジャージ姿の女性——漫画家、薬袋幾何みない・きか先生が出てきた。彼女は少し間延びした声で挨拶を返す。

 ふと見れば、眼鏡の向こう側、目の下にはクマが出来ていた。きっとまた徹夜したのだろう。

 少し長い、廊下を先導する薬袋先生に、僕は言う。


「先生。少し休まれてはいかがですか?」

「アシスタントの君が仕事してる横で寝るのは、いささか申し訳ないよ。大丈夫、私には右脳だけ眠る、左脳だけ眠る、という特技があるんだ。常時睡眠をとってるようなものだから逆説的に睡眠は不要」

「いやそれ人間には不可能ですから!」

「……普通の人間には、だろ? 君も知っての通り、私は普通の人間じゃあない。こうやって——」


 薬袋先生は目を閉じる。そして、口を小さく、すぼめて——


「————」


「エコーロケーション、ですか」


 薬袋先生は首肯した。


「ああ。私は超音波の反射によって目を使わなくても周囲を認識できる。イルカのようにね」


 言って、先生は目を閉じたまま廊下でステップを踏みはじめる。……肩や肘を壁にぶつけてるのは、見なかったことにしておこう。


「……だからって、脳味噌を半分だけ休めるなんてできないと思いますよ。たぶん、できるつもりになってるだけです」

「そうかなあ。……まあでも、本当にぐっすり寝るわけにはいかないよ。一つ屋根の下、若い男女が二人きり……なにが起きるかわからないからね」

「ごめんなさい。変態じゃないので」

「それどういう意味?」


 下らないことを言う薬袋先生との会話を切り上げて、僕は仕事部屋のドアを開けた。

 ダイニングキッチンに机を並べただけの仕事部屋は朝の陽光に照らされている。机の配置は、窓側に薬袋先生用の机、キッチン側にはアシスタント用の机といったもの。

 そこで、僕はあることに気付く。


「……あれ? そういえば、他の人はどうしたんですか? まさか僕が一番乗り?」

「うん。そういうことになるね」

根杉ねすぎさんや夜方やかたさんはともかく、早瀬さんがまだ来ていないなんて……」

「電話にも出ないんだ。何事もないといいんだけど……とはいえ、締切は伸びてくれないだろうし、私たちは仕事をしよう」

「そ、そうですね」


 僕はアシスタント用の机に座り、仕事に入る。机の上にはトレース台や鉛筆、消しゴム、定規、雲形定規、製図用ペンなどが並んでいる。

 令和になっても薬袋先生はアナログ派だ。本人曰く、「デジタルだとディスプレイだからエコーロケーションじゃ線が見えない」ということらしい。アナログなら、インクの部分だけ反射の仕方が違うから見えるのだとか。

 …………冗談のような話、というかほぼ確実に嘘なのだが、薬袋先生の「目を使わない視覚」は誰にも理解できないし、先生が目を閉じていても作画作業を続けられるのは事実だった。反論しがたい。


 昼になるまで、僕は先生から指示された作業を進める。仕事部屋の壁には大きなディスプレイが取り付けられており、そこにはいつもなんらかの映像作品が再生されている。今日は洋画だった。


 その映画が終わる少し前、僕はもう一つの仕事にとりかかる。先生のために美味しい昼食を作るという、メシスタントの仕事に。

 結局、1時間経っても2時間経っても他のアシスタントは来なかった。そんな状況なのに僕は料理をしている、というのは少し気まずいものがあったけれど、同時にとも思った。


 今日作ったのはアジの南蛮漬けだ。あったかいご飯と一緒に出すと、薬袋先生は「いただきます」と言って食べはじめた。——目に、ホットアイマスクをつけて。


「こぼしたり、落としたりしないでくださいよ」

「大丈夫。私にはエコーロケーションがあるんだから」

「ていうか、また眼精疲労ですか?」

「うん。映画に見入っちゃって」

「本当、気をつけて下さいよ——」


 まだ湯気の立つ、淹れたての緑茶を差し出す。


「お、ありがとー。……あ、茶柱が立ってる! これは縁起がいいね」


 アイマスクをつけたままの薬袋先生が笑って言う。


 ……さて。あとは待つだけだ。


 僕も昼食を摂ることにする。先生に出したのと同じものを自分の机の上に並べて食べ始める。うん。おいしい。お茶の味わいも悪くない。

 今日もいい料理が作れた。僕は仄かに満足感を覚えて——


「それで楠根くん。君は私の原稿を、誰に見せるつもりなのかな?」


 ——と。薬袋先生はアイマスクを付けたまま、言った。


「え?」

「このご飯を食べて、私が寝たあと、君は私の、未完成の原稿をスマホで取り込んで送信するつもりだよね。私の断りなく、一体誰に原稿を見せようとしてるのかな」

「……なんで、それを」


 皿に残ったタレをごく、ごく、ごく、と飲んで、先生は言う。


「うん。実は、私がエコーロケーションでモノを見ているというのは嘘でね。本当は、未来視ができるんだ」

「……未来、視?」

「というより、『視覚を未来に飛ばせる』と言うべきかな?」


 自慢するように薬袋先生は言う。


「ふっふっふ。どうだろう、びっくりした? エコーロケーションはブラフだったのさ!」

「いや、それは気付いてました」

「はあッ!?」


 薬袋先生はときどき、目を閉じたまま——あるいはアイマスクを付けたままディスプレイの方を見ていることがある。というか、どう考えても映画を見ていることがある。「エコーロケーションじゃディスプレイに写る線は見えない」という本人の理屈に反する。


「ええ……。頑張ってエコーロケーション使ってるフリを続けてきたのに…………」

「たぶんアシスタントは全員気付いてると思いますよ」


 肩を落とす薬袋先生に追い討ちをかける。薬袋先生は「そんな……嘘だ……」と涙声になっていた。そんなにショックだったんだ……。


「いや、でも驚いたのは驚きましたよ。未来視使って絵を描くなんて、そうそうできることじゃあないでしょう」

「ん? ああ、そこはホラ、人間の反応速度を考慮して視る未来を設定すればいいだけだから。だいたい、150ミリ秒~300ミリ秒とかだっけ? とりあえず私は普段、100ミリ秒先の未来を視ることにしてる。一応、朝とかはその日一日をざっと未来視することにしてるけどね。不慮の事故で死!なんてご免だし」

「…………いや、そんな細かく設定できるのもたぶん、そうできることじゃないと思いますよ?」

「ふむ。その口ぶりだと君も?」

「まあ。はい。未来視……というかちょっとした霊感というか予感というか、そういうのが。ふとしたとき、未来に起こることがなんとなくわかる、という感じのものですが」


 まあ、いわゆる「虫の知らせ」のちょっと詳しい版って感覚ですね。——と僕は付け加えた。間違っても、ミリ秒単位で制御できるような便利な代物ではない。


「ふうん。まあいいか。それで、君は一体どこの誰に原稿を見せようとしたのかな? 私が眠る前に、教えてほしいんだけど」


 ……先生が眠るまで、おそらくまだしばらくかかる。仕方ない。言うか。


「……小毬こまりさんです」

「え? 小毬編集?」

「先生、編集さんにはネームも見せずに作画作業に入るでしょう」


 すると、先生は慌てて言い訳を並べはじめた。


「いやっそれは……未完成品を見せるのは気が進まないっていうかっ。私のネーム、すっごい汚いし私じゃないと解読できないから……」

「でも、内容くらいは教えてほしいというか、問題がないかの確認くらいはさせろって怒ってましたよ。それでこの間、僕の原稿を見てもらった時に頼まれまして。『この際ネームじゃなくて下書きとかでもいいから、こっそり写真撮って送ってほしい』って」

「………………」

「というわけで送ってもいいですか?」

「…………………………………………………………………………………………どうぞ」


 消え入るような声で、薬袋先生は了承した。


「……よし。送信完了。一応、薬袋先生の了承をとったことも書き添えておきました」

「…………うん。ありがとう…………そっか、編集さん、ガチギレしてたのか…………」

「まあ、圧はすごかったですね。これからは、ちゃんとネーム見せないと駄目ですよ」


 反省したように、薬袋先生はこく、とうなずいた。今はこんな萎らしい態度をとっているが、この人は物語の流れに身を任せるように生きてるところのある人だ。

 今は反省する流れにあるからこうしているだけで、本心を言えばやはり、ネームを見せたくないと思っているのだろう。

 僕はアシスタントに入ってまだ三ヶ月の新参だが、そのくらいは分かってきた。


 ***


「あー……なんだかすごく眠くなってきた。どうやら君の盛った睡眠薬が効きはじめたみたいだね」


 皿を洗っていると、机の上に寝そべって、先生はそんなことを言った。


「盛ってませんよ。薬なんか。僕の視た未来でも昼食後、先生は寝てましたし」

「え、じゃあこの眠気は……」

「お腹がいっぱいになったからじゃないですか?」

「…………そう」


 なんだか、ものすごくがっかりされてしまった。

 少しだけ申し訳なく思っていると、玄関のインターホンが鳴る。カメラに写るのは、僕の同僚——つまり、本来ここにいるべきアシスタント3人だ。


「……ん。どうやら私の仕込みが発動したみたいだ。実は、君の犯行を止めるために、他3人にはこのくらいの時間に、来るように言っておいてあったんだ……『楠根くんと、二人きりの時間がほしい』って…………昼食前だと、他の3人にも君が睡眠薬を盛ると思ってたから……」

「先生は僕に犯罪を期待しすぎじゃないですか?」

「………………こんなことなら、余計なことせず、いつも通りの時間に来て、もらう……ん……だっ、た………………すぅ、すぅ」

「はあ」


 眠り始めた先生の肩にブランケットをかけて、僕は玄関へと向かう。アシスタント三人になんて言われるのだろうとは、なるべく考えないようにして。


(了)

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