猫の手、お借しします。

昭和十二年、この年の10月は国民歌唱のラジオ放送が開始された年であった。

第一回は「海ゆかば」であったというから、世相が分かろうというものである。


日支事変日中戦争の発端となる盧溝橋事件が起きたのもこの年である。

しかし、庶民にとって戦争というのはまだ縁遠い海の向こうの話であった。


この時代、庶民にとっての娯楽の一つとして定着していたのがラジオであった。

当時のラジオ受信機はシャープの「明聴1号受信機」が25円と手が出ないほどではないが、安価とは言えなかった。


娯楽やニュースを聞きたい人々は、それでもラジオを買い求めた。

ラジオを製造する各社も、新技術の開発にしのぎを削っていた。


そのラジオ製造会社の一つの逢坂技研の社長である深町團蔵だんぞうは 、社長室で赤字だらけの帳簿を見ながら唸っていた。


「今月も赤字や 。開発費は仕方ないが、やはり人件費がかかりすぎるでしかし」


工場に勤務する人間は数多い。事務員はともかく、間歇式コンベアーによる工場ラインを維持するには多数の工員が必要だった。


「安月給でこき使いやがって!」


そう陰口を叩かれていることを、團蔵は知っていた。

だが、團蔵とて商売でやっているのだ。


文句を言われようと、まずは利益だと思っている。

帳簿の数字は残酷なのだから。


――人件費さえ削れたら……機械ですべてラジオが作れたら。空想科学小説のように、人間の手が要らぬ工場なら儲かるのに。


だがしかし、まだまだ自動化、機械化など夢物語の時代。

工場は人の手で成り立っている。


「あの社長、お客さんですが……」


女性事務員の言葉に、團蔵は帳簿を引き出しの中に仕舞う。


「逢坂銀行さんが来るのは午後からのはずやが……まあええ、お通ししてくれ」

 

 いつもならどんな人物が来るのか問いただすのだが、その日に限ってそれが面倒に感じた。

 

 事務員が廊下の方に声をかける。

 社長室に入ってきたのは妙齢の男好きのする優れた容姿の女だった。

 上等な大島紬の着物を着ている女は、静かに微笑んでいる。


「何の用かね。つまらない用事なら帰ってもらうで」


「お忙しい社長さんのこと、あまり時間はおかけしません。手前は骨董商です。本日は目利きと噂の社長に、是非お目にかけたい品がありまして」

 輝くような微笑に、團蔵はつい先を促してしまう。

 ついそう言ってしまう、抗い難い魅力を持つ女だった。

「その品というのこの木像でございます。名を『眠り招き猫』と申します」

 女が天鵞絨の布のかけられた包みをほどくと、中からは桐の箱が姿を現わす。

 その桐箱をさらに開けると、左甚五郎の「眠り猫」を思い起こさせる姿の寝そべりつつも、左手を挙げている奇妙な木像だった。

 彩色はほとんどされておらず木目が剥き出しであり、一見それほど人目を引くものではない。ただ、よく見れば猫の顔には愛嬌があり、独特の味わいがあった。

「この招き猫、人を招くことはしませんが、『人に手を借す』のだそうです。人手不足で困っている商家を助けるという伝説があるとか」

「そう、それはまた珍しい伝説やのう。普通左手を挙げている猫は人を招くとされるもんやが」

 珍しい招き猫を見て、思わず團蔵は前のめりになる。

「ええ、どうですか。ここは一つ福を招く猫をお買い上げになりませんか」

「そらまあ、うちは人手不足、そのうえ人件費でカツカツや。猫の手も借りたいくらいやな。値段次第では買うたるわ。姐さん、そらいくらじゃ」

「30圓でございます」

「30圓か、ちと高いのう。少しまからんかい」

「手前どもも、商いでございますので」

 ぴしゃりと撥ね除ける女骨董商の言いように、團蔵はかえって好感を覚える。

「分かった、買うたるわい。これで手を貸してくれたら儲けもんやからな」

 團蔵は手を貸す云々は信じていなかったが、愛嬌のある猫の木像は気に入った。

 それに、この女骨董商と懇ろになれるかもしれんという助平心もあった。

 財布から紙幣を抜き取り、女に差し出す。

 女は紙幣をうやうやしく受け取ると、猫の木像を再び桐の箱に収めて、團蔵の机の上に置いた。

「そうそう、その猫に手を借りたら、お返しを怠りなく。猫と言えばネズミ、人形でも実物でも何でも結構ですよ」

「ほう、そらけったいやな」

 團蔵は笑って相手にしていない。戯れ言の類いと思っている。

「今後とも、ご贔屓に」 

女骨董商は艶然と笑い、社長室を後にする。


それから数日。

「社長、事務室掃除されました?」

女性事務員からそう言われ、團蔵が確認してみると。

普段雑然としている事務室は綺麗に整理整頓され、足の踏み場も無かった床はちり一つ落ちていない。

「こら、お猫様の御利益かもしれんのう」

 團蔵は半信半疑だったが、社長室の戸棚の上に飾った猫の木像の前に、ねずみ年の干支の置物を置いておいた。

 翌日、出勤した事務員は干支の置物が噛みちぎられたようにバラバラになっているのを発見し、悲鳴を上げた。


そんな不思議な出来事が続いてから、團蔵はネズミの置物をいくつも買い入れては猫の木像に「お供え」として捧げた。

その度に、まるで西洋の妖精が夜中に働いたかのように、工場の仕事が次々と片付いた。

そんな様子を見て、気持ち悪く思った事務員や工員は次々と辞表を出して辞めていった。

それでも、團蔵は動じなかった。

「お猫様の御利益のおかげで、人件費が浮いて助かるわい」

 そう公言して憚らなかった。


 逢坂技研のラジオは価格のわりに性能が良く、故障知らずで評判はうなぎ登りになっていた。

 しかし、工場に工員や事務員が入っていく姿を見ることはほとんどなく、近所では七不思議の一つとして妙な噂で持ちきりであった。

 曰く、猫の化け物を見た。

 曰く、幽霊が工場で働いているのを見た。


そんな噂がたっていても、團蔵本人はさほど気にしていなかった。

いつものように社長室へ出勤した團蔵は、金属製の小さな檻の前に立つ。

しかし、中には何もいない。

團蔵はうっかり忘れていたのを思い出した。

「ああ、そういえば。昨日のはつかねずみで最後だったんや。また買い入れてこなあかんのう」

そんなことを言ったあと、ぼんやりと虚ろな目で木像の飾られた戸棚を見やる。

その木像の前には赤黒い染みがいくつもあり、ねずみの物のような引きちぎられた前足や尻尾の残骸が散らばっていた。

「まあええか、明日でええわ。今日は帳簿をつけてしまわんと」

そう言うと、團蔵は帳簿を開いて算盤に向かう。

「ほほ、今月も黒字じゃ黒字。阿呆な事務員や不平ばかり言う工員どもを雇わないでええというのは笑いが止まらん。お猫様様々じゃ」

そんなことを呟きながら、團蔵はニタニタと笑う。

そして、溜まっていた伝票を片付け、帳簿への記入を終わった團蔵は肩を鳴らす。

「さて、今日はこんなもんでええか」

 硝子窓の向こうは既に秋の日が暮れていた。

 街の明かりが点り始めているのに気づいた團蔵は、そろそろ帰り仕度を始めるかと思い鞄を取りに行こうとする。

 そのとき、團蔵は金色こんじきに輝く大きな二つの眼に気づき、肩を震わせる。

「な、なんだ、お前は。化けも……」

 そう言い終えぬうちに、金色の眼を持つ魔性の獣は大きな口を開け、男を飲み込もうと挑みかかる。

 普段ろくに運動をしていない團蔵の足では逃げることなど叶わない。

 哀れ、飛び退こうとした足から食らいつかれる。

「や、やめ……」

 骨が砕け、肉が裂かれる音が響き、声にならぬ悲鳴が漏れる。

 やがて、満足した獣は戯れに狩った獲物を我が子に投げ与えるかのように、物言わぬ骸となった男を壁へとたたきつける。

 男の身体は壁にぶつかった後、ずるずると重力に引かれて床へ落下した。

 壁には前衛芸術のように男の顔の『人拓』が、恐怖に引きつった顔のままににとられていた。


 猫が満足げに啼く声が、誰も居ない社長室に響いた。


「逢坂技研の怪!社長、無人のラジオ工場で怪死を遂ぐ?」

 

 いつもの日刊紙を読みながら女骨董商は、満足げに微笑んでいる。


「今回はまた趣味が悪いな」


 ハンチングを被った和装の美男子は、コーヒーカップをもったまま無表情に女骨董商の顔を見つめている。


「人件費がかからぬ会社は経営者の夢と申します。私はただ、その夢をお売りしただけ。そして『借りたもの』を返さぬ者の末路は、いつの世も同じ」


「借りたものか、たしかにそうだな。だがまあ、高利貸しにだまされるのはちょっと借用した者の咎とは言えないが」


「見解の相違ですね。私はまっとうな商売人。適切なものを適切な方にお譲りするだけ」


 そう艶然と微笑むと、女骨董商は伝票を手に取った。


「次の商売も、楽しくなる予感がいたしますわ」


 女は足取りも軽やかに、帳場へと歩きだす。 

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