女骨董商の商談

高宮零司

第六感、お売りします。

時は昭和十二年1937年


男は「近衛このえ文麿ふみまろ公爵に大命下る」という大見出しを、苦々しげに見つめた。


家柄と見てくれだけの大衆主義者ポピュリスト、彼の見るところ近衛とはそういう男だった。


そんな男が一国の宰相になるという時代に、危うさを感じている。


男の名は狩野かのう伴典とものり


今は気楽な着流し姿だが、仕事となれば軍服に身を包む男だった。


新聞の字面を追ってはいるが、どうにも内容が頭に入ってこない。


先ほどの朝餉朝食の時の、細君の妙に意味ありげな態度が気に障っている。


普段ならば気にも留めないが、妙に突っかかるような口振りが気に食わなかった。


その思考を妨げる声が玄関から響き、狩野は顔を上げる。


人付き合いを好まない狩野には珍しく、彼への来客だった。



「実は狩野様が大層な骨董好きというのを小耳に挟みまして。是非お目にかけたい品が」


 上等な大島紬の着物を着た女は、艶然と微笑んだ。


 仮面めいた微笑は吸い込まれるような錯覚を覚えさせる。


「それで、その品というのは何だ」


気難しい狩野は普段なら売り込みなど即座に追い返すのだが、妙にこの骨董商の申し出が気になっている。


「これにございます」


 女は唐草文様の風呂敷を開くと、桐の箱に収められたものを差し出す。


 差し出されて、狩野は思わずそれを手に取って桐の箱を開けてみる。


 天鵞絨ビロードの布地が敷かれた桐の箱の中には、柄に象牙の鴉が彫り込まれた、変わった拵えの脇差だった。


 朱塗りの鞘に納められている二尺60センチに僅かに満たぬ刀身は、刃紋こそ美しかったがさほど切れ味は良いようにも見えない。美術的価値に重きを置いた護り刀だろうか。


「持つ者に千里眼を与えるという伝説のある逸品でございます。銘は無し、ただ『烏羽の小太刀』との名が箱にありました」


脇差わきざしにしか見えないが……千里眼だと?」


 鼻で笑いながらも、狩野はその脇差しから目が離せない。

 ありきたりな脇差しなのに、不思議と惹き付けるものがあるのは確かだった。


「いくらだ」


 自分の口から、そんな声が出たのに自分でも驚く。


「20円でどうでしょうか」


「20円か。それでもうけが出るのかね」


 この時代の陸軍少佐の月給は二千数百円。


 狩野にとっては端金はしたがねである。


「いえ、さほど出ませんね。しかし、信用は買えます」


「なるほど、まずは安いものから買わせ、いずれ高価な品を売りつける算段か」

女は否定も肯定もせずに、名刺を手渡す。


「手前どもは何より、お客様に喜んで頂くことを…」


そう言いかけた女の言葉を遮り、狩野は名刺を奪い取るように手に取り、次いで財布から出した紙幣を女の手に握らせた。


「今後とも、御贔屓に」


女の凄惨な笑みが、妙に脳裏に残った。




それから数日、軍務が無い日はその脇差を眺める日が続いた。


細君は嫌な顔をしていたが、魅入られたように狩野はそれを飽きずに眺め、手入れを欠かさなかった。


そんなある日、細君は友人と宝塚歌劇を見に行くと出かけていった。


狩野は気にも留めず、脇差を眺める。


不意に視界が揺らぎ、閨で乱れる細君の裸身が刀身に浮かぶ。


見間違いかと思えたが、確かに細君の姿に間違いはなく、彼に見せたことのない嬉しそうな顔で若い男の肩に手をまわしている。


――あんなつまらない男の世話をするのはもう御免。貴方の女にしてくださいな。


そんな声が耳元に聞こえ、狩野は脇差を取り落とす。


脇差は畳表に深々と突き刺さっていた。


呆然とそれを眺める。


細君の嘲りと喘ぎ声が彼の耳朶じだを打っていた。



気のせいだと言い聞かせ、狩野は脇差を手入れし始める。


だが、再び刀身は別の風景を映し出す。


――狩野少佐はどうしてああ無能なのかねぇ。おまけに部下をこき使うくせに、自分は優雅に骨董趣味とくる。


そう嘯いているのは狩野が信頼を置いている桐山大尉だった。


「同郷の誼で目をかけてやっていた恩義も忘れおって」


 怒りのあまり肩を震わせながら、刀身に映る桐山のにやけ顔を睨みつける。


 すると、桐山は慌てたようにきょろきょろと周りを気にしだす。


――こちらからは見えているが、あちらからは見えない、ただし気配に気づく者もいるということか。


 どこかこの不可思議な現象に面白みを覚える。


「あの女が言っていた千里眼、か。西洋風に言えば第六感というところか。言い伝えは真実だったということか」


狩野はそれから、次々と刀身に映し出される映像の虜になっていった。


寝食を忘れ、刀身を磨き続けるその姿は、細君どころか隣近所にまで気味悪がられる有様であった。



「あのう、狩野さん。回覧板をお持ちしたんですが……」


 近所の婦人はもう何度目かになるか分からない声かけへの反応がない事にしびれを切らした。


 別にそのまま郵便受けにでも放り込んでおけば良いのだが、何故かそのときは思いが至らなかった。


 そのことを、彼女はその後何度も後悔することになるのだが。

 

 引き戸に手をかけてみると、鍵がかかっていなかった。

 

田舎ならいざしらずこんな町中で不用心な、と彼女は思う。


靴箱の上に回覧板を置いて帰ろうと思った彼女は、玄関から入ってすぐにある土間に飛び散った赤黒い液体、その右側の障子の向こうから匂ってくる血生臭さに気づいてしまった。


よくよく見れば、障子にも赤黒いそれは飛び散っている。


この有様を見て、見なかったことにするという選択肢は彼女にはなかった。


止せばいいのに建て付けの悪い障子を開け放つと、衝撃的な光景が飛び込んできた。


一瞬、卓袱台ちゃぶだいの上に食器か何かが並んでいたと錯覚したが、それは明らかに人間の頭部だった。


 それは狩野家の細君、そしてまだ中学校にあがったばかりの長男、そして使用人の初老の男、そして見知らぬ若い男の首だった。


まるで談話でもしているかのように卓袱台の中央へ顔を向けて、生首が


 ぴたぴたと血が滴り落ちているところを見ると、まだ殺されて間もないのだろう。


――ああ、そういえば最近嫁に行ったとかいう長女はいないわね。無事だったのかしら。


 強すぎる精神的衝撃に晒された者特有の鈍い思考で、彼女はそんな事を考えた。


 そして思い出したかのように絶叫し、精神が思考を拒否したのかその場に崩れ落ちる。


 昼食時という事もあり、近所の者たちが現場に駆けつけるのに、さほどの時間は要さなかった。



「狩野少佐、ずいぶんとまあ遅い出勤ですね」


 狩野にそう声をかけたのは、桐山大尉だった。


 もう三十半ば過ぎのはずだが顔立ちが若々しく整っており、女遊びにうつつを抜かす悪い癖がある男だった。


 狩野とは同郷であり、父親とも知り合いであるから何かにつけ面倒を見てきたのだった。


 狩野はといえば、無表情に革製の鞄の中から脇差を取り出す。

 

 流れるような動作で鞘を抜き払うと、桐山大尉に向けて上段から切りつける。


 その刃を押し止めようと突き出した右腕が、まるで大根でも斬ったかのように斬り飛ばされて士官室の窓ガラスにぶち当たる。


 放射状に割れたガラスが飛び散り、派手な音を立てる。


「な、何を。気でも違ったのですか」


「五月蠅い。恩知らずが」


 慌てて腰のホルスターに手を伸ばすが、利き腕でないのと恐怖で手が震えるのとでうまくあけられない。


 それでも、桐山はようやく拳銃を取り出し、照準を向けようとする。


「遅い」


 狩野はそれだけを呟いて、脇差しを一閃する。

 

 巻き藁のように容易く、桐山の首が胴体から離れて落下する。


 その唇が「なぜ……」と動いた気がした。


「決まっている。浮気だろうが、恩知らずだろうが構わない。だが軽んぜられ、侮られる事だけは我慢が出来ぬ。武人とはそういうものだろう」


 そのとき、運悪く士官室にまた何人かの将校が入って来る音がした。


 再び、惨劇が始まった。



「皇軍にあるまじき醜聞。家族、同僚を次々と斬殺。鬼畜の所業」


 扇情的な見出しの日刊紙タブロイドを見て、あの日狩野邸を訪れていた女骨董商はにんまりと微笑んでいた。


「ずいぶんとまあ、派手に種を蒔いたじゃないか」


 ハンチングを被った和装の男は、コーヒーカップを玩びながら向かい合って座る女骨董商に笑いかける。


 宝塚歌劇団の男役のような、整った顔立ちの男だった


「何を人聞きの悪い。私はただただ良い品を、然るべき御方に売り渡すだけ。まっとうな商人でございます」


「そうかね」


「ええ、私はただ見せただけ。選び取ったのはあの御仁ごじんですから」


「それで、次の商いはどうするのかね」


「さあ、良い品が手に入り次第ですかねぇ」


 そう艶然と微笑むと、女骨董商は伝票を手に取る。


「とはいえ、そう遠い話ではない気がしますけどね」


 舌舐めずりをするかのように赤い舌をのぞかせ、女は帳場へと歩きだした。 

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