第4話
太陽が
帽子を実家から持って来れば良かったと思った。
「…………」
コロナ禍なので、外出時にマスクは必須である。
ただ私のような、己の顔面に劣等感を持つ者にとっては、かなりありがたい。
自分の顔なんて嫌いで、毎朝鏡を見、化粧を施すたびに幻滅していたのだ。
この醜悪な顔を人目に晒さずにいられるのは、心に安心を生んだ。
家から三十秒程北に歩いた先には、国道が走っている。
駅の近くということもあり飲食チェーン店がここぞとばかりに陳列している。
ローソン、マクドナルド、はま寿司、吉野家、交差点を挟んでファミマ、ガスト。
外食はあまりしない。
人がいるところで何かを食べることに、少々抵抗がある。食事マナーに厳しかった親のことを思い出すのが怖い、というのは建前の理由。
本当は、家族連れがいると、その幸せそうな雰囲気に嫉妬してしまうからだ。
幸せそうに、笑顔で、楽しそうに食べている。どうしたら、家族と共にいて笑顔などを浮かべることができるのだろう。子どもとは嫌悪の対象で、ストレスを晴らすための道具で、親の自己顕示欲を満たす人形――ではないのか。両親にとって私は、そういうものだったのに、どうして、笑っている。
どうして私の家族は、こうなれなかった――とかね。
食事の時間は、私にとっては地獄だった。
昔、親に連れられて、地元で外食したことを思い出した。
どこかへ出かけた時は、父と母の機嫌を、取らなければならなかった。
その機嫌の悪さは――いつだって姉の私にぶつかって来る。
父は暴力で、母は言葉で。
「……あーあ」
その時の
人を殴るというのは、どういう感覚なのだろう。
皮膚にぶつかり、筋肉を通じ、骨に響く。
お前が悪い――俺だって痛いんだと言いながら、父は私を殴っていた。当時は本当に私が悪いと思っていたこともあった(そのせいでこんな暗い性格になったというのもある)けれど、大人になって、それが間違っていることが分かった。
あの父親は、自己正当化をしていただけだ。
都合よくいかない現実の
子どもなら、大人の言うことを聞くべきだから。
「……死ね」
自分の口から、勝手にそんな言葉が出てきた。
慌てて周囲を確認する。幸い車の通りの多い道なので、誰にも聞こえていないようだった。
時々あるのだ。昔のことを思い出して、その時押し殺した気持ちが、勝手に口から溢れてきてしまう。
「……いや、社会不適合者かよ」
ノリツッコミ、にもなっていない。
虚しくなったので、国道から脇道に逸れた。
高架の下を通り、川を渡った。
つうと風が吹いて、一匹の白い鳥が、川のほとりへと降りた。
「…………」
綺麗だと思った。
あんな風に、私もなることができただろうか。
純粋で、綺麗なまま――ちゃんとした大人に、なることができたのかなあ。
いつも一人になると、私はそんなことを考えてしまう。
醜いなあと思う。心も身体も。
でも、妹はちゃんと頭の良い大学に行けたじゃないか。
傷つくのは私だけで良かったんだから、これで良かったのだ。そう。辛いのは私だけで良いのだ。
そう思い込んで、痛みを振り払った。
地面を踏みしめる親指に、力が入った。
「……なんて、思ったところでさ」
言うだけ虚しくなるけれど、言わずにはいられなかった。
そう。私はもう大人なのだ。
二十六歳――社会に出て、仕事をしなければならない。
立ち止まってなどいられない、誰にも甘えられない、一人で頑張らなくてはいけない、ちゃんと、していなければならない。
「誰かに分かってほしいとか、もう思えないよなあ」
関わる人々に、私の不幸と不運を話すのか? 一人一人に話して納得してもらうのか? 私だけを配慮してもらうのか?
そんな不平等は、この世界は許してはくれない。
もう、誰かから助けてもらえる年齢を、私は過ぎてしまったのだ。
一人で、頑張らなくてはいけない。
一人で、生きなくてはならない。
前を向かなくてはならない。
歩みを進めなくてはならない。
それがあるべき大人像で、普通の社会人で。
私は、その枠から外れている。
外れて、違う道をほっつき歩いている。
そんな私が、生きていていいのだろうか。
やっぱり、死んだ方が良いんじゃないだろうか。
生きるために、苦しんで頑張ることが正しいのなら。
死んで苦しみから逃れたい私は、きっと間違っている。
「生きなきゃダメかなあ」
呟いたその言葉は、反響する車の音で掻き消された。
白い鳥は静かに飛び立ち、山の方へと向かっていった。
私を連れていってはくれなかった。
(続)
ある心の病 小狸 @segen_gen
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