第7話:急流


 ハンバーガー屋から出ると雨が降っていた。幸いにも小粒の雨だったので、傘を買う必要はなかった。


 「帰りたくない」


 彼女の重たい眼鏡に雨が降りかかる。大きなベージュのハンドバッグの中から折りたたみ傘を広げてさしていた。紺色で裾だけが黒く縁どられている、シンプルなデザインの傘だ。


 「帰れる場所があるだけマシなんじゃないか、という話もある」

 「それは未来から過去を眺めた時の視点であって、渦中にいる人間の視点ではないように思います」


 彼女の言葉は無視し、私は進んでしまう。霧雨はジャンパーの表面を次々に滑り落ちていった。水滴は手元で大きく膨らんでから地面に落ちていく。髪が濡れてうねる。


 「また北海道に来てくれますか」


 彼女は、人がある場所に行った時と、帰るときととでは同じ顔をして道を歩けないと知らない。周りの人間が昔と同じ顔をして自分を迎え入れてくれるとは限らないのだと知らない。親も祖父母もずっと同じ姿形をして守ってくれるのだと思って疑わない。足を止める。振り返り、彼女のスカートが水滴をはじくのをぼんやりと眺めていた。現実の世界と映画の世界が混ざっているような感覚が続いている。


 「たくさんお友達を作って、私のことはすぐに忘れてしまうと良いと思う」


 言葉は諭すように響いた。彼女は少し顔を赤くした。それが怒りのためなのか、恥ずかしさのためなのかを考えることは控えた。酷いことだと思った。



 小雨とは言え雨が降っているので、早歩きで駅に向かう。雨の音が妨げになり、会話はあまり弾まない。地下通路を使わなくてよかった。構内に入り改札の近くの柱に寄りかかって、再び会話をする。


 「この後はどうするんですか」

 「ビジネスホテルに泊まって、明日の一番の便で帰るよ」

 「じゃあ夜までついて行きます。夜ご飯を一緒に食べたいです。お金は自分で出しますから」

 「門限はどこに行ったの」

 「門限なんかよりも東京との繋がりが欲しいんです。まだお姉さん、連絡先くれないじゃないですか。夏頃に連絡、っていうのは口だけですか」


 個人情報を適当にはぐらかし続けたことはとうに見透かされていた。彼女の言葉は「あなたが気になる」から「あなたの背後にあるそれが気になる」にすり替わった。そしてこの様子だと、彼女は関東圏に旅行にすら行ったことがないらしい。彼女にとって、東京は海外よろしく遠くの世界であるようだった。


 「夜ご飯はだめだよ、親が心配する」

 「じゃあ連絡先」


 やり合いがしばらく続き、結局メールアドレスだけ教えることになった。初対面の未成年に対して無防備過ぎやしないかと思ったが、一緒に映画を見ている時点で十分無防備だった。


 「まだ帰るべきじゃないと思いますけどね」


 アドレスを頭に入れた後、彼女はそう呟いた。脈絡は無く、それ以降も文脈に組み込まれることはなかった。


 「私は先に電車に乗ります。アドレスを得た以上、これ以上話すことはありません。札幌でも栗町でも、好きにしてください」


 そして清々しい位潔かった。「若いからフットワークが軽いのだ」というよりも、天性の要素が大きいように思った。欲しいと思ったものを、どんな手段を用いてももぎ取っていく才能。


 「私は冴(サエ)と言います。忘れないで。次に会うときは東京です」


 冴は顔の横で手を振っている。改札を通る足取りは軽やかだ。初めて会った時の、不満を鬱屈させたような雰囲気は一切感じられない。外向きの姿なのか、喜びの表出なのか。ともかく、彼女と一緒にいると、奇妙な説得力に支えられて、奇妙な方へと押し流されてしまっていた。



 そして冴の言葉に押し流されて今や、栗町へと戻る電車に乗っている。


 引き返すなんて馬鹿みたいだった。潔さが人間としての強さだと考えていた自分からすれば、最も泥臭い行為だった。三度目に乗った短い電車は、徐々に体に馴染もうとしている。サエはどんな顔で家に帰るのだろうと考える。「東京の女性」の前で見せる表情とは全く異なっているだろう。私はある時は東京の象徴になり、またある時は栗町に所属する者になった。麦が揺れている音だけが聞こえる。

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