第6話:反復

 飛行機のチケットを取ったのは出発前のギリギリだった。帰りのチケットは取らなかった。この選択には妥当性がある。


 一方、床が抜けるような感覚がするなら帰ろうと思っていた。この選択基準には全く妥当性がない。自分の信条に近い場所に選択の根拠を置いている。ジェットコースターに乗っている最中、足を踏ん張ろうとしても、踏ん張る地面がない。そういう感じは自分の骨格を粉々にしてしまう。だからその感覚を避けるように生きると決めていた。大学生になって見つけた、私が快適に生きるための手段だった。その感覚は栗町中に存在した。葬式の手配はいつだって一歩早く済んでいた。私はただの部外者で、更に子どもだった。喪主という花飾りを胸につけ、お悔やみの言葉を頭から冷水のように浴びた。思い出話を要求されることもあった。母親との記憶は深い霧に包まれていて、確かな形を持たなかった。彼女は確かに死んでいた。それと同時に私も幽霊になった。


 「東京では仕事漬けで忙しかったでしょう。ここでしばらくゆっくりしていたらいいの。母校を見て来たり、友達と会って話したりしたらいい。きよさんはよく、あなたと旭山動物園に行った時の話をしていた。幼稚園の時の話だけど、どうしても忘れられないって言っていた。ゾウを1時間も2時間もずっと見ていた。私は正直15分が限界で飽き切っていたけれど、サトはずっと見ていた、って。旭山動物園に行くのも悪くないわ」


 いつだって話しかけられる。私は一回も話したいなんて言っていないのに。配慮を欠いた言葉から逃れようとするほど、おばさんの積極性は強まる。必ず頭の中で「価値観、価値観、価値観」と唱えるようにする。心の芯のような部分が傷つかないように蓋をする。15日の昼、帰りのチケットを取った。16日を観光に費やし、17日の昼に着くように飛行機に乗ろうと決めた。


 「もう帰るの」

 「せっかく長い休みが取れたんだから、旅行にでも行きなよっておばさんが」

 「そんなはっきりと言ったわけじゃないでしょ。いつもお姉ちゃんはそうだ。類推が極端過ぎるんだ」

 「完全に間違っているというわけでもないに決まっている」


 クミは悲しそうな顔をした。しかし喪主の交代の申し出にも応じた。忌引きに加えて今までの有休を全て消化して、北海道に来たという。「夫の浮気だけが心配」と言って笑って見せた。クミの夫は20日の土曜日と、21日の日曜日に栗町を訪れるらしい。同じ職場で働いているから、理由はクミと同じだ。



 栗町から電車に乗る。車両にはちらほらと人がいる。麦の町は麦ぐらいしか取り柄のない町として現前する。窓は全て閉じられている。飽き飽きするくらいの昼だ。スーツケースを足に挟む。


 もう二度とあの家の敷居を跨げないだろう。全てを妹に託し、既に親戚との関係を打ち切りにした。しかし痛みはない。距離を取りさえすれば済む話だ。電話もメールも断ち切ればよい。全てのことは特別の努力をしさえしなければ簡単に消えてしまうものだからだ。なんとなく連絡しづらくなった友達と並列させている。乱暴に席に着くと、椅子が随分とへたれていることに気がつく。


 「そこのお姉さん、ハンカチ落としてますよ」


上を向くと、先日見かけた女子中学生だった。紺色のハンカチを手渡される。前会った時と同じように、ベージュのハンドバッグを肩にかけ、制服を着ている。汚れ一つもなさそうに見えるスカート。「倦怠感」をテーマにしたみたいに垂れた目が印象的だ。しかしそれは目が瞼に覆われているというのではなく、広い二重によるものだった。無遠慮に私が中学生を見るので、彼女は怪訝な顔をした。


 「どこかで会いましたっけ」

 「たまたま見かけたことがあるの。九別から乗り込んできてたでしょ」

 「そうなんだ。帰省ですか、それだけじゃないな、葬式ですね。喪服着て帰る人は時々見かけます。平均年齢の高い町ですからね」

 「その通り。今日は学校の帰り?行き?」

 「今日は学校はないんです。自主休校だから」

 「じゃあどうして制服を」

 「制服を着ていると、映画館で『学生証は?』って訊かれなくて済むことがあるんですよ。時短です」

 「映画見にどこまで行くの」

 「札幌」

 「私も札幌行くよ」

 「一緒に映画でも観ますか」

 「いいね」



 札幌に来ると、はじめてそれなりに息ができる気がした。栗町にいたときは、北海道にはほんの少ししか人間がいないと思ったが、そんなことはないということを思い出した。地下道を歩く。


 「九別の近くにも映画館あるよね」

 「札幌の方が好きなんです。大勢の中の一人って感じがして」

 「きっと東京も好きになるよ。東京はそれの極致だ」

 「私もそう思う」


 一緒に観たのは、顔に似合わずな恋愛映画だった。それも中高生が好みそうな甘々のやつだ。


 「イメージじゃないって思ったでしょ」

 「悪いけど」

 「いいです。私だってあなたの事、幸薄そうだと思っていましたから」

 「それはイメージ通りだわ」


 大型ショッピングモールの中に入った映画館は天井が低く、キャラメルポップコーンの匂いが染み込んでいた。暗い中では彼女のニキビは紛れてしまって、白い肌だけがやたらと目立った。


 「ごはん連れて行ってあげようか」

 「門限が18時までなので、それに収まるのであれば」

 「昼ごはんみたいなものだから、その門限に収まらないわけない」


 深緑色のハンバーガー店に入る。彼女は下から4番目に安いハンバーガーを単品で頼んで、時々私のポテトをつまんだ。


 「本当は中学生?高校生?」

 「ちんけな中学生です」

 「制服なのに大学生、とかだったら面白かったのに」

 「気持ち悪いでしょ」

 「そうでもない」

 「じゃあ大学生です」

 「気持ち悪いね」

 「最高ですね」


 それから私たちは映画に関する大したことのない感想を述べた。彼女の感想は内省的だった。どこか遠くの恋人と映画とを重ねて、喜んだり悲しんだりしているように見えた。その恋人が実際の生き物か、空想上の生き物なのかは重要なことではない。


 「東京に連れて行ってください」


 自分にはそんな金銭的余裕はなかったし、初対面の未成年を簡単に飛行機に乗せるほどの不用意さも持ち合わせていなかった。


 「じゃあ夏頃に連絡するよ」


 実現もしない約束を取り付けるので精いっぱいだった。

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