第4話:急迫
どんよりとした濃い緑色をベタ塗りしたような壁紙が貼られている。床はそれより深い緑色で染まっている。ゴムを用いた床は、人が転ばないように丸いデコボコが均等な間隔で敷き詰められている。自分のスカートは濃紺だ。くるぶしから太ももまで太さの変わらない、棒みたいな足を忙しなく回している。
何かに急き立てられている。何かはすごく抽象的な物質であることには違いないが、なんせ何かであるので具体性に欠けている。事物が分からないのなら重要性はないはずだ。目の前になければ忘れてしまうものである。更に抽象が抽象のまま理解されたとしても、すぐさま現実生活を変えてしまう程の影響力を持つことはできないのだから、ますます無用の長物だ。
2年の教室の横を駆け抜け、1年生の戸惑った顔の中を通り過ぎる。走っているのは一人ではない、“萌果”とか“海”とかも走っている。“萌果”も“海”も、今までにあった人間を傾向別に分けて、エッセンスを濃縮したみたいな姿形をしている。今夜限りの登場人物だ。
角を曲がる時に酷い摩擦で上履きが火を噴いた。一瞬だけ俯くと、左足の親指側と右足の小指側のラバーが大きく擦り減っていた。次の面では壁がごっそり抜け落ちており、「代わりと言ってはなんですが」とでも言いたげげに細いロープが揺れている。ロープは自分たちのいる階よりもっと上で取り付けられているようで、金具や括りつけた柱は見えない。そのため、強度がどれほどかは不透明だった。公園にあるターザンロープより一回り細いため、安全面では不十分なところがあるかもしれない。壁の下はトタン屋根になっていて、足場は十分にある。向かいには体育館の壁があり、そちらにもトタン屋根があった。
“海”が先に飛ぶ、少しの戸惑いもなく。骨ばった手が縄を掴み、対岸で紐が最高地点に達したとき、手はするりと離される。こちらを振り返ることもなく、体育館の屋根を駆けていった。こうなったら自分も立ち止まってはいられない、右隣のロープに手をかけて、ターザンよろしく飛ぼうとする。“萌果”も一足先に飛び出した。
しかし、どうして飛ぶのだろうと、考えてはだめなことを考えた瞬間、踏み切る力が甘くなって、私はほとんど跳ぶこともせず、ロープは裂けて、トタンにぶつかり、木が自分の肌を切り裂いて、一つの枝が私の胸を貫いた。
*
リビングの床で目を覚ます。しばらくの間、網戸に埃が詰まっているのを見ていた。青い光が埃を白く照らす。近寄ってくる埃から逃げることもできない。
地面と体の境界が曖昧なのは頭が重たすぎるからだ。一度立ってしまえば簡単に動けそうなのに、その一度が難しい。全部の毛穴に油が詰まっているような気持ち悪さが立ち上がるのを更に億劫にさせる。
酔おうと思ってビールに手を出したのがよくなかった。大体の親戚は客室で寝るもしくは、徒歩で家に帰ることに成功したようだった。
母は隣の部屋にいる。尻に敷かれたスマホを開くと、妹からの連絡が来ている。
『十二時位』
簡素な連絡を合図にようやっと立ち上がると、体全体が痛んだ。食卓には食べかけ・飲みかけのものが散らばっている。自分のグラスに残った温いビールを口に入れると、おいしくもない苦みが口に広がった。
*
隣の部屋には桐の箱が置かれている。それは両親の寝室だ。木目は美しく、箱の端から端までにまっすぐ線を引いているように見える。箱の中には、白い布団に寝かされた母がいる。箱は顔の部分だけ切り抜かれてガラスがはめられている。
母は死に化粧も手伝ってか少女のような微笑で、肩を叩けば目を覚ましそうにも見えた。私は母の顔を見ながら、ケンタッキーの骨付きチキンを食べていた。そして時々ビールを飲んだ。
部屋の壁に葬式の時間割が貼られる。夕方一七時に葬式が始まる。
「私は果物にします。父の時と同じく、形はスタンドにしようかな。妹も同じで大丈夫だと連絡が来ました」
「私たちは缶詰にしようかな。その方がサトちゃんも持って帰りやすいでしょ」
ぎゅうぎゅうに詰めてきたスーツケースを思い浮かべて頷く。
*
13時過ぎ、お弁当を両手に抱えたクミが家に来る。長い栗色の髪を下で一つにまとめている。パーマは崩れかけで、化粧もボロボロだ。おばさんの指示で買ってきたと言う弁当からは油が酸化した匂いがした。
二人とも首都圏にいるにも関わらず、再会は実家となった。クミは今にも泣き出しそうな顔をして家に上がった。何かを伝えたそうに目を見合わせてきたが、なにも伝わっては来なかった。
弁当の中身はカツと山盛りのごはんで、柴漬けが入っていることが唯一の救いだった。ソースがカツにこれでもか、という程かけられていた。クミに何切れかあげた。
喪服に着替える。今日限り更衣室になった子供部屋は、様子を伺うような静けさで満ちている。クミのワンピース型の喪服はたるんだシルエットをはっきりと浮かび上がらせていた。私はスーツ型の喪服を着たが二の腕のラインがくっきりと浮かんだ。互いに若いころ買ったままの喪服だった。肩にかかるかかからないか位の髪を一つになんとか結んだが、間から何本も髪がはみ出た。だからスプレーで執拗に固めた。
クミが乗ってきたレンタカーに乗って式場に向かう。従兄二人を後部座席に乗せ、クミが運転、私は助手席に座った。おばさんをはじめとする親戚一同は既に家を出てる。この葬式は核家族のためのものではない。とんとん拍子で物事が進んでいけばいくほどに肩身が狭くなっていくのを感じる。
クミはスマホと車を繋げてビジュアル系ロックバンドの曲を流し始める。私が知っているということは、彼女が相当昔から聞いていた曲ということだった。ハンドルを回す手は皺が少し増えていたが、それよりもグレーの大理石柄のネイルが目についた。
「仕事大変だったしょ」
「今回は特にね。本当は北海道に飛んで行きたかったんだけど、こだわりが強い人って困る。そのこだわりが適切な順序で用いられるなら一向に構わないんだけど、いろいろ手を出して、大声で文句なんか言っちゃったりして、それなのに最後の最後に『やっぱちょっとちがうかも』って言う人、結構いるんだよね」
「分かる。俺は営業なんだけど、お得意様でそういうタイプの人いるわ」
「説明不足じゃない」
「顧客のせいにするな、顧客の悪口を言うな、とはよく言われるよ。でも私たちの仕事は特に人間同士のやり取りなんだから、自分が百パーセント悪いなんて思えない。仕事ができる先輩だって、お客様を第一に考えている、というポーズを取っているだけで内実は自分のノルマしか見えていないように見える。なのに美談を押し付けられている」
「理想はあっていいじゃないか。惰性でやるよりかずっといい」
「それは年配者が怒りでストレスを発散させるための言い訳にしかならないと思わない?」
職場に対し適切かは別にしても、怒りを覚えられるクミと上の従兄には感心した。自分の中には既に、燃えかす程度の職場への気持ちしか残っていなかった。仕事は感情を横においてこなすものだ、というのが自論だ。先輩のお叱りは感情の部分を全て削ぎ落して聞けばある程度は真理である。次の時には大げさにミスを直しておくとよい。そうすれば『後輩を良い方向へと導けた』先輩は鼻高々であり、先輩からの更なるお叱りを受けずに済んだ自分も安堵する。その後はいつもの仕事の形に戻せばいい。どうせ叱られる前には完全には戻れない。どこかで直した仕事の残骸が残るはずだ、それくらいで丁度いい。更に先輩との関係もそれなりに釣り合ったいいものになる。関係が本質的に変化することはないが、先輩と必要以上に仲良くなることもない。
仕事が終わればパソコンを閉じ、リュックサックを背負って家へ帰る。チューハイを一缶だけ飲んで、ぐっすりと眠る。そんな自分と比べて、たかが3つしか年が違わないのに、クミはまだ蒼かった。蒼くてもいいように生きてこれていた。それが眩しくてしょうがなかった。
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