第2話:往日
家の隣は空き地だ。物心ついた時にはそうだった。建物を崩していく過程すら記憶にない。従兄弟が遊びに来た時には近所の幼稚園の庭でバドミントンをした。スケートボード場や、ヒーローショーをやれるくらいの広さのあるステージを持った公園はいつも空っぽだった。
実家に帰ってくるのは新卒の年以来のことだった。元より人の少なかった栗町は、数年の時を経て一層こじんまりとした街になってしまった。すきっぱの街並みを見ると、自分が町を見捨てた結果がこれなのだ、と錯覚する。
「迎えにいくって言ったしょ」
おばさんは何年たっても背筋を伸ばして立つ。Aラインの紺のワンピースの上に赤いギンガムチェックのエプロンを付けている。年齢を感じさせるのは生え際の白髪位のものだ。細い体はただ細いのではなく、筋肉を纏っているから実現している細さだった。
「そういうわけにもいかないです。家のこと全部片付けてもらって、その上で更に駅まで迎えに来てもらうなんて、さすがに申し訳ない」
「でもうちの男が二人空いてた」
「っす」
「ご無沙汰です」
おばさんの声を合図に、二人がスマホの隙間から顔を出す。自分より三個上と六個上の男二人。私にとっての従兄である。二人とも眼鏡をかけていて、あまり笑わない。
「連絡しましたが、妹は仕事が忙しいので明後日来ます」
おばさんは人差し指と親指で丸を作る。
「まず顔見せとく?」
「父の所に行ってからでもいいですか」
「分かった。うちの男貸そうか?」
「自分で運転しますよ。こう見えてゴールドなんです」
おばさんは軽トラのカギを投げてよこした。「こいつらをなんとかしてくれ」と言いたげだったが無視した。力いっぱいカギを回すとやかましいエンジン音を出し、車が動く。自分は滅多に運転しないが問題ない。広い道幅と少ない車通りはブランクを埋めるのに十分な難易度だった。
*
父が自分の孫を見る日は遂に来なかった。妹は結婚したが子どもを持つことには消極的で、私は結婚すらしていなかった。積極性が欠如した状態で結婚するためには、お見合いなどが他者によってセッティングされる必要がある。お見合いが時代錯誤になった今日、一歩引いた場所で結婚を眺めても遠のいていくだけだった。放っておいても人が言い寄ってくるような美貌が欲しかった。
『情けない女』二人を見た父は「自分の好きなようにしたら」と言いつつも、結婚と出産の未来を私たちにちらつかせることがあった。それはいつも何でもない夜ご飯の時間に行われる。明言を避け続けていたのは現代の『良い父親』像と自分の本心の折衷だった。その前で私は静かに笑うことしかできない。
父は男女のバイアスも、文理のバイアスも、賢さのバイアスも乗り越えることはできなかった。越えようともしていなかった。疑って初めてこの障害物は乗り越えなければならないものだ、という意識が生じる。その過程なきままに彼は死んでいった。
父は煙草も吸ったし、酒も沢山飲んだ。そして肺の病気になって死んだ。因果応報と言ってしまえばそれまでだし、よくあることに違いない。私は悲しかったのだと思う。しかし記憶は一枚の薄い膜に覆われて保存されており、生きた感情としては現出しない。事実だけが墓に埋まっている。
途中、商店街で花を買って行こうと思っていたのに、あったはずの花屋は潰れていた。隣のパン屋もシャッターが下りていた。同様に肉屋も八百屋も無かったが、薬局だけは人の気配があり、なぜか店の外には仏花が売られていた。
*
墓場がこの町で最も多くの人口を抱えこんでいるだろう。昔はそうじゃなかったはずだ、と言いたいが、その昔が何年前のことか、何十年前のことか、明確に述べる言葉を私は持たない。それをやるのは研究者の仕事だが、こんな名もなき一つの町を研究しても得られるのはせいぜい少子高齢化への教訓位のものだから、誰もがこの町については無知である。
ここでは道が最も高い場所に位置している。そのため、どの墓に行くためにも、階段を下る必要がある。盆でも彼岸でもない墓場はゆっくりと呼吸していた。先祖の霊も昼寝をしているようだった。風がばらばらと髪をかき回す。
風を受け止める建物がほとんど存在しなかったために風は好き勝手に吹いた。カヤが岩と岩の間から這い出しており、タンポポが葉だけになって春を待っていた。忘れ去られてうなだれている墓の菊を横目に階段を下る。
仰々しい先祖の名の末席に並んだ父の名は生きていた頃とまるで別物に見えた。文字からは彼のどんな表情も思い出せない。私はただ一人で、墓に手を合わせた。
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