麦【完結】

おかお

第1話:郷愁

 2019年7月14日。色落ちした電車に乗って栗町へ向かう。一号車。湿度は低く、からりとした夏だ。


 スーツケースを両足で挟み込んで腰掛ける。スーツの上にジャンパーを着て丁度いい気温だ。くるぶしに風が当たる。自分から見て左の窓だけが全開になっていた。

 広い道路にはごく稀に明かりが落ちる。感覚は不均等で、一つ一つが細い。電車の周り、駅の周りはそれなりに明るいが、所詮「それなり」で、関東の夜に比べればおもちゃみたいな明るさだ。一方、関東、特に都市の夜は、空が発光している。

 電車が『九別』で止まる。くべつ、ではなくきゅうべつ。冴えない明かりがそこにも灯っている。ぽつぽつと乗り込んでくる人がいたが、私だけが乗っている一号車に乗ってきたのは二人だけだった。


 「サトちゃん?」


 薄水色の萎えたシャツを着て、紺色の眼鏡をかけている。眼鏡の縁の太さと、近視向けのレンズによって、目が不自然に小さく見えた。手足は細長く、骨ばっている。


 「久しぶり」


 彼はすぐに自分のすぐ右隣に腰掛けた。もう一人の男性は二号車に移動した。


 「名前覚えてたんだ」

 「忘れるわけないよ。あんなに洒落た名前って簡単に忘れられるものじゃない。もちろん悪い意味ではないよ」


サトは彗星の彗でサト。初見で読めた人はいない。


 「仕事の帰り?」

 「そう。毎日手書きで書類を作ってる。町のおじさんおばさんのお世話もする。単調な仕事さ」

 「いい仕事だね。手で文字を書いた方が頭が回るし、喋った方が頭が回る。それに単調ってことは、仕事を自動化できているってことで、自動化できているってことは、きっと仕事ができるってことだ」


 彼は自分の皺がついたズボンを見ていた。皺の形を心に刻んでいるようにも見えた。目の前で橙色のコンビニが走り去っていった。


 「僕が職場で一番若いんだ」

 「高齢化の波を感じちゃうね」

 「まさにその通り。大体の人間は札幌に行ってしまうし、札幌に行った人は東京に行ってしまう」


手を組んで揉んでいる。だから掌は赤くなっていた。右手の中指には大きなペンだこがあった。


 「サトちゃんは今どこに住んでるの」

 「神奈川の南の方」

 「『湘南』でしょ。海が綺麗って評判の」

 「私がいるのは広義での『湘南』だけどね」


 海がいくら綺麗であったとしても、そこを通らなければ綺麗ではない。それに内陸よりの土地に飛んでくるのは錆をもたらす塩だけで、美しい『湘南』の風景ではない。でも彼にとっては『湘南』も『東京』もイメージだけのもので、それで何ら問題はないし、実生活には何の影響も及ぼさないのだ。



 彼は私が下りる一つ前の駅で降りていった。


 「後で寄るから」

 「忙しいんじゃない?わざわざいいよ」 

 「いや、そういうわけにもいかない」


 顔は分かるし、どんな家に住んでいたかもおぼえているのに、名前だけが浮かばない。棒切れの手が鞭のように振られている。それに手を振り返す。二往復。ノロノロの二両編成。採算が取れなくても走るしかない電車。東京本社の支線。



 彼と入れ替わって、一人の女の子が乗り込んでくる。ドアの隣のボタンを強く押す。雪国ではドアの横にボタンが付いていて、自分でドアを開け閉めすることが可能だ。俯き加減に長椅子のど真ん中に腰を落とす。膝を隠そうという長さのスカートはやけにピンとしていて、汚れ一つないようにすら見える。濃い緑色のチェック。大きなベージュのハンドバックを手元に引き寄せて、すぐに眠ってしまった。残りのドアも閉まる。



 列車は麦畑の中を突っ切っていく。ここを通り過ぎればここは栗町、麦の町だ。一本の線路。女の子の足は、奔放に床に投げ出されている。薄汚れた黒のローファー。治ってはぶり返すニキビ。重たい眼鏡の下で真っすぐな睫毛が動く。半端な長さの髪が四方八方に飛び散っている。沈みかけの光が一つ一つの麦穂に当たって瞬いている。最も不安定で、最も眩しい時間。


 ガタンゴトン。レールの繋ぎ目を通った音。電車は速度を落とし、ぴったりホームに収まる。麦畑を抜ければ栗町であるのと同時に、麦畑を抜ければ駅に着く。人が二人通るのにすら困難を要するホームに降り立って、体いっぱいに土のにおいを取り込む。町は眠っていた。変わらないという事は退化していることなのだと、息が詰まる価値観を押し付けられていたがために、私はこの町で息すらできない。

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