第4話 小火騒ぎ・1

〈智雪〉

「やば、遅くなった」


 俺はついそんなひとりごとを言ってしまう。

 その日は夕映の天体観測に付き合ってのめりこんでしまった俺はなぜか一人居残りで空を眺めていた。

 それを置いて帰る夕映も夕映だが時間を見てそれもそうだよなと思った。


「帰って宿題するのだるいな……」


 そんな呑気なことを考えていた。

 そのぐらい頭の中が平和だった。

 だから、急転直下で日常が変わるなんて思ってもいなかった。

 薄暗い裏路地を抜けて帰る。

 飲み屋街が続いているそこはお世辞にも学生にとって治安がいい場所とはいえない。

 でも今まで危ない目になんてあったことがないし、ここを通ると近道だった。

 ただそれだけの理由で、早足で歩いていた。

 足音がもう一つ聞こえると思ったのはしばらく歩いてからだ。

 少しスピードを上げてみる。

 やっぱりだ。

 つかず離れず足音は追ってくる。

 まるでなにかのタイミングを図るかのように。

 俺は思わず立ち止まって振り返った。


「あの」


 そこにはフードを目深にかぶった人が立っていた。

 身長は俺と同じくらい。

 雰囲気からして学生ではない。

 かと言って飲み屋の店員にも会社員にも見えなかった。


「俺になにか用ですか……?」


 ぽつんと何気ない口調でその男は言った。


「お前、朝丘智雪?」


 なんで俺の名前を知っているんだろう。

 知り合いだっけ?

 その時は深く考えず返事をした。


「そうですけど」

「そうか」


 感情のない声で男は言った。

 フードを取る。

 脱色したような明るい色の髪。

 切れ長の瞳にしなやかそうな体はどこか猫を思わせた。

 姿勢も少し猫背ぎみである。


「じゃあ手間がはぶけた」


 その手に握られた銀色に鈍く光るものを見て俺は息をのむ。

 人を刺し殺せそうな鋭いナイフだった。



「な、なんだあんた」


 俺は口をパクパクさせる。

 うまく呼吸ができない。

 なんだこいつは。

 それより逃げなきゃいけないのに体が動かない。


「今日はツイてるな。まあ俺はツキなんて信じないんだけど」


 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 男が一歩踏み出す。

 ようやく足が動いた。

 男とは逆方向に全速力で逃げる。


「おっなんだ追いかけっこか」


 楽しくもなさそうに男は言った。


だるいんだけどな。逃げろ逃げろ」


 わけがわからない。

 喉がヒューヒューとなる。

 息が苦しい。空気がだんだん胸に入ってこなくなるような気がする。

 でも止まれない。

 止まったら確実に死……。


「おせえよ」


 真横で声がした。

 最初なにが起きたのかわからなかった。

 車にはねられたくらいの衝撃が一気にきた。

 腹を蹴られたのだと、地面に転げてようやくわかる。


「うぇっ……げほ」


 胃液かなにか酸っぱくて苦いものがこみ上げてくる。


「最近の高校生はこんなもんなのか?もっと根性とかなんというかそんなものを見せたらどうなんだっての」


 俺は顔を上げる。

 恐ろしくて直視したくなかったが、男の顔が目に入る。

 冷たい目で俺を見下ろしていた。

 まるで肉食獣か猛禽の目のようで俺の心はそれだけですくみ上がる。

 怖すぎる。

 ちっと男が舌打ちするのが聞こえた。


「なんか言うことが渡鳥に似てきた気がするなうざってえ」


 ざ、と足を踏み鳴らして男は俺に近寄った。


「なあ」


 心底不思議そうに。


「お前なにしたんだ?」


 なにもしてない。

 こんなところで殺されるようなことはなにも。

 殺される。

 そうか俺は殺されるのか。 

 

 一瞬諦めそうになって。

 いやだ。

 強くそう思った。

 いやだ。いやだ。

 死にたくない。

 死ぬのは怖い。

 当たり前のことじゃないか。 


「なにもしてない。俺は殺されるようなことはなにもしてない」

「みんなそう言うんだよ」


 男は頭をポリポリかいた。


「ふーん。心当たりはない、か」


 死にたくない。


「だから……」


 死にたくない。


「でも見逃さないけどな」


 まったく逃げられるとは思ってなかったがここで退路は阻まれた。

 どうする。

 死なないためにはどうする。

 考えろ。

 こいつはたぶん人を殺すのになんの躊躇ちゅうちょもしないだろう。

 逃げたら殺される。

 でも、逃げなくてもここで死ぬ。

 考えろ。

 俺はどうしたら生きられる?

 死にたくないという思いで頭がグチャグチャになる中で必死に考える。

 目の端に空き缶が落ちているのが見えた。

 ポケットを探ると音楽プレーヤーが入っている。

 気づかれないようにイヤホンコードを抜き取った。

 やるしかない。

 覚悟を決めろ。

 ごくりと唾を飲んだ。

 こんなことでうまくいくとは思えない。

 でもなにもしないより。

 ここでうずくまって死ぬのを待つよりは。


「じゃあな」


 振りかざしたナイフがギラリと光った。

 男の顔をめがけて空き缶を投げつける。

 ナイフを持っていない方の手で男はそれを叩き落とした。


「なんのマネだ?」


 その一瞬のスキをつく。

 屈んだ体勢から、男の両足にイヤホンコードを巻きつける。


「なっ……」


 その動きは予想外だったのか、男は少し動揺したようだ。

 それでいい。

 頼む。うまくいってくれ。

 俺は即座にその場を離れる。


「てめ……」


 男は足が絡まりたたらを踏む。

 今のうちに、少しでも遠くへ。

 ヒュンと、音が鳴った。

 ナイフが顔スレスレを飛び抜けていく。


「悪いな。ナイフはそれ一本じゃねえんだ」


 男がもう一本のナイフを取り出す。

 鬱陶うっとうしそうに足元のコードを切った。


「まだなにか手はあるか?」


 ない。

 今のだって即興でやったことだ。

 あたりを見渡す。

 こんな時に限ってなにも落ちてない。

 チクショウ。


「ゲームオーバーだ」


 男がそう言うのが聞こえた。


 次の瞬間、視界が揺らいだ。

 なんだ。

 恐怖のあまり気を失うのかと思った。

 でも違う。

 点が見える。

 地面にも建物の壁にもまばらに生えている草木にさえ。

 いたるところにある。

 たまらずに地面に膝をついた。

 点に触れる。

 ピシッとわずかだが地が割れた。

 なんだ?

 混乱する。

 壁に手をつく。

 その瞬間。

 ビシビシと壁に亀裂が走った。


「なんだ?!」


 それにはさすがに男も驚いた様子で目を見張っている。

 はがれてきた粉があたりを舞う。

 男が服で口元を覆った。

 なんだこれは。

 なにが起きている。

 わけがわからない。

 でも、試す価値はある。


「おおおおっ!」


 叫び声を上げて、俺は電柱に突進する。

 特に大きく見える点を殴りつけた。

 グラリと電柱が傾ぐ。


「なっ……?!」


 そして、それが男のほうに倒れていく。

 ズズンと、砂埃が立ちこめた。


「やった……」


 あっという間の出来事だった。

 仕組みはよくわからない。

 瞳の奥が熱い。

 それでもあの点を攻撃することで、普通の力じゃ壊れるはずのないものが壊れるということがわかった。


「わけのわからないことだらけだ」


 そう言って力の抜けた膝でなんとか立ち上がる。

 とにかくこれで。


「わけのわからねえのはこっちだ」


 首元にナイフが突きつけられた。

 まだ……!


「お前、能力者ホルダーなのか?普通の男子高校生じゃねえのかよ」


 いらだった声で男が言う。

 そんなのこっちが聞きたい。

 俺は今日まで普通の人間だった。

 普通に学校に出て普通に家に帰る。

 そんな毎日だったのに。

 能力者。

 言っていいのか?

 そう思った。

 俺は能力者なんかじゃないと。

 それとも能力者だと言えばこの男は逆に逃げていくだろうか。

 選択を迫られる。

 どちらにすればいい?


「なんとか言ったら……」


 その時雰囲気を壊す着信音が鳴った。

 ちっと男が舌打ちする。

 携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。


「なんだ?……あぁ?は?なにわけわからねえこと言ってんだよ」


 ナイフをこちらに向けたまま、男は電話越しになにやら喋っていた。

 いらだった雰囲気を隠そうともしない。


「まだ死んでねえよ。殺す寸前だったけど。はあ?俺が負けるわけないだろバッカじゃねーの」


 男の顔が険しくなる。


「ああ。……こいつが?」


 じっと顔を見つめてくる。

 なんだ。

 俺がなんだっていうんだ。


「うるせえよ」


 男がスピーカーをふさぐように携帯電話を服に押しつけて言った。


「もう一度聞くけどお前、朝丘智雪なんだよな?」

「……はい」


 いやいやだが答える。

 ものすごく嫌そうな顔をした後、盛大に男はため息をついた。

 くるりと後ろを向く。


「それで?こいつどうするんだよ?普通に帰すとか言わねえよな。まあそれもそうだけどよ」


 ふん、と鼻を鳴らした。


「……わかった」


 ピッと携帯を切る。

 緊張が走る。


「おい、お前」


 男が俺のほうにナイフを向けた。


「……なん、ですか」

「ついてこい」


 懐にナイフをしまうと男はきびすを返した。


「断ったらどうなるかわかるよな」

「どこへ行くんですか」


 足を進めながらせめてもの抵抗にそう言った。

 ぴたりと男が足を止める。

 まずい。

 気が変わったから殺すとか言われたらどうする。

 無表情に男は言った。


「事務所」

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