第3話 それをあたしに任せるって、マ?

 山岸さんはそういうと、お腹をゆっくり撫で回した。


「もとから数値は良くなかったんですがね、いよいよのっぴきならない状況まで来てしまいまして。スイーツづくしの食生活、というわけにはいかなくなりました」


 柔らかさで包まれたその大きな体。たるねこ執筆の代償が、その体には蓄えられ続けていたということだ。


「これでも、何年も続けていると、矜持を持つようになるものです。あの作品は、間違いなく妻と私が生み出したものです。そこに、自分が食べてもいないスイーツを登場させたくない。自分が心の底から美味しいと思ったものだからこそ、価値があるんです。そのワガママも、いよいよ体が許してくれなくなった。潮時なんです」


 そういうと山岸さんは、禿げ上がった頭を下げた。


「社内広報の方々にはご迷惑をおかけいたしますが、何卒」

「いえ、そんな」


 連載が終われば、ページがあまる。さらに、ただでさえ関心の低い社内新聞の魅力がもっと下がる。それは社内広報部の成果にも関わる。新しいネタや企画を立ち上げなければならなくなるといえば、山岸さんが頭を下げる理由もわからないわけではない。


 どちらかといえば、感謝しなくてはならないのはこちらの方だ。多様な人材が集う大企業において、誰もに受け入れてもらえるエンタメコンテンツなど無いと言ってもよく、さらにそれを浸透させるのも至難だ。あたしから見れば、たるねこはそれを満たした奇跡で、それこそがこの作品が好きな理由だった。それを無償かつ好意で提供し続けてくれる人材が社内にいるという希望が、あたしにはひたすらに眩しかったのだ。


「……あたし、本当に好きで。きっといつか、このまま働いていたら、ご主人様が幸せになる日が来るんだろうって、ずっと思ってて。まさかそれが終わっちゃうなんて、思ってもいなくて」


 何かを期待して入社したわけじゃない。飲み会の席で、同期の営業マン達が口々にする、顧客の足元の話。商売なのだから、仕方がない。ずる賢くなることが、出世の近道。そういうのが大人の世界だということは、わかっていた。


 だが、配属先で希望を見た。たるねこの献身的な様は、誠意は、どうあるべきかを説かれているようにも感じた。金で語れない大人の仕事の仕方に、いつか憧れのようなものを抱いていた。いつか、この作品にふさわしい社内報にあたしが仕立てる! というのが、誰にも語ったことのない目標だった。それを涙ながらに語る日が来るとは思いもしなかった。


 山岸さんはそんなあたしの話を黙って聞いてくれた。


「光栄です。続けてきて、本当に良かった。ここ数年で、いえ、ここ数十年で一番うれしいことです」


 空気を読んだ店員がそっとコーヒーのおかわりを注いでいってくれる。それをきっかけにハンカチで鼻を拭うあたしを笑いながら、山岸さんは言った。 


「七七七種類、とか馬鹿げているでしょう? 書き始めたときは、まさかそんなに続くとは思っていませんでしたから、適当だったんですよ。しかしこうして手が届きそうになると、名残惜しさを感じないといえば、嘘になります。――そこで」


 そして真剣な眼差しで、続けた。


「浅見さん。続きを、書いてくれませんか」


 その言葉で、あたしの鼻水は止まった。


「私、浅見さんの記事を読んでいます。よく整理されている。言葉の選び方も、センスを感じます。失礼ですが、執筆のご経験があるのではありませんか」

「学生の頃に、少々……と言っても! 本当、趣味、ですから」

「ご謙遜なさらずに。それを言ったら私なんてどうなりますか。こう言うとずるいですが、あなたが書いてくれれば、あの物語は打ち切りにならずに済みます。なにより、ご主人様がどう幸せな未来を掴むのか。浅見さんの書いた未来を、私は見てみたい」


 急な話に、頭が混乱する。あの『たるねこ』を、あたしが?


「これは思いつきではありますが、当てずっぽうではありませんよ。先のお話を聞いて、私は本気でそう思っています」


 思わず首を左右に振り回すあたしに、山岸さんはなおも優しく笑ってくれる。


「と言っても、これは私のわがままです。気負うほどのことでもありません。試してみる、とか、やってみてだめなら忘れてくれていいのです。理屈が必要なら、こう考えてもよいでしょう。私は信頼できる方に託し、健康に集中できる。社内広報は新たな題材を探さなくて済む。そして浅見さんは終わらせたくない作品をその手で継続できる。WIN&WINな良い解決策ではありませんか?」


 WIN&WIN。営業マンがよく口にする言葉だ。だがどうしてだろうか、山岸さんがいうと、こうも美しく聞こえるのは。


「本当に、良いのでしょうか」

「はい。本気で言っています」

「あたしに、できるでしょうか」

「浅見さんなら、できます」

「あたしで、いいんですか」

「浅見さんがいいんです」


 カフェの外は、いつもと変わらない町並みが続いている。

 遠く、オフィスへと続く街道を行く人々の姿を見て、あたしは拳を握りしめた。


「ぜひ、やらせてください」


 与えられた仕事を淡々とこなす日々。それはずっと変わらないと思っていた。ここで決断したことが、どんなにあたしの中で大きなことだったとしても、きっと世間は何ひとつ変わらないだろう。だがそれでも今、たしかに気づいたことがある。


「よかった。これで私も、晴れてダイエットに集中できます」


 たとえ世間が変わらなくても。

 見える世界が変わることはあるのだ。

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