『レオノーラの夜』

 細身の刃を持った長大な刺剣がレオノーラの獲物だった。彼女の剣筋は鋭くも優雅であり、身に纏った華美で豪奢なフロックコートも相まって、まるで近代貴族の舞踏会のようだ。


 レオノーラは自身の心臓めがけて突き出されたロングソードの切っ先を刃で滑らせるように受け、曲線を組み合わせた複雑なヒルトで絡め取ろうと試みたが、相手の男が咄嗟に剣を引いたことで何度目かの膠着状態に陥った。


「ほう……中々どうして、悪くない」


 それは嘲りではなく、レオノーラの本心から漏れた称賛だった。多くの場合、最初の一撃かそうでなくとも数度切り結めば決着してしまう。手頃かつ強力な銃器が普及してからというもの、魔術師は剣技をすっかり忘れてしまったのだ。

 戦争に関する技術の発展に伴い、魔術師は平坦な型に嵌められた。今や大半の魔術師の武器は銃器であり、刀剣を取り出す魔術を持つ者でさえ剣技を磨くことは滅多にない。そういった意味で、レオノーラに相対する男は特異な存在だった。


「惜しいな、摘むには青すぎる」

「そちらは歳を取りすぎだ。そろそろ引退したらどうだ」


 男は左足を後ろへ、右足を前に出し、両手で握ったロングソードの切っ先を正面に下げた。愚者の構え――無防備に見せ、突っ込んで来た敵を跳ね上げた切っ先で刺し貫く構えだ。人間と吸血鬼の間に存在する絶対的な体力差を鑑みると、戦いが長引けば長引くほど男は不利になる。故にリスクを背負ってでも突きで仕留める心持だった。


 対し、レオノーラは左足を引いて半身の姿勢を取り、右肘を曲げて手の甲を上へ、ヒルトを掌で包むように構える。手首を支点として刃は水平になり、こちらの切っ先も男の心臓を向く。

 迎撃の構えを取るのであれば、あえて正面から突っ込む。ただ勝つのではなく、圧倒的な力量差を見せつけた上で勝利する。それがレオノーラの戦闘美学なのだ。


 重く垂れた雲の切れ間から月光が差し、男が構えるロングソードの刃を際立たせた。濡れたような輝きは、刃に塗布された吸血鬼狩りの聖油だろうか。


 殺意の籠った視線がぶつかる。十秒、二十秒と無言の睨み合いが続く。


 先手を打ったのはレオノーラだった。極端な前傾姿勢からの目にも止まらぬ突撃。男はその姿を捉えることは出来ずとも、ロングソードの切っ先を跳ね上げ、想定されるルート上へ刺突を設置する。渾身の力を込める必要はないのだ。ただ剣先を向けてさえいれば、高速で突っ込んでくるレオノーラは自らの身体を貫くことになる。


 無論、それで勝てると考えるほど男は傲慢でも無知でもなかった。剣士にとって突きは必殺の一撃だが、相応にリスクも高い。身体の奥深くを傷つける刺突は致命的であっても、筋肉を断つ斬撃に比べると行動を止める力は低く、相打ちに終わることも珍しくない。

 

 それでも、男にはこれ以外の手段が無かったのだ。高位の吸血鬼を前に勝利へのプランを考える暇はない。刺し違えてでも殺す、ただそれだけを考える。


 レオノーラは勢いを緩めず、待ち受ける切っ先に対し突きを放った。刺突には刺突を被せる、剣術での常套手段。脆弱な先端での鍔迫り合いを避け、肉厚な根本付近まで刃同士を滑らせる。甲高い金属の悲鳴が上がり、火花が散った。


 ロングソードを持っていかれそうになり、男は堪らず左手でリカッソを掴んでしまう。失策だった。驚異的な膂力を前に、男の不格好なポールウェポンのような構えが崩れる。

 腰の短剣を抜いて腹を裂く、左手の貫手で心臓を抉る――レオノーラには無数の選択肢があり、いずれも勝利に直結していた。しかし、これは剣での戦い。であれば、決着も剣でなければならない。


 もう一段階ぐっと踏み込み、今度こそヒルトでロングソードの切っ先を捉える。手首をくるりと回すと、ロングソードはあっけなく男の手を離れた。

 柔らかく振るった裏刃で喉を切り裂き、返し刀で心臓を突く。骨を避け、肉を裂く刀身の感覚がレオノーラに伝わった。迸る命の熱が、戦いの狂熱が急速に冷めてゆく。


「褒美を取らす……さあ、死ぬんだ」


 レオノーラは頽れる男の身体を抱き留め、弱りゆく心臓の鼓動を聞いた。

 男が死ぬまで、レオノーラはそうしていた。



 躁にも似た興奮が冷め、世界のコントラストが暗く、くすんで見えた。時代に取り残されたレンガ造りの時計塔、今や無遠慮な極彩色のホログラム広告に汚されてしまった尖塔に立ち、レオノーラは電話を掛けた。


「……終わりだ、モニカ」

〈あなたが電話を掛けてきたということは、そうなのでしょう〉


 相変わらず鈴を転がすような声だった。もう少し大きな声で話しても罰は当たるまいと、レオノーラは思う。


「やる気は十分だが、まだ青い。次はもっと熟した者を寄越したまえ」

〈腕の良い殺し屋を殺されては困ります〉

「しかしだな、これが契約というものだ……報酬は振り込んでおく。次までにまた良さそうな候補を見繕っておいてくれよ」


 自分を殺す為に殺し屋を雇う。それがレオノーラとモニカの間に交わされた契約だった。レオノーラは使い道もなく死蔵した資産を、モニカは立場を活かした人脈を提供する。

 当初その契約は上手くやっているかに思えたが、レオノーラが三人目を殺し屋を難なく撃退したあたりから風向きが変わり、今ではモニカが契約から離脱する道を探しているようにさえ思えた。事実、レオノーラの刹那的な快楽を満たすためだけに腕の良い殺し屋を捧げるのは、モニカにとって面白くはない。


 しかし最早、命を賭した殺し合い以外でレオノーラは満たされない。余りにも長い時間が齎した、退屈という名の病。かつて古代ローマをも襲った病が、レオノーラを蝕んでいた。


「では切るよ、モニカ……よい夜を」

〈それはどうも〉


 レオノーラは芝居がかった立ち振る舞いに努力を要するようになっていた。古くから語られている、傲慢で尊大な吸血鬼のステレオタイプ。自分を演じている間は自分で考えずに済む。芝居の間に人生を遂行した結果、レオノーラは自己をすっかり見失ってしまった。


 時計塔の頂点からレオノーラは下界を眺めた。蜘蛛の巣のように広がった街並みは煌々と照らされ、忙しなく行きかう車のヘッドライトも相まって、まるでよくできたジオラマのようだ。

 

 これが夜なのだ。


  かつて人間は、夜になるとレオノーラのような存在を畏れた。

 夜闇を駆け、美しい女の生き血を啜る鋭い牙と、聖銀の弾丸を携えて対峙する狩人の戦いを、レオノーラは昨日のことのように鮮明に思い出せる。


 思えば、あの時代が吸血鬼にとって最後の黄金期だった。

 科学と魔術。二つの力を持って世界の暗闇を排斥しようとした人間と、神秘の霧を纏った吸血鬼の対立は、進歩主義に対する神秘主義の構図として語られている。

 

  今や夜の帳は極彩色のネオンに剥ぎ取られ、吸血鬼の存在は権利と共に憲法に明示されている。殺人を禁止する代わりに、政府が吸血鬼に毎月四十五リットルの人工血液を供給し始めて早半世紀だ。


 すっかり社会に組み込まれた吸血鬼は、そのアイデンティティを急速に失った。

 一九五〇年代に実施された、特徴的な鋭く伸びた牙の強制切除手術を受けた吸血鬼の認知症や精神病への影響は大きく、現政府は当時の行為が非人道的であったと認め、民間レベルでも複数の支援活動が行われている。


 支配者から一転し、現在の吸血鬼は保護対象だ。


 牙を失い、与えられた血を啜る同族を見る度にレオノーラは背筋が凍るような思いに苛まれる。あれは明日の我が身だと、言外にそう突き付けられている気がしてならない。


「……いいや、私は違う」


 夜への恐れを忘れた人間たちが眼下を闊歩している。

 全ての神秘は消え失せ、捕食の悪意なるものは遠い過去に消えたと信じている。自分たちが無意識の奴隷であることを知らぬままに。


「私は支配者だ」


 レオノーラは黒い霧となり、極彩色の夜に飛び込んだ。

 あるべき夜が、狩りの夜が始まった。

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サイバーパンク短編集 паранойя @paranoia-No6

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