2.『フラットライン-2』

 ひび割れたアスファルトの間に油交じりの水が溜まり、林立するネオンサインを受けて極彩色に輝いていた。両側に違法建築が立ち並ぶ大通りから、更に枝分かれするように無数の細い路地が伸びている。


 午前二時のアウターシティはあちこちの光源に照らされて真昼のように明るく、どの路地も人で溢れ返っていた。様々な屋台の香りと下水の饐えた臭い、人々の喧騒が混ざり、混沌としたスラムの空気感を醸し出していた。そんな中を、フラットラインはコートの襟を立て、目深に被ったキャップで視線を隠して歩く。


 滅多なことでは家から出ないフラットラインにとって約一か月ぶりの外出だった。無数の代替部品オルタナに支持された疲れ知らずの肉体に反し、一歩踏み出すたびに精神的に擦り減ってゆくのを感じる。


 何もかもが鬱陶しい。どこか遠くから漏れ聞こえるダブステップも、焼き鳥のタレが焦げる香ばしい香りも、網膜HUDに投影されるポップアップ広告も、外界の全てが神経を逆撫でする。そんなやり場のない苛立ちを感じていたからだろうか。フラットラインは、背後から自分を呼び止める声に直前まで気付くことができなかった。


「ちょっと、お嬢さん」


 その若い男の声が真後ろから聞こえるまで、まさか自分のことだとは思いもしなかったのだ。それにしても、随分とふざけた呼び方をしてくれるものだ。一瞥くれてやって無視しようと思ったが、紺色の警察制服が目に入り、仕方なくフラットラインは足を止めた。


「……ぁ」


 言葉になり切れなかった、か細い音が喉から漏れた。長い間使われていなかったファーレンハイトの声帯は、想像よりずっと衰えてしまっていたらしい。


「悪いけど、補導させて貰うよ。家はどこ?」

「なんだと……わたしは成人だぞ」


 数度の準備運動を経て、フラットラインの声帯はようやく幾ばくかの調子を取り戻した。絹糸のように澄んだ声が、周囲の雑音に紛れながらも警官の耳へ届く。しかし、それで警官の態度が変わることはなく、むしろ硬化したようにさえ見える。


「分かった分かった。とにかくIDを見せて」


 どうやら警官はフラットラインを未成年だと思っているらしかった。恐らく何十、何百と繰り返したやり取りなのだろう、警官の口ぶりは事務的だ。だが、それはこちらも同じこと。


「撃つなよ、警察官5-0


 フラットラインは右手の甲を差し出し、埋め込まれたインプラント投影装置からIDを提示した。氏名に住所、生年月日の諸々が実体のないホログラムとして宙に浮かび上がる。今頃は警官の角膜に張り付いたコンタクトレンズが警察本部のサーバーに接続され、IDが偽造されたものではないかを確かめているはずだ。


 警官はフラットラインのIDが偽造であると見抜けなかった。態度を軟化させ、ばつが悪そうに帽子を被りなおす。


「これは……とんだ失礼を」

「いいさ、もう行ってもいいかな」


 フラットラインはショーウィンドウに映った自分の姿を見た。全体的に起伏に乏しく、小柄。幼少期からの不摂生が祟ったか、あるいは〈распутицаラスプティツァ〉の所為か……恐らく前者だろう。外見が原因でこのような不利益を被る経験は初めてではないが、こう何度も呼び止められては面倒だ。


 外見に手を加える技術も随分と発展したが、骨格を弄るとなればまた話が違ってくる、らしい。技術的な話にはあまり明るくないフラットラインだが、これから会う相手はその分野のエキスパートだ。話を聞くには絶好のタイミングだろう。

 

「……もう気は済んだだろう。解放してくれ」

「ああ、重ねて失礼。ご協力どうも」

「お勤めご苦労」


 両手をコートのポケットに突っ込み、フラットラインは再び歩き出した。内臓が重いような、憂鬱な夜だった。



 街の中心から外れた一角、六階建ての古ぼけたアパートがフラットラインの目的地だった。ひしゃげた空き缶や煙草の箱が散らばるエントランスに入り、僅かな希望を持ってエレベーターに向かい、張り紙の『故障中』という文字を読んだ。


 今日こそは直っているかと思ったが、銀色の両開きドアは相変わらず沈黙している。フラットラインはこのエレベーターが動いている所を見たことがない。アウターシティ自体がそうであるように、壊れたものは忘却され、そのまま朽ちてゆくのだ。


 やむを得ず、フラットラインは階段を使った。所々手すりの欠けた、滑りやすい急な階段を六階まで。万年運動不足の身には響くが、これ以外に方法はないのだ。


 六階にたどり着き、ようやくフラットラインは一息ついた。埃臭い湿った空気を肺一杯に深呼吸し、硬いコンクリートの廊下を突き当りまで進み、分厚い鉄製のドアを叩いた。防弾ガラスが嵌め込まれた覗き窓と四方がリベット止めされた姿は、古き良き時代の刑務所を連想させる。


「私だ、フラットラインだ」


 覗き窓の仕切りがスライドし、虚ろな双眸が現れる。数秒視線が交差した後、盛大な金属音を立てて錠が外された。


「よう、変わりないか」

「それを調べて貰いに来たんだ」

「ははっ、それもそうか。入ってくれ」


 出迎えたのは、戦闘用の代替部品オルタナを装着した長身の男だった。板金鎧のガントレットを思わせる黒い義手の左腕が重厚なドアを開け、人ひとりが通れるだけの隙間を作る。漏れ出た温かい空気と花の甘い香りがフラットラインの頬を撫でた。


「上着を預かろう。飲み物は?」

「水か、あれば経口補水液を」

「経口補水液……ラボを見てこよう」

「なければ点滴でも結構だ」


 どちらかといえば点滴の方が喉を使わずに済む分好ましかったが、そう思った時には男はもう部屋を出た後だった。


 一人になり、誰もいない部屋を見回した。隅々まで清掃が行き届いており、窓際には季節の花が花瓶に生けられている。フラットラインの知る限りファーレンハイトは掃除や花に興味を示すタイプではないので、他の全てと同じようにあの男の仕事と見て間違いないだろう。


 二人の間の何があったのかは定かではないが、男はファーレンハイトに心酔しているらしかった。男はファーレンハイトの手となり足となり、日常の雑事に至るまでを熟している。騎士と呼ぶより、どちらかといえば従僕の方がしっくりくる――従僕を騎士と呼び習わせば、せめて名誉があるものだろうか。


 さほど間を置かず、男が戻ってきた。その手には水も経口補水液も、点滴も持たないまま。


「アンジェが呼んでる。点滴はあるから好きに使えってさ……僕は少し席を外すからな」

「どこへ行く」

「買い出し。彼女、スシが食いたいらしい」


 義手の人差し指に引っ掛けた自動車の鍵をくるくる回しながら男は出ていった。出前を取れば済むような気もするが、他人の行動にいちいち口出しする趣味はない。


 壁に設けられた簡素なドアのドアノブを捻ると、不透明なビニールのカーテンが視界を塞ぐ。ここから先はファーレンハイトのラボだ。建物の構造を考えると奇妙な構造だが、聞く話によるとワンルームを二部屋買ってぶち抜いたらしい。そんな金があるならまともなエレベーターがある家に住めと思わざるを得ないが、まあ所詮は人の勝手だ。


 厚手のビニールを潜った先で、白衣姿のアンジェ・ファーレンハイトがスツールに座っていた。フラットラインの存在に気付いてはいるようだが、タブレット端末を見たまま目を寄越そうとしない。


「こんばんは。適当に座ってよ」

「ああ、点滴を貰うぞ」


 診療台以外に座れそうな場所がなかったのでそこに座り、冷蔵庫から取り出した高カロリー輸液のバックを左腕のポートに接続した。後は代替部品オルタナ任せれば全て上手くいく。


 先程の部屋とはうって変わって、ラボは酷く乱雑としていた。机の上には大小様々な形状の器具や電子部品が散乱し、床には作りかけと思しき代替部品オルタナが無造作に放置されていた。見る限りでは左脚のようだが、恐らく完成することも誰かに装着されることもないのだろう。


「最近調子どう?」

「問題ない」

「そっか、じゃあ横になって」


 診察台に横たわり、無機質な白い天井を眺める。右腕のポートにケーブルが接続され、一瞬脳が圧迫される感覚が走った。自己診断プログラムを診断するプログラムが起動した証だ。月に一度、見張りの見張りをし、部品の劣化をチェックする。それがフラットラインが月に一度ファーレンハイトの元を訪れる理由だった。


「……大丈夫だね。何も問題なし」

「そうか」


 ケーブルが抜かれ、わずか数分の点検が終わった。後は点滴が落ち切るのを待ち、それでフラットラインの用事は終わる。また一か月後の外出を思うと気が重くなるが、こればかりは仕方のないことだ。


「で、もう帰るの? お寿司来るけど食べてかない?」

「いや、固形物は食べない。それより相談がある」


 相談という珍しい響きに、ファーレンハイトが作業の手を止める。


「聞くだけ聞いておこうか」

「体を大きくしたい」

「豊胸とか?」

「胸の話じゃない、骨格だ」


 求めているのはシリコンではなく、チタンやタンタルの強化人工骨だ。あの男のように油圧サーボや暗器を仕込むまでとはいかなくとも、威圧的な外見になればそれだけトラブルも減らせると考えていた。


「技術的には可能だけど……」

「だけど?」

「かなり面倒だからやめた方がいいと思う」


 ファーレンハイトはくるくるとペンを回しながら思案する。右斜め上、どこか遠くを見つめるのが彼女の癖だった。


「四肢の代替部品オルタナは簡単だけど、胴体の施術がネックだね。骨延長はともかく、筋肉とか血管も合わせなきゃいけないし……キミの場合だと二、三センチじゃ気が済まないでしょう?」

「二十センチは欲しい」

「そこまで来ると身体を作り直すような話だよ」


 人体の神秘が徹底的に暴かれた現代においても、人類は完全に新たな肉体の獲得には至っていない。まずベースとなる生まれ持った肉体があり、そこに機能を持っていくのが代替部品オルタナ技術の本質だ。そもそも、生命の創造は錬金術や魔術の分野であることはフラットラインも承知だった。


「キミはコンピュータになりたいんでしょ? それなら現世の肉体に捕らわれる必要はないと思うけど」

「しかしまだその壁は高く、わたしは肉に捕らわれて生きるしかない、と」

「珍しく悲観的だね」

「わたしが心配しているのは、倫理などというものが技術の発展を妨げはしないかということだ」

「大丈夫」


 ずい、とファーレンハイトが顔を寄せる。


「人類史上一度もそんなことは起きてないし、これからも起きないよ」

「だといいが」


 点滴の最後の一滴が落ちた。フラットラインは重い腰を上げる。


「それでは失礼する」

「うん、また来月――それと最後に忠告を」


 珍しい響き。今度はフラットラインが耳を傾ける番だった。


「キミは完全に改造中毒になってる。もし望むなら良いカウンセラーを紹介できるから……その時は言って。これは技術者じゃなく友人としての言葉だよ」

「……心に留めておく」


 ファーレンハイトの言葉は真摯に心を打ったが、フラットラインの気を変えはしなかった。次には声帯の改造が控えているし、その次には脊髄を更にアップデートするつもりだ。


 倫理観などかなぐり捨てろ。

 トートロジーを受け入れろ。

 

 そうやってファーレンハイトは生きてきた。これまでも、きっとこれからもそう在り続けるだろう。

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