1.『フラットライン』

 フラットラインの四肢が朽ちたのは、爽やかな新緑が色付き始めた初夏のことだった。


 あの頃の彼女はまだ脊椎を除いて生まれ持ったままの肉体で、フラットラインと呼ばれてもいなかった。それでも既に名の知れたブラックハットの一人であり、秘密情報部の電子戦担当課、即ち〈ルーム18〉の一員として名を連ねていた。


 その日彼女は任務でソビエト軍のメインフレームに潜水し、そこで〈распутицаラスプティツァ〉に感染したのだ。


 作用は急激かつ鮮やかで、徹底的だった。

 まず最初の数分で培養脳を用いた生体ファイアウォール三台が腐り、次に彼女の右腕へとアポトーシスの波が押し寄せた。


 〈распутицаラスプティツァ〉は特殊部隊が用いる強襲用ポッドの人工筋肉を、証拠隠滅のため自死させるプログラムを転用したコンピュータ-ヒト感染ウイルスで、当時は都市伝説的に語られる存在でしかなく、有効な対処法も開発されていなかった。


 腐敗が右腕から左腕、右脚から左脚へと進行する間に彼女の同僚たちに出来たことといえば、せいぜい脊髄からケーブルを外し、自分の四肢が黒く変色を始めていないか確かめるくらいだった。


 ストレッチャーに乗せられて医務室に運ばれるまでの僅か数分の間に、彼女の四肢は雪解け期の泥のように腐敗した。

 早期に痛覚が破壊されていたので痛みは感じなかったが、代わりに意識は明瞭だった。腐敗が心臓に辿り着いた瞬間、自分はコンピュータの電源を落とした時のようにプツリと死ぬ。流れゆく天井の白色LEDを眺めながら、そう思ったのを彼女は覚えている。


 しかし、彼女はシャットダウンされなかった。個人的な用件で秘密情報部を訪れていたアンジェ・ファーレンハイトとの偶然の出会いは、まさしく奇跡と呼んで差し支えないだろう。


 状況を確認するや否や、アンジェはどこかに電話を掛け、二枚の紙を突きつけた。一枚は死亡診断書、もう一枚は手術同意書だった。猫のような赤い瞳を鈍く輝かせ、アンジェは言った。


「このまま死ぬか私の玩具オモチャになるか、どっちがいい?」


 彼女は後者を選んだ。


 地下深く、秘匿された研究所で施術が行われた。

 混ざり血の魔術と実験的な代替部品オルタナを用い、アンジェは一本線フラットラインを描いていた彼女の脳波と心電図を再び波打たせたのだ。

 

 そうして彼女はフラットラインとなった。


 元より優れていたブラックハットとしての才能と、アンジェが設計した実験的代替部品オルタナが合わさった結果、フラットラインは世界中のありとあらゆるネットワークへと侵入できるほどの力を手にしたのだ。


 最終的には軍を追われ、社会の敵パブリックエネミーの一員となってしまったが、後悔はない。


 自らの身体を疎んでいたフラットラインにとって、〈распутицаラスプティツァ〉とアンジェ・ファーレンハイトとの出会いはまさしく天啓であったのだ。



 怨嗟のような唸りを上げる無数のサーバーに囲まれ、フラットラインは接続されていた。束ねたケーブルを脊椎に刺し、椅子に深く凭れるその姿はどこか儀式めいていて、一種の神聖な静謐さがあった。


 かつて電子の海に潜る際に必要だった各種デバイスはもはや必要なく、通信の安定性を多少妥協すればケーブルで有線接続する必要すらない。しかしそれでもフラットラインがコンピュータと身体を繋ぐのは、肉体の精神的な不安定さがどうしようもなく耐えがたいからであり、物理的に接続している間だけは解放されるからだ。


 肉体を捨て、完全にコンピュータと一体化すること。


 それがフラットラインの最終目標だ。故に企業から盗み出したデータを売り捌き、その金でテセウスの船が如く新たな代替部品オルタナを更新し続けている。

 アンジェが制作したブラックボックスと化している一連の代替部品オルタナは抜きにしても、周辺のサードパーティ製品は十分に検討の余地があった。


 どれだけの時間や費用を費やそうとも、必ずや肉体を捨てて見せる。結果的に生を失うことになったとして、〈死〉というより安定的な状態に移行することに変わりはないのだから。


「……さて」


 誰にでもなく、か細く殆ど聞き取れない声で呟き、静かに目を閉じた。刹那、白い氷に覆われた大地が意識に表出する。


 ファーレンハイトは海月のように宙へ浮かび、氷砕船アイスブレーカーを出航させた。青く透き通った古めかしい帆船が氷に向かって高速で突撃、砕けた氷塊が舞い飛ぶ。厚い氷の奥、深く隠されていた電子の海へと、ファーレンハイトは彗星のように飛び込んだ。


 仮想海。この電子の海はいつからかそう呼ばれている。


 セキュリティーソフトはサメやダイオウイカなどの捕食者として描画され、深く潜れば潜るほど水圧――処理しなければならないデータ量も増加してゆく。現実感がないほどに美しく、幻想的な場所だが、これは紛れもない現実だ。仮想海での死は、そのまま現実での死を意味している。


 広大な海中に、何人かの眩い光の粒子を纏った同業者の姿が見えた。みなそれぞれの目標に向かっているのだろう。しかしフラットラインの狙うデータを先取りされる可能性もゼロではなく、そう考えるとじっとしてはいられなかった。


 負けじとフラットラインも後を追う。

 サイバースペース・ダイバーの集合的無意識によって産み出された仮想の海を、深海へと潜ってゆく。


 フラットラインの狙いは、代替部品オルタナ製造メーカー〈タケシタ電脳有限公社〉が抱える機密データだ。それは仮想海の最深部、通称〈マリアナ〉と呼ばれる場所に位置している。

 

 水深一万メートルの深海では、全身の八割近くを代替部品オルタナに換えているフラットラインでも数分の活動が限界だ。


 魚群となって泳ぐジャンクデータには目もくれず、フラットラインは暗い水底へと潜航する。不正ダイバーに目を光らせているサメは、フラットラインに気づく素振りもなく真横を通り過ぎて行った。脊椎に刻まれている〈不可視〉のルーンが正常に機能している証だ。


 フラットラインが注意を払うべきはアンチウイルスソフトより増大するデータ量の方だった。仮想海は逆円錐形の構造となっており、深海で処理しなければならないデータ量は脳のスペックを優に超える。


 四千メートル、五千メートルと潜るにつれて、フラットラインの視野から少しづつ色が褪せていった。脳の色を認識する部位のリソースをデータ処理に割いているためだ。


 暗い海中を、白く輝く鯨が悠々と泳いでいた。時折大きな口を開けジャンクデータ群を飲み込み、光の粒子に分解して吐き出している。

 白鯨と呼ばれる仮想海の分解者は、サイバースペース・ダイバーの間で最も恐れられる存在だ。一度でも飲み込まれてしまえば最後、もう助かる術はない。


 白鯨に見境などなく、プログラムされた経路上に存在する全てを喰らう。積極的な捕食を行うサメとは異なり、無差別な捕食を行う白鯨の前では〈不可視〉のルーンの有無は大した問題ではないのだ。


 フラットラインは速度を更に上げ、下方へ広がる深淵に鋭く切り込んでゆく。水圧が増し、脳がデータに圧迫される感覚が不愉快な生を実感させた。果たしてコンピュータとなったところで、生理的不快感と完全に離れることができるのだろうか……ぼんやりと考える。


 培養動物脳による平行処理を行わないフラットラインは、いつしか――オーウェル的な意味ではなく、より物理的な――二重思考を身に付けていた。脳を半分に分け、データの奔流を処理しつつ思索に耽る。そういった意味での二重思考。


 ポッドの中でバイオジェルに浮かぶ培養動物脳を見るたびに、フラットラインは羨望と感動が内から湧き上がるのを抑えられない。いつかは自分もああいう風に――贅沢は言わずとも、厄介な生きた肉を葬り去りたいと思わずにはいられない。


 私は、フラットラインとは、この思考そのものなのだ。

 束ねられ、木の根のようになったケーブルを介し、身体とコンピュータを行き来する電気信号こそがフラットラインだ。


 脳が内側から膨張するような感覚がして、側頭部付近の血管が刻む規則正しい脈動を皮膚が伝えていた。生命の鼓動に不快感を覚え、フラットラインは逃れるように潜る。


 思想にノイズが混じり始め、水深八千メートルの深海に到達したことを悟った。ここから先が〈マリアナ〉であり、様々な機密データが眠る海底遺跡群への入り口だ。


 下方の海底遺跡群が放つぼんやりとした薄明かりが、音もなく降るマリンスノーを浮かび上がらせていた。死んだサイバースペース・ダイバーの記憶が、無意味なデータの断片として降り注いでいる。それは誰にも見向きされることなく降り積もり、やがて仮想海そのものとなるだろう。


 海底に鎮座する輝ける巨大なピラミッドが、〈タケシタ電脳有限公社〉のデータだ。迎撃用の装置が配備されていないのは、深海では水圧そのものが強力な武器となるからだろう。〈マリアナ〉まで潜り、その上でデータを盗めるようなダイバーはそう多くない。


 フラットラインは脳の全領域をデータ処理に回した。呼吸や体温調節さえも放棄し、生命維持を代替部品オルタナに委ね、ピラミッドに飛び込む。


 時間はかからなかった。目的のデータを複製し、離脱。これまで何十、何百回と繰り返してきたことだ。

 ピラミッドの管理AIが異変に気付いた時、既にフラットラインは水深七千メートルまで上昇していた。


 あと数分もすれば〈タケシタ電脳有限公社〉の上層部が招集され、セキュリティー部門の担当を何人か飛ばして通常営業へと戻るだろう。いつものように。


 突如失職することになるどこかの誰かに同情しつつ、フラットラインは現実へと帰還する。

 ログアウト際にふと振り返った海中では、今もダイバーたちの人生の残滓が揺蕩っていた。

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